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愛されることは望んでいませんから

作者: りすこ

 パメラは変わった娘だった。


 彼女の生い立ちは複雑で、パメラが七歳の時に母が病死。

 母親を愛していた父親は、目にもあてられないほど、嘆き悲しんだ。

 母親に似ていたパメラを見るのが辛くなり、父親はパメラを孤児院に行かせることにした。


「パメラ、行きましょうね……」


 シスターに連れられて家を出るとき、憔悴しきった父親の背中をぼんやりと覚えている。

 何度も微笑みかけてくれた顔は扉が閉まる最後まで、パメラを見ることはなかった。


 十二歳まで孤児院で暮らしていたパメラは、突如、現れた母方の曾祖母に引き取られることになる。

 なんでも、駆け落ち同然でいなくなった孫とひ孫を探していたのだそうだ。


 母方の血筋は貴族だったが、名だけが古く没落寸前であった。

 パメラという切り札を使って家を建て直したいらしく、自分は家の駒とされることが決まっていた。


 曾祖母の屋敷でパメラが与えられたものは、淑女としての教育。

 そして、食事と寝床。

 家族としての情はなかった。


 やがて十八歳になったパメラは爵位を継いだばかりの新進気鋭の男爵家との結婚が決まる。

 お金を得るための政略結婚。

 よくある話に、パメラも身を投じた。


 夫となるアドニスは冷徹な人だった。


「君は子供さえ産んでくれればいい。他には何もするな。仕事のことも口を出さなくていい」


 初めて顔を合わせた時にそんなことを言われて、びっくりしてしまった。

 愛も何もない結婚。

 普通なら嘆き諦め無気力になるところだが、パメラは違った。


「旦那様が愛してくれないのなら、それでもいいわ。でも、ギクシャクしては生まれる子供によい影響がないだろうし、なるべく仲良くしましょう」


 パメラはアドニスが出ていった部屋で、朗らかに笑った。

 彼女はどんな境遇も幸せを見つけ、それを慈しむ心があった。

 要は全然、へこたれなかったのである。




 嫁いだ先の男爵家でもパメラに対する態度は冷たかった。

 誰もが最低限の会話しかせず、空気はギスギスしている。

 爵位を継いだばかりのアドニスの性格をそのまま反映しているかのようだった。


 それでも、机にかじりついて日がな一日、やれ勉強だの、ダンスだの、刺繍だのと口うるさく言われないので、パメラにとっては天国だ。


 しかし、そんなパメラを悩ませる事が一つあった。

 お風呂が水のままだということだ。


 毎夜、贅沢に用意された水だが、今は雪の降る季節で、そのまま浸かると風邪を引いてしまう。

 悩んだ末、パメラはお風呂の水を自分で沸かすことにした。


「せっかくの水を無駄にはできないわ。沸かして温かいお湯にしましょう」


 せっせと薪をくべ、温かいお湯を沸かすパメラを見て、侍女たちは仰天した。


「奥様……何をしているのですか?」

「お風呂の水が冷たいから、沸かしているのよ。せっかくの水、飲むわけにもいかないし、もったいないもの。あ、沸かしたら皆さんも入らない? 私一人だけではお湯がもったいないわ」

「お、奥様と入るなど恐れ多いです」

「そうなの? ごめんなさい。孤児院にいたころは皆で大衆浴場にいっていたの。月に一度の贅沢だったわ。ふふっ。あ! でも、入りたくなったら声をかけてね」


 にこっと笑ってパメラは、せっせとお湯を沸かし始める。

 それを見ていた侍女は嫌がらせに水を張ったなどとは言えず、かといって手伝いもせず、パメラの様子を見守った。


 たっぷりのお湯で入るなんてとても贅沢だ。

 お湯を沸かす労力なんて、吹き飛んでしまう。


「はぁ~、幸せだわ。でも、やっぱり一人で入るのはもったいないわよね。明日は皆さん、入ってくださらないかしら?」


 どうしたら皆が入ってくれるだろうと思案したパメラはひらめいた。


「そうだわ。薬草を入れてみましょう。疲労回復に効果があるものなら、疲れた皆さんも入ってくれるかも」


 そう考えたパメラは翌朝、庭師の所へ向かう。

 初老の庭師は偏屈で無愛想だった。

 しかし、庭が美しく飾られていることからパメラは、腕の良い庭師ではないかと思っていた。


「薬草だと……?」

「はい。お風呂に入るときに入れたいんです」

「疲労しているようには見えんが」

「私ではなく、皆さんにです」


 にこっと笑ったパメラに庭師は驚く。


「使用人たちにか? はっ。点数稼ぎでもしたいのか」

「点数稼ぎというか……私、お湯を沸かしてお風呂に入ってるんですが、一人では入るのはもったいなくて。疲労回復の薬草を入れたら皆さんも入りやすいかと思いまして」


 パメラは変わらぬ笑顔で言うと、庭師はギョッとした。

 そして鋭い目付きでパメラを見る。


「ここの使用人達がお前さんを嫌っているのを知ってそんなことを言うのか」

「はい」


 淀みない澄んだ声でパメラは返事をする。

 パメラは人の悪意に鈍感ではなかった。

 歓迎されていないことなど知っている。

 しかし、パメラはそれでもできうるなら仲良くなりたいと思っていた。


「皆さん、私よりずっと働いていますもの。少しでも疲れが取れたらと思ったんです。あぁ、もちろんお湯がもったいないのもあるんですけどね」


 ふんと鼻息荒く言うパメラに庭師は豪快な笑い声を出す。


「はっはっはっ! 随分と、頼もしい奥様がきたものだ」


 なぜ笑われているのか分からず、パメラに瞬きを繰り返す。

 庭師はひとしき笑いおえると、彼女に薬草を渡した。


「持っていけ。使い方はわかるか?」

「いえ、教えてくれますか? あ、待ってください。メモを取るので」


 そう言うと、パメラは身につけていたポケットから、手のひらサイズの乳白色のメモ帳を取り出す。

 雪が薄く積もる庭では、手がかじかみ、うまくペンが動かない。

 それでも、白い息を吐きながら、パメラは教えられた薬草の使い方と種類を庭師から学んでいった。



「よし、始めるわよ」


 パメラは今日も薪をくべて、お湯を沸かす。

 沸いたお湯をせっせと湯殿へ運び、お湯を溜めていく。

 たっぷりのお湯に薬草を入れてかきまぜれば、薬湯風呂のできあがりだ。


 その仕上がりにパメラは頬を薔薇色に染めて喜んだ。


「さぁさぁ、皆さんもどうぞ!」


 無理やり侍女たちの腕を引っ張って、パメラは薬湯風呂を勧めた。

 困惑気味の侍女たちだったが、屈託なく笑うパメラに押しきられて、風呂に入ることになった。

 毎夜、文句ひとつ言わず、一人でお風呂を沸かすパメラの様子を見ていたせいでもある。

 孤児院出の領主夫人など認めたくない。

 主であるアドニスの不在をいいことに、パメラに冷たい態度をしていた侍女たちは、すっかり態度を軟化させていた。


 この奥様は、本当に我々のことを気づかってくださっている。


 それにようやく気づいたのだった。


 薬草のお風呂は思いの外、好評だった。さすがにパメラと一緒に入るのは遠慮されたが、疲労回復のお風呂は冬の季節に喜ばれた。


「そうだわ。皆さん、ご存知? 足のここを押すと足の疲れが取れるのよ」

「ここですか?」

「もう少し下ね。失礼」

「あいたたたたた! 奥様、痛いです!」

「もう少しだけ我慢してね。疲れがすっと取れるし、足のむくみにもいいのよ」

「あら、本当……」


 パメラの夫人らしくない振る舞いはしばし使用人たちを驚かせたが、自分達と感覚も近く、なによりパメラの明るい笑顔と好意に使用人たちは馴染んでいった。



 そんな日々を過ごしていたある日。


「え? 旦那様がお帰りですか?」

「はい。明日はこちらにお戻りです」


 結婚してから忙しいのか夫となったアドニスに会うのは二度目だ。


「どうしましょう。私、旦那様のことをすっかり忘れていたわ」


 あまりに屋敷に馴染みすぎてパメラの頭から夫の存在が消えていた。

 自分の忘れっぽさに呆れてしまう。

 だが、落ち込んでいる暇はない。

 愛のない結婚だが、できれば仲良くなりたい。

 しかし、パメラは夫のことは何も知らない。好みも趣味も。


「すみません。旦那様のことを教えてくれますか? せっかくお帰りになるんだもの。気持ちよく過ごしてもらいたいわ」


 パメラがそう言うと執事は暗い顔をした。


「奥様は先代ご夫妻が急逝したことをご存知ですよね?」

「ええ……お父様とお母様が二人とも事故で亡くなられたと伺っています」

「……旦那様は二人を亡くしてから変わられてしまいました。過度なプレッシャーから使用人たちにも自分にも厳しくなられて、奥様が来るまで、この屋敷は荒んでいました」


 執事は深々と、頭を下げる。


「今までのご無礼をお許しください。そして、どうか旦那様…いえ、坊っちゃんをお救いください」


 その願いにパメラは、顔を上げてくださいと声をかける。


「私にできることなら何でもします。だから、もっと旦那様のことを教えてください」


 パメラの朗らかな声に執事の年老いた目尻がゆるりと下がった。



 ◆◆◆ sideアドニス



 屋敷に戻る帰りの馬車でアドニスは憂鬱な顔をしていた。

 ズキンと頭痛がする。

 彼の頭痛の原因は爵位を継いだばかりの自分への嫉妬とやっかみに晒されていたからだ。

 若いというだけで、どうしてああも酷い言い草をされなければならないのか、アドニスは理解ができなかった。


 それともう一つ、屋敷には妻となった女がいることも憂鬱だった。

 家名が欲しいためとはいえ、愛してもいない女と肌を合わせるなど嫌な気分だ。

 女との結婚は父の意向だ。

 そうでなければ、誰が孤児院出の女など妻に娶るか。

 一回だけ会ったが、たいして美人でもなかった。

 ただ、何がそんなに可笑しいのかずっと女は笑顔だった。

 それがたまらなく不快だった。


 屋敷についたアドニスは驚いた。

 一歩入った屋敷は少しみないうちに華やいでいた。

 玄関ホールには紫色と白のアネモネの花が生けられていた。


(……母上が好きだった花だ……)


