おっさん企画「究極の一皿」
カシャ。
そう音を立てて、坂井の目の前に置かれていた皿に、スプーンの柄が触れた。それとともに、深いため息が、彼の口元から漏れる。
「今日のはどうだった?」
あと三口分ほど残った皿から、もう一さじ口に運んだ真奈美が、上唇についたルーを舌で舐めとった口で訊ねた。その唇に絶えず奪われそうになる視線を無理矢理彼女の瞳にやり、坂井は満足そうにうなずく。
「ああ、すばらしかったよ。ただ……」
「ただ?」
最後から二さじ目をすくい取ったスプーンを、真奈美は二人の視線に乗せる。ここまで食べ進んでも、淡く染まったサフランライスを深い色合いのルーが半ばほど覆っている。坂井自身の口と内臓から立ち上ってくるものと同じ刺激的な香りが、そのスプーンからも漂ってくる。
文句のつけようもない。ギリギリまで、それこそ『ウジがわく』寸前まで熟成させた鴨肉の濃厚な旨味をいささかも殺すことなく、鴨肉に特徴的な臭みだけをスパイスの香りで消し去っている。いや、目を閉じてゆっくりと味わえば、わずかに臭みは残っているともいえる。しかし、それすらも味の深みを増すための隠し味となっているのだ。
「俺のような歳の人間にとっては、少し刺激的すぎるかもしれない」
坂井はハンカチを取り出すと、エアコンのよく効いた室内にもかかわらず薄く汗のにじんだ額を拭いた。そして冷水の入ったグラスを取り上げると、少し名残惜しげに口に含み、舌の上に残った味を洗い流す。
「辛すぎたかしら」
真奈美は皿に残った最後の一口分で、残ったルーをぬぐい取るようにしてすくい、口に運ぶ。そして目を閉じてゆっくりと咀嚼する。
「そう言うわけではないが」
その様子を見つめながら、坂井はネクタイを緩めた。己のうちにある、すでに枯れかけた、そう思い込んでいた衝動が、ふつふつと沸き立っているのを感じる。もう一度汗を拭う。末梢の血管が広がって、肌が赤らんでいるのを、坂井は自覚する。
スパイスの大部分が漢方薬の原料であるということは、周知の事実だ。だから、それをスパイスの効能のせいなのだと、彼は思い込もうとした。自分の娘ほど歳の離れた真奈美に対して、自分の身体がこのような反応を起こすはずはないのだ。もっとも、別れた妻の元に残った息子は、やっと今年高校に入ったばかりではあるのだが。
「一応、合格点はいただけた?」
最後の一口を飲み込んだ真奈美もスプーンを置くと、グラスを手に取った。浅黒い、しかし滑らかなのどが、こくりと動く。ああ、とうなずく坂井を見つめる瞳も、熱く潤んでいる。それもきっと、スパイスのせいだ。
「ごちそうさま」
自分でつくった料理に対して、真奈美はそう軽く手を合わせ、ダイニングチェアから立ち上がり、テーブルの上の皿とグラスに手を伸ばす。少し待っててね。そう残して、それらをキッチンへと運ぶ。
ダイニングキッチンの対面式のカウンターには、サイズこそ小さいもののホテルの厨房にあってもおかしくないような、本格的な調理器具の数々が、綺麗に磨かれて納められている。
「ねえ、何か飲む?」
シンクで軽く水洗いした皿とグラスを食洗機に納めるガチャガチャとした音のあと、真奈美が訊ねてくるのに、いやと首を振って坂井が答える。そう。そう言ってうなずいた真奈美が、タオルで手を拭って、ダイニングに戻ってくる。それを、坂井は立ち上がって迎えた。そっと肩に寄せられた真奈美のさらりとした黒髪からは、淡いシャンプーの香りがした。そして、力を少し込めて抱きしめたとき、汗ばんだ彼女の首筋からは深いスパイスの香りが、微かにした。