 冬にはこの愛らしい花を見るのが好きなのよね。

 そう亡き母が言っていたのを思い出す。

 コートを脱ぐのもの忘れて花を見つめるアドニスの耳に明るい声が届く。


「お帰りなさいませ、旦那様」


 はっとして顔を声の方に向けると、深々と頭を下げる女がいた。

 顔を上げた彼女を見て、あぁ、と思い出す。

 妻となった女だった。


(名前は……確か、パメラだったか……)


 一度目は結婚が嫌でしかたなく、彼女の姿を一瞥したのみだった。

 が、よくよく見ると可愛らしい面立ちをした女だった。


 頬は薔薇色で、アドニスに向かって慈愛の眼差しを送る瞳は、淡い空色だった。

 クリーム色の髪はくせっけのようでふわふわとしていた。

 触れたらさわり心地がよさそうだ。

 つい手が伸びそうになる。


 と、そこまで考えてアドニスは首を振る。


(……何をしようとしているんだ……)


 まるで、母がいた頃の穏やかさが戻ってきたかのような雰囲気につい絆されそうになった。

 あの優しさは無くしたものだ。

 もう戻ってくることはない。


 わざとらしい咳払いをして気を取り直し、帽子を脱いだ。

 はらりと、帽子に積もっていた雪が床に落ちる。


「お持ちしますわ」


 そう言って手を伸ばしてきたパメラに思わず帽子を引く。

 あからさまな態度を取ってしまった。

 キョトンとした瞳とぶつかり気まずくなる。


「君がすることではない」


 視線を逸らして、短く言うと近くにいた使用人に帽子を渡す。

 そんな態度のアドニスに、パメラは気にすることなく笑顔でお辞儀をした。


「食堂で待ってますね」


 あっさりと引き下がったことに驚きつつ、またズキンと頭痛がして、眉間に刻まれたしわを指で伸ばした。


 ***


 食堂に行ったアドニスを待っていたのは懐かしい料理だった。

 母がよく好んで食べていた鴨肉のローストと、自分が好きなソーセージ入りのトマトベースのポトフが並んでいる。


「旦那様が好きなものとお伺いしたので、今日は料理人の方と一緒に作りましたのよ」


 ふふっと弾むように笑うパメラの声に、アドニスの頭痛が酷くなる。


「余計なことをしなくていい」


 このポトフは母の故郷の味だ。

 母もよく台所に自ら立ち、料理をしていた。

 それをよく知りもしない女が再現するなど思い出を汚されたようだった。


 ズキン、ズキン。頭痛が酷くなる。


「すみません……旦那様の好きなものを覚えておきたくて。出過ぎた真似をしました」


 しゅんと項垂れるパメラを見て、アドニスは無言になる。

 謝るのさえ、憎たらしかった。

 どうせ媚を売っているだけだ。

 打算のない人間などいないのだから。

 アドニスは一口、スープを飲む。それは懐かしい味だった。


「どうですか?」

「……母のとは違うな」

「そうですか……」


 咄嗟に嘘をついた。

 味は母の作るものとよく似ていた。

 それが悔しくて嘘をついた。


 ズキン、ズキン、ズキン。

 頭痛は酷くなるばかりだった。


 ***


 食事を終え、しばらくすると風呂の時間だと言われて行ってみると、なぜか、風呂に薬草が浮いている。

 執事に聞くと、彼女の気遣いらしい。


「旦那様は頭が痛いのかもしれない」と言って彼女は頭痛に効く薬草を風呂に入れたらしい。

 余計なことを……と思いつつ、風呂に浸かると体の芯が温まった。

 その心地よさが、むず痒く不快だった。


 風呂から上がって暫くした後、部屋のノックをする音がした。

 声をかけると、扉の奥で彼女の声がした。

 夜伽をするためか?と不快感が顔に出てしまう。

 しかし、失礼しますと言って、扉を開いた彼女の手には、カップがあった。

 それに呆気にとられる。


「旦那様。頭痛に効くハーブティーをお持ちしました。宜しければお飲みください」


 パメラは机にカップを置いた。それに不快感が募った。


「余計なことをしなくていいと言っただろう」


 つい声を荒げてしまった。

 土足で自分の居場所を踏み込む女に苛立つ。

 アドニスは乱暴にパメラの手を掴むと、ベッドに押し倒した。

 両手首を捕らえ、縫い付けるようにベッドに拘束する。


「お前はただ、子を産めばいい。余計なことはするな」


 低い声で侮蔑の眼差しを向け、吐き捨てるように言う。

 乱暴に手の拘束を解き、体を起こした。

 ここまで脅せば態度を改めるだろうとアドニスは思ったが、パメラはどこまでも変わった娘だったのだ。


 パメラは何度か瞬きをした後、急に真面目な顔をした。

「失礼」と短く言い、ベタベタとアドニスの肩や腕を触りだした。

 色気のない確認するような触り方にアドニスは仰天する。

 ひとりしきり確認すると、パメラは触るのをやめて、肩で息をする。


「やっぱり凝っていますね。旦那様。うつ伏せになってください」


 呆気に取られて隙ができた。


「おい」と言う間もなく、ベッドにうつ伏せにされてしまった。

 そしてまたも声を失う。

 パメラは「失礼」と短く言った後、アドニスにまたがったのだった。


「おいっ……!」

「凝りをほぐします。痛かったら言ってください」

「まっ……っ!」


 反論する隙もなくパメラはぐりぐりと背骨を指で押し出す。

 鈍い痛みが走り、眉根がひそまる。

 苦悶の声を拾ったのか、指の力加減が弱くなる。

 今度は痛みはなく、詰まったところが、ほぐされていく気がした。


(なんなんだ一体……)


 予想外の行動に呆気にとられつつ、触られるのが思いの外、不快感がなく力が抜けていく。

 食事といい、風呂といいどうも調子が狂う。


「旦那様、気持ちいいですか?」


 耳元を掠める穏やかな声。

 つい頷きそうになって、低い声でぶっきらぼうに言った。


「……何も感じない」


 また嘘をついた。悔しくて。


「ふふっ。そうですか。では、もっと頑張りますね」


 優しい声が耳に響いて、また悔しくなる。

 むず痒さを振り払うように、目を閉じた。

 父と母が亡くなり、緊張しっぱなしだった体がほぐれていく。

 包むのは心地よい微睡みだ。


 気がつけば眠っていた。


 そして、頭痛はなくなっていた。




 ◇◇◇ sideパメラ


(旦那様は、頭痛持ちらしいわ)


 それに気づいたのは、彼がよく眉間にシワを寄せ、目と目の間を手でほぐすしぐさをしているからだった。

 彼に聞いても素っ気ない態度を取られるだろうから聞きはしなかったが、パメラには確信があった。


 アドニスの変調に気づいたパメラは、頭痛に効くハーブはないか庭師に聞いた。

 庭師は眉を下げて、前から育てていたハーブを教えてくれた。

 それを料理に使ったり、煎じてハーブティーにした。


 アドニスはハーブティーの独特の匂いが嫌なのか、お茶は飲まなかったが、料理は眉根をひそめながらも口にした。

 使用人とパメラが食べろ、食べろと無言の圧を送ったら、根負けしてくれたのだ。


 深いため息をつきながら彼が料理を口にした時、パメラは密かに料理人と「やりました!」と笑いあっていた。



 そして、もっとアドニスを知るべく、パメラは旦那様観察をするようになる。

 彼は口数が少なくいつも怫然としているが、嫌いなものは絶対に口にしないので、案外分かりやすかった。


(旦那様は匂いのきついものが苦手なのね……)


 彼と親しくなるべく、パメラはメモを片手に彼を観察し続けていた。


 夜はせっせと彼の体をほぐした。

 口から入る薬もよいが、体の血行をよくするのも体質改善になる。


 この療法は孤児院に居たときにシスターに教えてもらったものだ。

 寄付金を頼りにしている孤児院はお金がない。

 薬学や民間療法への知識が自然と集まっていた。


 アドニスの凝り固まった体をほぐしながらパメラは思う。


(こんな所で役に立つなんて。知識は多すぎるってことはないのね)


 学んでおいてよかったと、思いながら、せっせとアドニスの硬い体を柔らかくしていった。


 彼は夜のこの時間が好ましいのか、文句を言わずにされるがままになっている。


 彼の好みのことをしていることが嬉しくて、パメラは毎夜、気合いを入れて部屋の扉を叩いた。

 文句は言われないが、パメラが部屋にくると、必ずといっていいほど、何か言いたげな顔をされた。

 視線をさ迷わせる彼の態度に最初は嫌なのかな?と感じたが、「これをすると旦那様はぐっすり眠れますよね?」と微笑みながら言うと、憮然としながらも、ベッドに寝そべってくれた。



 そんな献身的な態度でいると、少しずつではあるがアドニスの態度が軟化してきた。

 少なくとも「余計なことはするな」とは言われなくなった。


 そのささいな変化をパメラは頬を染めて喜んでいた。



 ***



 とある日、アドニスは広間のソファに腰をかけて、新聞を読んでいた。

 それをパメラはじっと見つめている。物陰から。


 何か言いたげに視線が時々、合うが旦那様観察中のパメラは気にしない。

 そのうちに深くため息を吐かれて、声をかけられた。


「……なんだ、その態度は」

「旦那様のお邪魔にならないようにしています」


 パメラは真剣そのものだ。

 彼は眉根をひそませて、低い声で尋ねてくる。


「……なら、なぜメモをとる」

「旦那様観察のためです。お好きなものやしぐさなど、忘れたくないものをメモしています」


 新聞記者のようにせっせとメモをとるパメラを見て、アドニスは、呆れたようにため息をついた。

 そして、指でこっちにこいと合図を送ってくる。


(どうしたのかしら?)



 パメラはメモをポケットにしまい、アドニスに近づく。

 側に寄り、立ったままでいると、彼は自分の横の座面を手で叩いた。


(座れってことかしら?)


 パメラは一礼して、ちょこんとアドニスの横に腰かける。

 触れそうで触れられない距離。

 すぐ真横で彼を観察できるのが、嬉しくてパメラは頬を緩ませた。

 見上げるとアドニスは目線をこちらに向けていた。

 目が合い、微笑みかけるが、彼は新聞で顔を隠してしまった。

 それを残念とも思わず、パメラはまたメモをポケットから取り出して、彼が熱心に読んでいる新聞の種類などをメモしていく。


「………」

「………」


 午後の穏やかな昼下がりの中、新聞を読むアドニスとメモをとるパメラがいる。

 時折、目が合うがパメラが微笑み、アドニスは顔を隠すのを繰り返すだけで、会話はない。


 はらり。はらり。

 アドニスが新聞をめくる音が静かに響く。

 窓の近くにあるソファには太陽から穏やかな光が降り注いでいた。

 二人だけの穏やかな一時。


 その様子をこっそり見ていた使用人たちは、二人の空気を感じて密かに微笑みあっていた。



 アドニスのパメラに対する言葉使いは相変わらず素っ気なかったが、二人の距離は徐々に近づいていった。


 弾むような会話はないが、アドニスの横にはパメラが座り、彼が本を読んでいる間、お茶を飲んだり、刺繍をしたりして過ごすようになっていた。



 お見送りや、お出迎えのときも変化が見られた。

 前は無言で視線を逸らしていたアドニスだったが、最近は一言だが、会話をしてくれるようになった。


 今日もパメラはアドニスを迎えようと玄関ホールで待ち構えている。

 まだかな?と落ち着かないパメラの目の前で扉が開かれる。


「旦那様、お帰りなさいませ」


 扉が開ききる前に誰よりも先にパメラは声を出す。

 アドニスは少しだけ、視線を逸らす。


「あぁ……」


 たった一言だが、パメラに向けられた言葉だ。

 それが嬉しい。


「お荷物をお持ちしますわ」


 手を差し伸べても、もう引かれない。

 無言でいるが、鞄を預けてくれる。

 大事なものを預けられたような気がして、パメラは満面の笑みになった。


 この日はさらにご褒美が待っていた。


 アドニスはわざとらしい咳払いをして、珍しくパメラに声をかけてきたのだ。


「今日のメニューは?」

「夕御飯ですか? 牛スネ肉の煮込みになります」


 メニューなど聞かれたことがなかった。

 よほどお腹がすいているのだろうか?と、パメラはじっとアドニスを見つめる。


 アドニスは忙しなく視線をさ迷わせた後、呟くように言う。


「また……ポトフが食べたい」

「え……?」


 パメラは足を止めて聞き返す。

 アドニスは口元を手で隠して、視線を逸らした。


「……前に作ってくれただろ? だから、また……」


 パメラの頬が薔薇色に染まる。


「まぁ! また、作ってよいのですか!」


 嬉しくて大きな声が出てしまった。

 アドニスは若干、体を引いたが無言で頷く。


「嬉しいです! 明日には用意しますね!」


 弾む心のままに伝えると、彼は少しだけ口元に笑みを浮かべた。


(旦那様が笑っている……)


 その優しい視線にパメラの心臓は高鳴る。

 頬が熟れた林檎のように赤くなっていくのを感じた。

 恥ずかしくて両方の頬を手で隠すように押さえてしまった。


 二人の日々は、春に向かう季節と共に。穏やかな空気に包まれていった。



 そして、またあくる日の休日。

 アドニスはいつものようにソファに座り新聞を読み、パメラは横に座っていた。

 パメラは読まれていない新聞をじっと見ている。それに気づいたアドニスが声をかけた。


「読みたいなら読んでもいい」


「あ、いえ……読んでも分からないことが多いので……」


 困ったようにパメラは笑った。

 新聞を読むこと自体は苦ではないが、アドニスが読んでいるのは経済や物流のことがメインで、古い考えで淑女らしくと、教育を受けたパメラには縁のないものだった。


 アドニスが爵位を継いだファーマン男爵家は領地経営ではなく、投資で財を成してきた家だ。

 爵位も前代から始まったもので、成り上がり、と揶揄されるほど家名としての歴史は浅い。

 その為、パメラの家と縁続きになったわけだが。


 一代で跳ね上がってしまった財に、若い領主、アドニスの性格もあって、何かとやっかみも多い。


 それゆえ、アドニスは領地への視察をパメラと同行することはあっても、メイン事業に関わらせるようなことはしなかった。

 必然的にアドニスの仕事関連の知識を得る機会も失われていた。


 アドニスがパメラを仕事に関わらせなかったのは、彼女の知識を軽んじていたわけではない。

 悪意の中にパメラを晒すのが嫌だったのだ。


 そんなアドニスの気持ちをパメラはどことなく察しており、彼が望むことしかしていなかった。


 しかし、もっと何かお手伝いできることがあるならば……と思ってしまうのがパメラである。


 だが、何をどう学べばよいかも分からない。

 アドニスの読んでいそうな記事に目を通すが、前提が分からず、ため息をつきたくなる。


(旦那様のお仕事のことをもっと学んでおけばよかったわ……)