ホテルのコンサルタント業務に携わっていた坂井は二年前、経営再建に取り組んでいるある老舗ホテルに引き抜かれた。そこのレストランで出会ったのが、真奈美だった。
その出会いに、坂井が何かの予感を感じたということは、まるでない。
一介の、しかも坂井と同じ時期に採用されたばかりのホールスタッフでしかないはずの彼女が、ワンディッシュランチの盛り付けについて給仕長と言い争っているのを端で見て、元気な娘がいるなと思った程度だ。
しかし実際に盛り付けが変わり、それが旧態依然としたこのレストランでは、決してみることができないようなセンスであることに気がついてから、坂井の彼女を見る目が変わった。
噂好きな、坂井と同年代の女ソムリエから、彼女がこのホテルの創業者一族の跳ねっ返りで、数年の海外放浪のあとここに押し込まれたのだと聞いて、その尊大ともいえる態度と、日本人離れしたセンスに納得はした。しかし、仕事のために足繁くレストランの厨房に通い、当たり前のようにシェフたちとの会話の輪に入ってくる彼女に、次第に坂井が惹かれていったのは、そんなことが理由ではないはずだ。
彼女から漂ってくる、エキゾチックな香り。
そこそこ整っている、そして研鑽も欠かしていないであろうその容貌は、だがそれでも平凡な日本人のものであったし、時に見せる洗練された身のこなしも、しばしば見せる野卑な口調も、ニューヨークのホテルに勤務したこともある坂井にとっては、決して目新しいものではない。それにもかかわらず、彼女は他の若い女たちとは違う、そんな気がしていた。
真奈美の方から食事に誘ってきたのは、なぜなのだろうか。彼女のベッドルームでつかの間の夢を共有するようになった今でも、坂井は不思議に思う。
(パパに似ているから)
系列の貿易会社の経営者である彼女の父親は、坂井より七歳ほど年上の、ゴルフ焼けした恰幅のよい紳士だ。坂井も数度、パーティーや会議の席で会ったことがある。笑った口元が真奈美によく似ているが、ヒスパニックとのクォーターである、彫りの深い坂井とはまるで似ていない。そのあとで真奈美がくすくすと笑ったことを考えると、彼女も本気でそのようなことを言ったわけではないのだろう。
「なにをしているの?」
「いや、なんでもない」
身体の下から、真奈美にそう問われて、慌てて坂井は首を振り、愛撫に戻る。若い頃のような激しさはもう求めようもなく、じっくりと互いの肌を温めあうようなセックスに彼女もさほど不満はないようだが、さすがに事の途中に自分の腕の匂いを嗅いでいたというのはまずいだろう。代わりに彼女の首筋に唇を這わせながら、その香りを味わう。
(ここの味は、好みではなかったかな?)
(私は、自分のショップを持ちたいの)
坂井の手がけた外資系ホテルのフレンチレストランで、食事を終えた真奈美の少し不満そうな表情。それに問いかけた坂井に、彼女はそう答えた。
(つまり、その参考にはならなかったと?)
少しプライドを傷つけられたような坂井に、真奈美は、まあね、とつまらなそうに言う。
(やっぱり、自分が好きな味を、お客様にはお出ししたいじゃない)
(どんな味……いや、どのような店にしたいんだ? アドバイスくらいならしてあげられるが)
(あのね――)
悪戯っぽい、それでいて少し照れくさそうな表情で、そして、重大な秘密を打ち明けるような口調で、真奈美は言った。
(カレーショップなの)
(カレー……? インド料理?)
(ううん。カレーライスのお店。嫌い?)