 家庭教師がいるうちは聞けることもあっただろうに。

 今となっては、それもできない。

 だから、アドニスに読んでもよいと言われても、パメラは曖昧に笑うしかできなかった。


 情けなくてうつ向くパメラに、アドニスは自分の読んでいた新聞を大きく広げた。

 その時、二人の肩が触れる。反射的にびくっと震えたパメラだったが、アドニスは構わず広げた新聞の端を持つように言う。


「分からないことは教えてやる。だから読め」


 思ってもないことを言われた。

 嬉しい。

 幸せが胸に広がるのに、近づきすぎた距離に顔が熱くなってしまう。

 一人で意識していることが恥ずかしくなり、パメラは小さな声でお願いを口にした。


「ありがとうございます……でも、これでは旦那様が読みづらいですし……別の新聞を読ませて頂いてもよろしいですか?」


 せっかくの好意を無駄にしてしまう。それは苦しかったが、この体勢のままでは頭に何も残らない。


 か細い訴えにアドニスは急に離れ、咳払いをした。


「……それもそうだな。だが……遠慮はするな。分からなければ教える」


 その一言にパメラの頬が緩む。


「旦那様、ありがとうございます。とってもとっても嬉しいです」


 そう言うとアドニスは、視線を逸らしてしまった。

 それに微笑みかけ、パメラは新聞を手に取った。


 こうして、二人が並んで新聞を読む時間ができた。

 パメラは遠慮してなかなか質問ができなかったが、それを見越して、難しい顔をしていると、アドニスはさりげなく声をかけてくれた。

 そして、二人の間には会話が増えていった。



 とくん、とくん、とくん。


 この頃、パメラの心は幸せな音を奏でていた。

 アドニスは優しく、使用人たちも優しい。


 とくん、とくん、とくん。


 幸せで、心は弾むようなリズムをとっていた。



 でも、同時に苦しく締め付ける何かをパメラは感じていた。



 ――バタン


 あくる夜、アドニスが寝付いた後、パメラは自室に戻ってきた。

 その顔に朗らかな笑顔はない。

 皆には見せない無表情な顔。

 先程まで見ていたアドニスの穏やかな寝顔を思い出し、心はあたたまるというのに、苦い思いで塗りつぶされてしまう。

 パメラは口に力を入れて、きつく閉じた。


 パメラの心を苦い思いで塗りつぶすのは、曾祖母のある言葉のせいだ。


『――お前はただの貢ぎ物だ。愛されるなど期待しなくていい』


 冷たいナイフのような言葉。

 それがパメラの心を抉る。


「わかってますわ、ひいおばあ様……」


 パメラは分かっていた。

 アドニスはお飾りの妻でも、気遣ってくれているだけだ。


 パメラは分かっていた。

 この貴族社会が自分には優しくないことを。


 どこまでも慈愛に満ちていた孤児院とは違って貴族社会は冷たい。

 愛なんてあっても、すぐ無くなってしまう。

 儚くなってしまった母と壊れてしまった父のように。


 パメラは机に座り、一冊のノートを開いた。

 そのノートは何度も破られた箇所がある白紙のノートだった。

 そこにペンを走らせる。



『旦那様とお話しできて嬉しい。もっとお話ししたい。笑顔がみたい。名前を呼んでほしい。叶うなら、もっともっと……そして、愛され――』


 そう書くとページを破り、くしゃくしゃに丸める。立ち上がったパメラは紙を持って外にでた。


 春の陽気になったというのに外は肌寒かった。

 侍女に見つからぬよう周囲を見渡し、ポケットからマッチを取り出す。

 マッチを擦り、紙に火を付け燃やす。

 紙は呆気なく燃えて灰になった。それをパメラは静かに見届けた。

 完全に燃えてなくなると、パメラにはいつもの笑顔が戻る。

 そして、自室へと戻った。


 パメラは変わった娘だった。

 しかし、普通の娘でもあった。


 彼女は辛い境遇から心を守るため、こうやって望むことを綴っては破り捨ててきた。

 でなければ、幼いパメラの心は脆く崩れ去っていただろう。

 だから、これは儀式なのだ。

 パメラがパメラであるための。


 愛されることは望まない。

 かわりに無償の愛を皆に。

 見返りを求めなければ、穏やかな日々がある。

 パメラは冷たい貴族の世界をそうやって生きてきた。




 ◆◆◆ sideアドニス



 アドニスはパメラに対して妙な居心地の悪さを感じるようになっていた。

 彼女を見るとドキドキと心臓は高鳴り、顔をそむけてしまう。

 居心地が悪いのにそばにいないと落ち着かない。

 特に彼女が笑顔で「旦那様」と呼ぶと無性に触りたくなった。

 そんな自分に戸惑う。

 打算まみれの結婚だったはずだ。

 彼女もそれは分かっているはずだ。

 なのに、どうしたことか……


 ズキン、ズキン。

 頭痛はしなくなったというのに、胸の痛みが今度は酷くなってきた。



 夜になると、パメラは相変わらずせっせとアドニスの体をほぐす。

 この時間は最初は心地よく、すっと眠りに落ちていた。

 しかし、段々と恥ずかしいものに変わっていく。

 彼女が自分に触れる唯一の時間。触れる手は優しく「気持ちいいですか?」と耳の近くで囁かれる声は甘い。

 アドニスは顔が赤くなっていることを悟られたくなくて、わざと枕に顔を押し付けていた。


 彼女から気持ち良いか?と聞かれても「まぁまぁだ……」としか言えない。


 もっと優しい言葉をかけたいのに、出てくる言葉はそっけない。

 人に優しくするなど久しくなかったアドニスにとって、それはとてもハードルが高いものだった。


「ふふっ。よかったです」


 嬉しそうな彼女の声。この声を聞くと心臓が痛かった。


 アドニスを困惑させたのは自分が寝た後の彼女の行動だった。


「寝てしまったんですか? 旦那様……」


 本当は寝ていないが寝たふりをする。

 すると彼女はそっと体から降りてアドニスに布団をかける。

 その後、じっとアドニスを見つめるのだ。

 その視線を感じて、心地が悪いが我慢する。

 それは、この後の声が聞きたいからだ。


「アドニス様……」


 震えるような小さな声で彼女は自分の名を呼んだ。

 この時だけだ。

 彼女がアドニスの名を呼ぶのは。

 その声を聞くと感情が高ぶってしまう。


「アドニス様……私は……」


 その続きを聞きたいのに、いつも彼女は口をつぐんでしまう。

 そして、無言で離れていくのだ。


 今日もまた、彼女の気配が遠ざかろうとする。


 いつもなら我慢ができることが、この日は我慢ができなかった。

 体を起こし、遠のく彼女の手をとる。

 そして、初めて名を呼んだ。


「パメラ……」

「っ!」


 パメラは驚いていた。

 当然だ。アドニスは寝ているものと、思い込んでいたからだ。

 手をとったものの、アドニスは次の言葉が出てこなかった。

 先ほどのことを尋ねたい。

 どうして、寝ている時にしか名を呼ばないのか。

 切なく震えた声の意味を。


 その先にある思いを。


「っ……」


 言葉を出したいのに口は無意味に動くだけだ。

 ただ、繋がれた指先だけが熱くなっていく。

 このまま手を離せば、ぬくもりは去っていってしまう。

 一人、静かな夜がくる。

 この手を恋しく思って、焦れるような夜がまた。


 それが耐えきれそうになく、アドニスは咄嗟に嘘をついた。


「君とは一度も夜を共にしていない。そろそろ、世継ぎのことも考えなくてはいけない頃だ」


 嘘をついたはずだった。

 しかし、それは真の意味ではアドニスにとって、嘘ではなかった。


 パメラが息を呑む。

 困惑した顔に、心が切ない音を立てる。


「そうですね……そういう約束でしたものね」


 パメラが目を泳がせながら笑う。

 それにアドニスの心はチクリと痛んだ。

 掴んだ手を引き寄せようとしたが、パメラの声で遮られた。


「それでは、滋養がつくものを食べませんと!」


 手を振りきられて、パメラは明るい顔で言う。

 その声に仰天した。


「今晩は胃に優しいものでしたものね。では、今度は滋養がたっぷりつくものをご用意しますね」

「あ、あぁ……」

「ふふっ。では、おやすみなさいませ、旦那様」


 丁寧にお辞儀してパメラは部屋を出る。

 バタンと扉がしまった。


「はぁ――……」


 長いため息が出て、アドニスは項垂れた。

 パメラに対して自分は何をしようとした? その先を想像して、頭がおかしくなりそうだ。


 パメラは変わった娘だ。

 最初からこちらの調子を崩すことをしてくる。

 無くしてしまった愛情のピースを埋めるようにパメラはどこまでもアドニスに甘く優しかった。

 だけど、けして見返りは求めない。

 ただ純粋に慕ってくる。

 それが心地よすぎるのだ。


(甘えきっているな……)


 子供じみた思考が嫌になる。

 いつから自分はこんなに弱気になったのか。


 爵位を継ぎ、悪意を跳ね返す強さを求めたはずなのに。


 冷えた手のひらを見つめ、また長いため息を吐く。


 高ぶった感情を沈めようとアドニスは水を求めて部屋を出た。



 静まり返る廻廊を歩いていると、ふと窓の外に人の姿を見かけた。


(パメラ……?)


 暗がりで何をしているのがよく分からないが、マッチが擦られ火が灯った。

 その横顔はいつもの笑顔ではなく、そのまま消えてしまいそうなぐらい儚いものだった。


「っ!」


 アドニスは無意識のうちに駆け出した。

 足はまっすぐパメラを求めて動き出す。

 心の中ではずっとパメラの名を呼んでいた。


 ――どんっ


「っ!」


 廻廊の角を曲がった所で、誰かにぶつかる。


「旦那様?」


 息を切らせ、ぶつかった相手を見つめる。

 そこには執事がいた。

 驚きの表情でアドニスを見つめている。

 アドニスもまた、同じ表情で彼を見つめた。

 しばしの沈黙の後、アドニスは我に返り、焦った声で尋ねた。


「パメラは?」

「……奥様ですか? いえ、見かけませんでしたが……」

「そうか」


 そう呟くと、アドニスはまた駆け出した。

 パメラがまだ外にいるかもしれない。

 そう思うといてもたってもいられなかった。

 執事が呼ぶ声がしたが、アドニスは構わず走った。


 外に出るとパメラはいなかった。

 パメラの存在を消すように燃えたものも消えている。

 あれは幻だったのか? アドニスは考えてみたが、答えは分からなかった。


 全速力で走ったから額に汗が滲んだ。

 それを手の甲で拭い、大きく息を吐き出す。

 限界まで息を吐くと、空を仰いだ。暗い空に瞬く星が見える。

 一縷の光のようなそれに、パメラの笑顔が重なった。

 閉じ込めたくて腕を伸ばすのに、手のひらには何も残らない。


(あぁ、そうか……俺は……)


 ようやくアドニスは気づく。

 自分にとって、パメラがどういう存在なのかを。


 パメラを失うことになったら、自分は気が触れてしまうだろう。

 無くしたくない大切なもの。

 その感情の名をアドニスは知っていた。



 それからアドニスはパメラをよく観察するようになり、前にもまして気にかけるようになった。

 不自由なことはないかと思ってよく観察すると、パメラは全くもって不自由していなかった。

 それどころか環境を良くする才能に富んでいた。


 パメラは物知りだ。特に生活面において。シミの抜きかたや裁縫などは侍女たちよりも得意だった。

 そして、感心するのは薬草の知識だ。

 あの偏屈な庭師からよく教えをこうているらしい。

 あの老人が心を開くのは驚きだったが、現場を見て真実だと分かった。


 そして、もう一つ気づいたことがある。

 パメラは誰にでも優しいのだ。


 どんな相手でも無下にせず、常に明るい笑顔を向けていた。

 アドニスは勘違いしていた。

 パメラが優しいのはアドニスが特別だからではない。


 パメラがそういう人だからだ。

 アドニスはパメラが優しくする相手の一人だったのだ。


 それに気づいた時、アドニスの中に一つの感情が生まれる。

 パメラが自分にしか見せない表情をみたい。

 そんなこと、言えるはずもないのに。

 アドニスに芽生えた感情は日に日に大きくなっていった。




 とある日、アドニスはパメラの部屋の前でうろうろしていた。これから外にでも出掛けようと誘いをかけたかったのだ。

 しかし、いきなり誘うのもいかがなものか。

 もっといい誘い方はないものか。


 うろうろ。

 うろうろ。


 うろうろうろうろ。


 かれこれ一時間は部屋の前を行ったりきたりしている。

 考えに考えた末、素直に誘うのが一番だと思い、部屋のドアをノックした。

 ノックしたものの返事がない。

 しばらくしてまた叩いたが、やはり返事はない。

 思いきって部屋に入ってみたが、パメラはいなかった。

 それに拍子抜けする。

 自分のバカさかげんに呆れてしまう。

 一つ、息を吐き出して部屋を見渡した。


 パメラの部屋は広かったが、必要最小限のものしかなかった。

 ベッドにチェスト、そして机。続きの間にはクローゼットがあった。

 彼女のドレスは少ない。

 物欲がないパメラはドレスをねだるようなことをしなかった。

 それに気づき、アドニスは舌打ちが出そうになる。


 結婚したというのにドレスの一つも送っていない。

 執事に頼まれていくつか見繕ったが、好きにしろと言っただけだ。

 その態度はパメラを萎縮させていたのかもしれない。


 パメラとて年頃の女だ。

 おしゃれをして着飾ることを楽しみたい時もあるだろう。

 気の回らなさに呆れてしまう。


 自責の念にかられたまま、パメラの部屋をまた見渡す。


 机の横の小さな本棚に目がとまった。

 アドニスが送った本があったからだ。

 パメラが新聞を読んで疑問に思ったことは、直接アドニスが教えているが彼女の知識欲を満たすため、本を送っていた。

 それに後悔の念が少しだけ和らぐ。


 はらりと風が舞った。

 窓が空いていたらしい。

 その時、机に置いてあったノートが少しだけ揺らいだ。

 それが気になり足を進める。

 表紙も紙でできた白いノートだ。

 やけに使い込んだ形跡がある。

 好奇心が押さえきれずに、アドニスはそのノートを手に取り開いた。


「これは……」


 中には何も書かれていなかった。

 ただ、何度も破った形跡がある。


 ふと、幻想かと思っていた灯火の中のパメラを思い出す。

 よくよく思い出すと紙を燃やしていたような気がする。

 目の前には破かれたノート。


(このノートの紙を燃やしていた? しかし、なぜ……)


 アドニスはノートをそっと置いた。

 聞きたいが、聞いたらパメラが本当に消えてしまうようで恐ろしかった。



 ◇◇◇ sideパメラ



 屋敷での日々は穏やかでパメラの心は変わらず弾んでいた。

 何より嬉しかったのはアドニスがパメラのことを名前で呼ぶようになったことだ。

 呼ばれるたびに心はあたたかくなり、ふわふわと夢心地になった。


 しかし、パメラはこんなにも幸せでいいのだろうかと時折、不安になった。

 貴族の世界は冷たかったが、アドニスと屋敷の人々は誰もが優しい。

 そんなことは初めてだった。

 曾祖母の所に居たときは、このようなあたたかい眼差しを向けられたことはなかった。


 だから、余計に不安になった。

 いつか、この幸せが無くなってしまうのだろうか……と。


 パメラは知っていた。

 いくらパメラが願っても幸せは突然、奪われるものだということを。


 父と引き離された時のように、孤児院から引き離された時のように。

 この屋敷からも引き離される日がくるかもしれない。

 そして、その時、自分は……本当に笑って進めるのだろうか。

 パメラには自信がなかった。

 それぐらいここの日々は幸せだった。



 あくる日、アドニスに誘われて町へ繰り出した。

 アドニスと一緒に見る町はいつもの風景と同じなはずなのに、キラキラと輝いていた。


「旦那様、見てください! 美味しそうなお菓子ですよ!」


 パメラは高揚した気持ちのままに、並んで歩いていたアドニスを置いて走りだそうとする。

 不意に手が掴まれた。

 勢いよく走り出していた足は急には止まれず、後ろによろけてしまう。

 アドニスが慌てて前に出て、パメラの体を支えた。


 パメラの体は自然とアドニスの胸の中におさまる体勢になる。

 近づいた距離に驚いて顔を上げると、照れたような怒ったような顔があった。


「……勝手に行くな。迷子になる」


 子供ではないのですから……とパメラは思ったが、離れがたくて「すみません」とだけ答えた。


 二人はぎこちなく互いに離れる。


「…………」

「…………」


 離れたことで気恥ずかしさが増して、無言になってしまう。

 それはアドニスも同じようで互いに沈黙した。


 いつもの調子で話しかければよいものを声が出ない。

 自然と視線は下がり、何か言わなければと焦ってしまう。


 すると、パメラの視線の先に手のひらが見えた。


 顔を上げると、アドニスは怒ったような照れているような顔をまだしている。

 差し伸べられた手。

 パメラはそっと、そこに手を置いた。

 包み込むように握られる。少しだけ彼の表情が緩んだ。


「行くぞ」


 驚く暇もなくアドニスは歩きだす。

 パメラの足も合わせて動き出した。


 手はいつしか絡まるように繋がれていた。

 指の隙間からお互いの熱が伝わっていく。

 それが恥ずかしくて、振り払うように、パメラはわざとはしゃぎ続けた。

 必要以上に笑い、声を出した。

 そうしなければ彼に伝わってしまうと思ったからだ。


 この胸の高鳴りが。

 痛いくらいの鼓動が。

 指を通して、彼に伝わる。


 それは隠しておきたい。大切な思いだった。



 ***



 愛されることは望んでいない。

 パメラは戒めのようにそう言い聞かせていた。

 だが、愛されることを望まない人間がいるだろうか。

 パメラは神でも聖人でもない。

 ただの娘だ。

 だから、日に日に想いは募る。


 愛されたい

 愛されたい、旦那様に

 旦那様を愛しているから


 気がつくと白いノートはその言葉で埋め尽くされていた。

 慌てて破こうと手をノートにかけた。

 ビリッと嫌な音がする。


「っ……ふっ……」


 パメラは最後までノートの紙を破れなかった。

 代わりに涙が溢れて零れ落ちる。

 落ちた涙がノートを濡らし、文字を滲ませた。次から次へと。


 この思いを消したくはなかった。

 無かったことになどできなかった。


 パメラはノートに顔を突っ伏して泣いた。

 せめて誰にも気づかれないように声を殺して。

 肩を震わせて泣いた。



 その翌日、パメラは熱を出した。

 熱を出すなんて久しぶりだとベッドの上でぼんやり思う。


 医者の診断によると、パメラの熱は酷くなく、薬を飲んで横になっていれば治るものだった。

 しかし、使用人たちはそれはそれは心配し、次から次へと見舞いに来ては差し入れが送られていた。


「奥様、お薬をお持ちしましたよ」

「奥様、フルーツです。ほら、ぶどうなら召し上がれますか?」

「……薬草を持ってきた。早くよくなれ」


 仏頂面の庭師まで来て、パメラの部屋は賑やかになる。

 執事の一喝で、事態は収まったが、皆、心配してそわそわし、仕事にならなかった。

 それをありがたいなと思いながら、パメラは微笑んで見つめていた。


 静かになった部屋だったが、アドニスの帰宅で事態はまた忙しなくなる。

 廊下にバタバタと足音が響いて止まった。


「パメラ! 大丈夫なのか!?」


 全力で走ってきたのか、アドニスは息を切らせていた。

 乱暴に開かれたドアに驚きつつも、パメラは笑顔で体を起こす。


「お帰りなさいませ、旦那様。今日は出迎えれずにすみません」

「そんなことはいい。いいから、寝ていろ」


 アドニスはパメラの体をゆっくり倒した。

 パメラは目を瞬かせ、にこりと笑った。


「ありがとうございます」

「……体は大丈夫か? ほしいものはないか?」

「大丈夫ですよ。熱も下がっていますし」

「そうか……」


 アドニスがホッと胸を撫で下ろす。

 そして、瞳を揺らしながらパメラの乱れた前髪をそっとはらった。


「寝ていろ」

「はい……あの、大丈夫ですから。旦那様はお部屋に……」

「いいから」


 アドニスがパメラの右手をとる。

 大事なもののようにパメラの右手を両手で握りしめた。


「寝付くまでそばにいる。……いや、いさせてくれ」

「旦那様……」


 熱を孕んだ眼差しで見つめられ、パメラはドキドキして居心地が悪くなる。


「そんなに見つめられたら……寝れません……」


 か細い声で訴えると、アドニスは、はっとして、バツが悪そうに視線を逸らした。

 そして、手から熱が消える。


「食事は? したのか?」

「はい。皆さんがフルーツを食べさせてくれました」


 そう言うとアドニスはムッとした表情になる。


「何かできることはないか? 何でもしたい」


 パメラはこれは夢ではないだろうかと思った。

 こんなことを言ってくれるなんて、夢のようだ。

 もしかしたら、自分は熱が出ていて、眠っているのかもしれない。

 だったら、起きたくはないな、と思ってしまった。


「旦那様が声をかけてくれただけで充分です」

「そうか……」


 寂しそうな顔をされてしまった。

 本当のことなのに上手く伝わらない。

 それがもどかしい。

 不意にある思いが喉元まで出かかる。


 ――もう一度、手を握ってくれませんか?