(いや――)
幼い頃、決して裕福とはいえない家に育った坂井にとって、月に二度のカレーの日は、最高の楽しみの一つだった。妻と別れて独り身に戻ってからは特に、忙しい日常との折り合いをつけるためだろうか、会食のない日には必ず冷水の入ったコップを横に置き、出来合いのカレーライスを頬張るというのが、洒落者で通っている坂井の人には見せられない、隠された一面でもあった。
(だと思った)
真奈美はテーブル越しに坂井の手を取り、自分も身体を乗り出して、それを己の口元に近づけた。まるで騎士が貴婦人に対してするようなポーズは、しかし口づけをされることなく終わる。
(だってあなたからは、スパイスの香りがするもの)
「究極のカレーってどういうものなんだろうって、ずっと考えていたの」
汗ばんだ坂井の胸板に頬を寄せていた真奈美が、そう言って坂井の肩に歯を立てた。その痛みに軽く眉をしかめながら、坂井は知っている、とうなずく。
あの日、食事のあとに寄ったバーで、彼女はカレーに対する思いを熱く語った。
小さな頃、どんなに豪華な食事よりも、給食のカレーライスが嬉しかったこと。ヨーロッパから中東、インドへと旅を続ける中で、スパイスの魅力にとりつかれたこと。スパイスとは本来その香りで食材の匂いを消すためのものであり、淡泊な具材とは合わないのだ、臭うほどに熟成されたものと合わされてこそ、本当にスパイスを使う意味があるということ。だけど、何の食材も使わない、スパイスだけを味わうカレーというものを夢見ているということ。
「だけど、やっぱりスパイスはスパイスよね。それだけが目立っても、決して美味しいカレーにはならない」
「諦めたのかい?」
「そうじゃないけど。でも今お父様にお願いして、世界中の発酵食品を集めてもらっていてね。知ってる? シュール・ストレミングに、キビヤック」
坂井も、シュール・ストレミングは知っていた。スウェーデンでつくられているニシンの缶詰で、地獄の、と冠されるほどに臭いらしい。
「あとは、エピキュアチーズに臭豆腐に」
「エピキュア……まさか、それを」
「そう、みんなカレーに入れるの」
思わず吹き出した坂井の上で、真奈美も楽しそうに笑う。
「あとは、アバ(内臓)もよく熟成させてね。それらなら、きっとスパイスに負けない具材になってくれるわ」
その笑い声に、なぜか坂井は恐れのようなものを感じた。それはすでに、彼の好きなカレーライスとは別のものではないのだろうか。
「そういえば――」
再び肩にかみついてくる真奈美を抱き寄せ、お返しとばかりに彼女の耳たぶを甘噛みする。
「人の肉って、臭いらしいな」
くすぐったがって身をよじる彼女を更に固く抱きしめる。
「共食いをしないように、同族の肉はまずく感じるようにできているっていうが。君の肉はきっとスパイスの香りがするんだろうな」
「もう一度、味わってみる?」
熱い吐息は、刺激的な香辛料の香りがした。それと同じ匂いは、二人の体中から立ち上っていた。
「辞めた? 彼女が?」
次の日の朝、ホテルのレストランを訪れた坂井を待っていたのは、真奈美が昨日付で退職していたという、ソムリエの言葉だった。動揺を見抜いたのか、とたんに興味深そうな色を浮かべるソムリエの視線から逃れるように厨房に向かい、いつもと変わらない風を装ってシェフたちと打ち合わせを終える。
彼女からはなにも聞いていない。事情を聞こうと暇を見つけては電話を入れてみても、つながらない。その彼女の方からメールが届いたのは、ほとんど上の空で一日の仕事をこなしおえた、午後八時を回った頃だった。
――ごめんなさい。あなたに伝えておくのを忘れていました。私は今、私達のカレーショップで出すメニューをつくっているの。もう、ほとんどは味見をしてもらったよね。あと一つだけ、昨日言ったカレーが完成したら、本格的にお店を出すために、動き出そうと思ってる。それともう一つ。あなたのためだけの、特別なカレーも仕込んでいるの。出来たらまた、味見してください。