 口が開きかけて慌てて閉じた。

 そんなことを口にしてはダメだ。

 一度、お願いをしたらどんどん欲は深くなる。

 だから、ダメなんだ。


「寝付けないようだから、俺は戻るな」

「はい…」


 一度だけ熱を確認するようにパメラのおでこに触れ、アドニスは立ってしまう。


(行かないで……!)


 また口が開こうとして閉じる。

 言葉にならなかった思いは、ただ空気となるのみ。

 パメラは顔を歪ませ目を伏せた。


 その時だ。


 ――ガタン


 物音がして、パメラは目を開いた。


「っ……すまない」


 どうやらアドニスは机に躓いたようだった。

 机が揺れ、立て掛けていた本が落ちる。

 落ちたのは白いノートだった。

 ノートは背表紙から落ちて、開いて止まる。

 開かれたページは破けなかったものだった。

 

「これは……」

「ダメ!」


 暴かれてしまう。

 捨てきれなかった思いが。


 アドニスはそれを見つめて、目を開いた。

 あぁ、とパメラに絶望が襲う。

 顔を覆い身を縮こませた。


(軽蔑される……!旦那様はそんなことを望んでないのに……!)


 ただ、子を産み育てるだけの存在なのに、愛を乞うなどなんて浅ましいのだろう。

 消えてしまいたい……


「パメラ……ここに書いていることは本当か?」


 震える声で問われ、パメラはアドニスの顔を見ずに手をついて謝りだした。


「申し訳ありません! 旦那様のお望みとは違うのに勝手な思いを抱きました。申し訳……っ!」


 パメラは最後まで謝罪を言えなかった。

 アドニスによって抱きしめられていたからだ。

 力強く大きな体がすぐそばにあり、心から絶望が消えていく。


「旦那様……?」

「謝らなくていい。謝らなくて……いや、謝るのは俺だ。すまない、パメラ。最初に言ったことが君を苦しませているとは気づかなかった。すまない……」


 悲痛な声にパメラの心が満たされていく。

 絶望の色から薔薇色に心は染められていく。


 これは夢だろうか……

 それとも……


 パメラは確かめるようにアドニスの背中に手を回した。

 抱き寄せられた腕の力が強まった。


 腕の力強さが夢ではないことを教えてくれた。


 ゆっくりとアドニスはパメラを引き離した。

 見つめるとアドニスの顔がほんのり赤い。

 緊張しているのが伝わってくる。

 パメラも緊張して全身を熱くさせた。


「パメラ……ずっと言えなかったことがある」


 どこか素っ気ない態度だった彼。

 その彼が今は眉を下げて、弱々しく見えた。


「君を愛してる。誰よりも……」


 シン、と心が静まり返る。

 それも一瞬で、次に沸き上がったのは途方もない歓喜だった。


「だから、その……っ」


 耳まで真っ赤になったアドニスは困ったように言葉を途切れさせる。

 それがあまりにも可愛らしくてパメラは微笑んだ。


 愛を伝えられるのはなんて素敵なことだろう。

 そして、愛を伝えるのも、どうしようもなく素敵なことだ。


「私も愛してます……」


 ぎゅっとアドニスに抱きついた。

 アドニスは驚いて、体勢を崩す。

 そして、受け止めるようにパメラの背中に手が回される。


 支えてくれた手がゆっくりと強くなるのをパメラは感じていた。


「愛してますわ、アドニス様」


 ずっと口にしたかった名前で呼び、ずっと閉じ込めていた思いを口にする。


「っ……俺もだ。君が妻になってくれて幸せだ」


 それは今までで一番嬉しい言葉だった。

 メモをしなくては、忘れないように。

 パメラは幸福なぬくもりを感じながら、そんなことを思った。




 その後、落ち着いたパメラは白いノートを聞かれたので正直に話した。


 あの白いノートは孤児院にいた頃にシスターに貰ったものだった。

 母親を亡くし、父親と離されたショックからパメラは今のように笑えなくなってしまった。


 パメラの気持ちを思い、シスターが白いノートをくれたのだ。


『言葉にできなければ、書いてみて。もう、思いを閉じ込めることはないのよ』


 シスターはパメラの頭を撫でて、彼女に白いノートを手渡した。


 最初は口にできない思いを綴った。

 そして、破るようなことはしていなかった。


 ノートを破くようになったのは曾祖母に引き取られてからだ。

 曾祖母に引き取られたばかりの頃、パメラは孤児院が恋しくてノートに思いを綴った。


 書いて、書いて、書いて。

 そして、いつしか書かれた文字を見ることさえ苦しくなってしまった。


 だから、破った。


 未練を振り払うように破ってくしゃくしゃに丸めた。


 そのうち、捨てられた紙を見るのも嫌になり、隠れて火を付けた。


 跡形もなく消えたノートのページ。

 すっと、心から未練がなくなったような気がした。


 ――あぁ、もう元には戻らないんだ。


 消えたページに思いを重ねてパメラはまた、本心を上手に隠すようになってしまったのだった。


「私は強い人ではありません。弱いんです。だから……このノートを犠牲にしてしまったんです……」


 パメラは閉じられた白いノートの表紙を指で撫でた。

 何度も破かれたノート。

 大切にしたかったのに、それができなかった。



 アドニスは苦しそうに表情を歪めた。

 最後までパメラの話を聞くと、なにも言わずに抱きしめてくれた。

 慰めよりもそれはパメラが一番、してほしいことだった。


「パメラ……ノートに書くことを無理にやめる必要はない。それは君の心を守る大切なものだ」


 意外な言葉にパメラはアドニスを見る。

 アドニスは優しい眼差しでパメラの頬を撫でた。


「その代わり、俺にも見せてくれ」

「え……?」

「パメラの感じることをもっと知りたい。パメラが苦しい思いをしていたら、こうやってそばで慰めたい。嬉しいことは一緒に喜びたい」


 アドニスの真剣な表情に、パメラの頬が赤くなっていく。


「話せばいいことだが、俺は口が上手くない。だから、書けば伝わるから……それに、俺も伝えたい」

「それは……アドニス様も書いてくださるということですか?」


 そう言うと、アドニスは赤くなり慌て出す。


「書くよ。俺のこともパメラに知ってほしい……ダメか?」


 パメラは大袈裟に首を振った。

 熱くなった頬を両手で挟む。

 そして、瞳を潤ませて、アドニスに訴えた。


「どうしましょう……幸せ過ぎて熱が出てきました」


 そんな顔をされたら、ひとたまりもない。

 アドニスはパメラを力の限り、抱きしめた。


「早く良くなれ。そして覚悟しろ。……熱が下がったらずっと一緒だからな」


 少し怒ったような声で言われてしまった。

 でも、言葉は嬉しいしかなく、パメラも真っ赤になってただ頷いた。



 その二日後、滋養がたっぷりの食事を共にし、二人は初めて同じベッドに寝て、共に朝を迎えた。


 さらに翌日は、アドニスがなんとも可愛らしい日記帳をパメラにプレゼントする。

 どんな顔で買ったんでしょうね、と使用人たちはヒソヒソと笑いあっていた。



 パメラの机には二冊の日記がある。

 白いノートと、表紙が可愛らしいピンク色の日記だ。


 白いノートはもう破かれることはない。

 燃やされることも。

 しかし、無くしてしまったパメラの心を覚えているかのようにひっそりとそこにあった。


 表紙がピンク色の日記帳には文字が綴られ残されていた。


 そこには口にできない愛の言葉が綴られていた。





挿絵(By みてみん)

©️ 猫じゃらし様



 end





 ■おまけ シスター視点のおはなし

 ───────


 アリアは変わったシスターであった。


 彼女は今、住む国の生まれだが、祖母が異国の地で生まれた人であった。

 祖母の国では戦争で大敗をし、かつ、大国から繰り返し攻め入れられたことにより、国王の命により、兵士と民の回復にマッサージが広く浸透していた。


 病気の予防、疲労回復を人の手で行うマッサージは大人から子どもまで手軽にできるものとして覚えていた祖母は家庭を持つと、子どもたちにそれを伝えた。


 アリアもまた祖母から口うるさく伝えられたことにより、自然とマッサージを覚えていった。


 アリアが孤児院のシスターになった時、マッサージ自体は国にもあったが、ただ気持ちよくなるもの、として認識されており、筋肉をほぐす疲労回復効果まではあると知られていなかった。


 しかし、祖母の教えを身につけたアリアは引き取った子どもたちにそれを教えた。


「そうよ。ここを押してもんだりすると、風邪なんか引かないのよ。覚えておいてね」


 アリアが子どもたちにマッサージを教えたのは、子どもたちの体を強く育てるため、というのもあったが、もう一つ狙いがあった。


 それは寄附金をくれる援助者をもてなすためである。


 寄附金をくれるのは、貴族などの富裕層だ。

 彼らの善意でこの施設は運営できている。

 その時代は、恵まれない者たちへの施しが天国への近道という教えが広がっており、慈善施設を建設するのが一種のステータスとなっていた。


 そんな考えにつけこんで、あえて物乞いとなり働かずして食べる者がでてきていた。


 彼らと戦う為に、アリアは子どもたちにマッサージをさせて、援助者をもてなしていた。


 子供も孫も大人になってしまった援助者にはこれは特に喜ばれた。


「ここを押すとね。疲れがとれるんだよ」

「とれるのよ!」


 小さい子どもが得意気に教える様子を年を重ねた援助者たちは目を細めて聞いていた。


「まぁまぁ、みんな物知りね。確かに気持ちいいわ」


 子どもたちと活発に遊ぶことができない援助者であっても、マッサージならば触れ合いを持ち、交流が生まれる。

 情が生まれる。

 そして、金が落ちる。

 しかも、アリアが教えるマッサージは疲労回復の本格的なもの。

 プレミア感もつく。

 さらに、金は落ちる。


(楽して食べようとしている人には負けないわ!)


 アリアは、変わったシスターだった。

 シスターというわりには、打算的な思考の持ち主だった。



 そんなアリアにとって、とても気がかりな子どもがいた。

 それが、パメラである。


 パメラはここに来た頃、笑わない子どもだった。

 両親の愛をいっぺんに失った彼女は泣きもせずに茫然としていた。

 あまりのショックから、感情が欠落してしまったのだ。


 そんな彼女の手をとり、アリアは人との触れ合いを多く教えた。

 マッサージを覚えさせ「ありがとう」と感謝される経験を積ませていった。


 そんなことをしたのは、アリアがパメラが心を閉ざしたのは”自分がいらない子だ”と無意識に思っているのではないかと感じたからだ。


 いらないから、お人形のように感情を見せない。


 だから、「ありがとう」と言われるマッサージを教えた。


 あなたは、人から感謝される人なのよ。


 あなたがいるから目の前の人は笑った。


 あなたは必要な人よ。


 言葉にしなくても伝わるように。

 願いながら、アリアはパメラにマッサージを教えていった。



 そんな日々を過ごし、パメラは笑うようになっていったが、素直な思いを口にするのは中々、しなかった。


 それは、素直な言葉を口にしても、願いが叶えられないことを知っていたからだろう。


 パメラは父親と離れたとき「一緒にいたい」とは言わなかった。ただ無言で、アリアに手を引かれていった。


 パメラは諦めてしまったのだ。


 パメラ以上に泣いた父親に。

 自分を見るたびに辛そうにする父親に。


 一緒にいたい、とは言えなかった。


 そのトラウマがあってか、パメラは人の顔色を伺って、自分を殺すようになってしまった。


 アリアはどうにかして、パメラに感情を引き出せないかと考えた。ヒントは手記にあった。


(そうだわ! 言えないんだったら、書けばいいのよ!)


 そう思い立ったアリアはさっそく書けるノートを求めて買い物に出掛けた。



 商店に並ぶノートたちを見て、アリアは難しい顔をする。

 当時、白い紙は流通していたが、羊皮紙の方が値段が安く、白い紙は高かった。


 しかし、アリアは白い紙にこだわった。


 真っ白は自由の色だ。


 どんな色にも染まる。

 どんな言葉も書いていい。


 自由に。心のままに。書いていい。

 そう思えたのだ。


 アリアは商店の人に白い紙を値切って買った。


「おじさん。たくさん買うからおまけして」


 勘弁してよぉと、嘆く店主に得意のマッサージを施し、二割ねぎって紙を買った。


 アリアは変わったシスターだった。

 値切れるものは値切っておくのが、彼女のポリシーであった。



 アリアは白い紙に紐を通して手作りのノートを作成した。

 そして、パメラに微笑んで言った。


「これはね。秘密のノートよ」

「秘密のノート?」

「そうよ。誰にも見られない世界でたった一つの特別なノートなのよ」


 白い手作りのノートを手渡して、アリアはパメラに言葉を続ける。


「悲しいことも、嬉しいことも、何でも書いていいの。絵だって、文字だって、好きに書いていいのよ。誰にも見られないから、悪口だって書き放題よ」


 ふふっと、子どもみたいに笑って言うと、パメラは目を瞬きさせて、じっとそのノートを見つめた。


「パメラ。白は自由の色よ。このノートの中では、あなたの心はいつでも自由よ」

「自由……」


 パメラは白い、真っ白なノートを見つめた。

 何色にも染まる自由の色。

 それをぎゅっと握りしめた。


 でも、パメラは何を書いていいのか分からなかった。

 すると、アリアは「じゃあ、何を書いたらいいのか分からないって書けばいいわ」と伝えた。


 パメラは一人、机に向かってノートにその言葉を書く。

 書いた言葉を見つめて不思議そうに小首を傾げた。


 でも、何を書けばいいのか分からないなんて、なんだかおかしいなと、少し笑った。


 そうして、パメラは秘密のノートに素直な気持ちを書くようにしていった。


 言葉にできなくても、ノートにだけは素直になれる。


 パメラは殺していた感情を徐々に解放していった。



 そんな日々は、突如、終止符を打つ。

 パメラの曾祖母が彼女を引き取りにきたのだ。

 曾祖母のパメラを見る眼差しは冷たく、ひ孫との再会を祝うようなものではなかった。


 身内の引き取りをアリアは拒否できない。

 曾祖母が貴族であり、身元がしっかりしていたからだ。


 パメラはここにいたいとは言わなかった。

 諦めたように笑っただけだった。


 でも、アリアは知っていた。

 パメラがノートに顔を突っ伏して泣いていたことを。



 パメラが曾祖母に引き取られる日、アリアは真新しい手作りの白いノートを彼女に渡した。


 不遇の境地に立つかもしれない彼女に、せめてノートを残したかった。


 アリアは泣くのを堪えてパメラに言った。


「言葉にできなければ、書いてみて。もう、思いを閉じ込めることはないのよ」


「このノートの中で、パメラは自由よ」


 これから先、パメラは思いを殺すような出来事に直面するかもしれないと、アリアは直感的に思った。


 パメラの曾祖母は家を立て直す為に引き取る。不自由な暮らしはさせないと言っていた。


 でも自由とは。

 何を持っての自由なのだろう。


 立派な屋敷に住むことだろうか。

 着飾ることだろうか。

 贅沢な食事をすることだろうか。


 ……確かにそれも大事かもしれない。


 でも、自由とは。

 思いを解放することではないだろうか。


 口にできなくても、違う形で内にあるものを表現できるのが、自由ではないだろうか。


 アリアはそう思えてしかたなかった。



 パメラを乗せた馬車が見えなくなるまでアリアは見送り続けた。

 パメラは馬車の小窓に頬をつけてアリアを見ていた。


 パメラは泣かなかった。

 だから、アリアも泣くもんかと歯を食いしばった。


 そして、馬車が見えなくなると、脇目もふらず泣いた。

 そして、礼拝堂に戻って必死に祈った。


(主よ。どうか、どうか……パメラに幸運をお与えください)


 パメラに手紙を送ることは禁じられていた。

 だからその後、四年近く、アリアは彼女と音信不通になる。



 その日はよく晴れた日だった。

 真っ白な封筒に包まれた手紙がアリアの元に届いたのだ。

 差出人の名前を見て、アリアは目を見開いた。

 慌てて自室に戻り、ペーパーナイフで封を切る。

 信じられなくて、手が震えてしまった。


 ぎこちない手つきで便箋を取り出す。

 封筒と同じく真っ白な便箋だった。


「あぁっ……!」


 アリアは目尻に涙をためて、真っ白な便箋を抱きしめた。


 そこにはパメラの文字で、結婚したこと、幸せであること。

 そして、アリアの元に来たいということが書かれてあった。


「……パメラ……よかったわ。本当によかった……」


 ハラハラと涙を流しながら、アリアは泣いた。

 嬉しくて泣いた。


 パメラの秘密のノートの一ページのように、アリアが抱く手紙の便箋は真っ白だった。



 数日後、結婚した夫と共にパメラは孤児院にやってきた。

 彼女の顔は幸せに満ちていた。


「シスター!」


 自分を呼ぶ声はハツラツとして、それを聞くだけで込み上げてくるものがあった。

 アリアはおもいっきりパメラを抱きしめて、口を開いた。


「パメラ……おかえり。おかえりなさい」


 アリアを抱き返すパメラは真っ白な帽子を被っていた。

 そして、身につけていたドレスもまた、白を基調としていた。



 それはパメラ自身が自由になったことを、アリアに教えていたのだった。






お読みくださりありがとうございます。

連載でもいいかなと思った話ですが、連載だとパメラのかわいそうなターンがずっと続きそうなので、短編で。


こぼれ話として。

パメラのメモにはちょっとした設定があります。

パメラは無意識のうちに忘却するというくせがあります。忘れっぽいと本人は思っていますが、心を守るための一つの手段です。そのため、忘れたくないのとはメモするというのがパメラのくせになっています。


2021.7.19 追記


蛇足かもしれない。後日談。



後日談


◇side パメラ


 アドニスと日記を交互に書くようになってから1ヶ月が経っていた。


 この日記にはルールがある。それは、書くときは一人で、そして、読むときも一人で、というものだった。


 読まれているところを見られるのが恥ずかしいと、パメラが顔を真っ赤にして訴えた結果、そういうルールがしかれた。アドニスも同じ思いだったので、二つ返事で了承した。


 仲睦まじくなったとはいえ、パメラの恥ずかしがり屋なところも、アドニスの積極性のなさ……へたれっぷりはまだまだ健在だった。



 そして、パメラは今日も日記を書く。今日は何を書こうかなと微笑みながら、日記のページをめくる。


 前のページを見返してみると、アドニスからの鮮烈な愛の言葉が書かれており、パメラは思わず元の白紙のページに戻す。


 直視できないほどの熱烈な愛の言葉。それが書かれたのは理由がある。


 その前の前のページでパメラが何気なしに書いたことがきっかけだ。


 アドニスは意外にも甘党でお菓子には目がない。その為、彼好みのお茶菓子を求めて、パメラは街へ出掛けた。その時、最近できたばかりのお店を見つけたのだ。そこの店主はパメラと同じくらいの年齢で若く会話も弾んだ。


 すっかり意気投合してしまい、ご贔屓にという言葉と共に新作のペイストリーをもらったのだ。タルト生地の甘いお菓子をもらえて上機嫌になったパメラは、そのことを日記に書いた。


 すると、それを見たアドニスが拗ねたのだ。若い男と意気投合したことが嫌だったらしい。


 最初は不機嫌になった理由が分からずパメラは困惑した。しかし、侍女から「あれは嫉妬で拗ねているだけです」と教えられ、パメラは素直に「アドニス様、拗ねているんですか?」と言ってしまった。


 耳を赤くしてアドニスは不機嫌になり、口をきいてくれなくなったしまった。


 そして、翌朝はぎこちなく謝られた。机の上には日記帳が置かれており、一人になったパメラはページを開いた。


 そこには赤面せざるおえないほどの愛の言葉が書かれていた。



 そんな事を思い出して、パメラは頬を赤くさせる。


 恥ずかしかったが、嬉しかったのも本当で、パメラは素直な思いを書くことにした。



 ―――――


 アドニス様へ


 嬉しい言葉の数々、ありがとうございます。でも、私も同じくらい……いえ、それ以上にお慕いしております。


 アドニス様、愛しておりますわ。


 今日はお帰りが遅いので寂しいです。早くお顔が見たいです。お仕事を頑張ってらっしゃることは重々、わかっておりますが、それでも寂しいです。


 朝、目覚めたときにお顔が見れることを楽しみにしております。


 おやすみなさいませ。



 パメラ


 ―――――



 翌日、早く目覚めたパメラはしゅんと項垂れた。アドニスがもう出て行ってしまったからだ。


 執事からそれを聞いたときにアドニスはまだ怒っているのではないかと不安になった。彼に尋ねてみると、初老の彼はしわの深い目尻を下げて首を振った。


 そして、日記帳を差し出した。パメラは瞬きを繰り返して、それを受けとる。執事は何も言わずに微笑むと、一礼して行ってしまった。


 残されたパメラは呆然としたままその背中を見送る。視線を日記帳に向けた。


(書いてくださったのかしら……?)


 パメラはページを開いた。一字一字、目で追っていくと、パメラの顔がみるみるうちに赤くなる。熟れたリンゴのようになってしまい、パメラはその場にしゃがみこんでしまう。


(ど、どうしましょう……どうしましょう……)


 前の前のページ以上の言葉が書かれており、パメラは彼とどんな顔をして会えばよいか分からなくなってしまう。


 しかし、いつまでもこうしているわけにはいかない。心を落ち着け、パメラは立ち上がる。やらなければならないことがあったからだ。羞恥心は頭の隅においやり、やるべきことをするために、準備に取りかかった。





 ―――――――

 パメラへ


 分かってくれて嬉しい。だが、パメラの思いが俺より大きいなんてことはない。

 

 断言するが、俺の方が愛している。俺がどれほど、君を愛しているのか、言葉にするのは難しいが、俺の方が好きだし、愛している。


 いや、こういうのは直接、言った方がいいのだろうな。今夜は早く帰るから、たくさん、愛していると言わせてくれ。寂しい思いをさせた分、パメラに直接、愛を伝えたい。だから、待っててほしい。


 あと、今夜はポトフが食べたい。



 アドニスより


 ―――――



◆後日談 side アドニス


 アドニスは口下手で素直な性格じゃないという自覚がある。特にパメラを前にすると、可愛いしぐさや言動に振り回されて、言葉に詰まることが多い。口下手が更に口下手になってしまう。


 これではまずい。


 ただでさえ、アドニスはパメラに冷たい態度をとり、誤解を生んでしまったことがある。苦しませたことを戒めのように心に刻んでいた。


 心に刻んでいたのだ。


 これでも。


 しかし、パメラが若い男と意気投合したと聞いただけで、誓いは崩れ去り、つい怒りを顔に出してしまった。さらに、拗ねていると図星をつかれて、もう居てもたってもいられず、パメラと口をきけなくなってしまった。


 自分の性格が嫌になる。


 先に寝付いたパメラの顔を見つめ、アドニスは深くため息をつく。謝ろうと思うのだが、うまく口にできるか分からない。だから、日記にしたためることにした。



 ――――――


 パメラへ


 今日は嫌な態度を取ってすまなかった。俺は君のことになると、どうも自制心がきかない。若い男と話したところを想像するだけで、嫉妬でおかしくなる。俺はパメラのことが好きすぎるんだ。ごめん。許してほしい。



 顔を見てうまく言える自信がないから、日記に書く。だが、言葉で伝えられるように努力する。


 アドニスより


 ――――――



 書き終えてアドニスもベッドに潜り込む。パメラを起こさないように抱き寄せて、小さく「ごめん……」と呟き、謝る練習をした。



 翌日、早く目覚めたアドニスは日記帳に書いたことを振り返り、今更ながら羞恥心が込み上げてきた。このページをパメラが見たらどんな顔をするだろうか。


 考えるだけで恥ずかしい。


 パメラが見送る際、どうにか謝れたが、あの日記に書いたことを思い出し、微妙な謝りかたになってしまった。



 その日の夜、仕事で遅くなり、帰宅したときには午前一時を過ぎていた。先に寝ているように電話で言付けたため、パメラはすやすやと眠っていた。その愛らしい寝顔に目を細めて、額に軽いキスを落とす。


 そして、机の上に置いてあった日記帳に目を通した。


 アドニスは固まった。パメラが自分よりも好きが大きいと書いてきたからだ。


 それはあり得ないとアドニスは思う。


 若い男と話すだけで嫉妬するような男だぞ? 絶対に自分の方が好きだし、愛していると強く思う。


 その思いのままにペンを走らせた。


 そして、アドニスはやはり言葉で伝えなければと強く思う。明日は早く帰って、存分にパメラを愛でよう。


 寂しい思いをさせた分、甘やかして、甘やかそう。


 そう心に誓った。



 翌朝、仕事を早く終えるために早朝から出かける。その行きの馬車でアドニスは練習を繰り返した。


「パメラ、愛している」


 パメラの前でスムーズに言えるように練習は繰り返された。



 そして、その晩、熟れたリンゴのような頬で出迎えてくれたパメラにアドニスは練習の成果を見せつけた。


 特に成果が発揮されたのは寝る前に、二人っきりになったときだった。パメラが恥じらって「もういいですから……」と、言ってもアドニスは愛しているの言葉をやめなかった。


────


最後まで読んでくださってありがとうございます!!


2022.8.25

猫じゃらし様より、アドニスのイラストをいただきました!ありがとうございます!


猫じゃらし様のマイページへ

https://mypage.syosetu.com/1694034/

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― 新着の感想 ―
I found this story today. Love to read (even with gg translate) Hope you will have more cute story l…
[良い点] かわいすぎて悶絶しました!!かわいい!!! ヘタレすぎてアドニスしっかりしろや!とケツバットしたい気持ちに(笑) でもそんなところもいいんでしょうね。 ほっこりする素敵なお話でした。
[一言] すてきなお話でした。 特にシスターのくだりは泣いてしまいます。
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