『私達の』 その言葉に、坂井はうろたえた。そんなつもりはなかった。確かに将来の話もした。しかしそれは真奈美一人の未来であり、そこに坂井がいるはずもなかった。ただ、すれ違うその瞬間に交わり合った二人であった、それだけだったはずだ。
だが、その狼狽がもたらしたものは、坂井にとって決して不快なものではなかった。何だ。俺は彼女に惚れていたんだ。幾度も幾度も夜を共にしたことが、遊びであったつもりはない。しかし、二回り近くも歳の離れた若い女との未来を考えることは、彼には出来なかったのだ。別れた妻のこともあった。そのそばで暮らしている息子とのこともあった。
しかし今、彼の中から、己自身に課していた枷が外れた。私達の、そう、俺たちの店。
本来の仕事を上の空のままでこなしながら、坂井は店のプランを考える。場所はどこがいい。エントランスは、インテリアは。
真奈美から再び連絡が来るまでの十日間。それは、子供の頃、カレーの日を待ちわびていたときに似て、狂おしく、そして幸せな日々だった。
開いたマンションの扉の、その隙間からのぞいた彼女の顔は、十日前に別れたときと同じ人物だとは思えないほどにやつれていた。
「いらっしゃい。待ってたわ」
「どうしたんだ。体調でも――」
「大丈夫。ずっとこもりっきりだったから。さあ、入って。出来たのよ」
ドアをくぐって、坂井は更に眉をひそめ、鼻に皺を寄せた。むせかえるような鼻をつく香辛料の匂い。そして、その影に隠れるようにして漂っている、この臭いは。
その臭いは、キッチンに入るといっそう強くなった。
「さあ、席について、すぐによそうから」
立ち尽くす坂井の腕を惹いて、テーブルまで連れて行き、そして軽くキスをする。その唇からも、首筋からも、真奈美の身体中から、濃いスパイスの香りがしていた。
「真奈美っ。まさか、君」
「なに?」
キッチンに向かおうとしていた真奈美は、熱に浮かされたような表情のまま振り返った。
そのあくまで幸せそうな表情に、坂井は震えた。
「まさか、自分自身を……」
真奈美の顔から、表情がすぅと消えた。大きく瞳を見開いたまま、何事かを問いかけるように坂井を見つめる。
「ああ、なあ。もしかしたら、俺があんなことを言ったからか。人の肉は――」
「臭い。だけど、私の肉はスパイスの香りがする」
何の感情もない声で、真奈美が坂井の台詞を引き取った。
「なあ、真奈美。俺は――」
「だから、私を食べて――」
そこまで言って、真奈美は突然吹き出した。
「って、馬鹿ね。そんなことするわけないじゃない」
笑いながら自分の腕の匂いを嗅いで、真奈美は顔をしかめる。
「そりゃあ、ここしばらく、ご飯とスパイスしか食べていないから、本当に美味しくなってるかもしれないけど。だけどメールに書いたじゃない。私達のお店のためのメニューだって。食べられたら、私がいなくなっちゃう」
再び真奈美は、問いかけるような、しかし少し不安そうな瞳で坂井を見つめた。
「まさか、食べたいの?」
「ま、まさか。俺は、俺たちの店のメニューを食べにきたんだ」
『俺たちの』
慌てて応じた坂井の言葉を聞いたとたん、真奈美の表情がぱっと明るくなった。それを見て、坂井の心からも、全ての気がかりが消えた。そうだ。俺たちの店のメニューなんだ。
「でも、ちょっと待ってね。先に、あなたのためだけに作ったカレーを――」
そう言えば、ご飯とスパイスしか食べていないと言っていた。もしかしたら、スパイスだけを味わうためのカレーというものを、彼女はつくったのかもしれない。最後に会ったときには、諦めたようなことを言っていた気がするが。坂井はそっと胃をさすりながら、それがどのようなものであろうと食べてやろうと決意する。それに、今まで彼女がつくってきたカレーライスは、本当に美味いものばかりだったのだ。この記念すべき日に、食べられないようなものを彼女が出してくるはずがない。
鍋からルーをすくう、くすんだ金属音のあと、真奈美は両手に皿を捧げるように持って戻ってきた。
「さあ、召し上がれ。これがあなたのためだけにつくった――」
「カレー味のうんち」
「帰る」
「え!? ねえ、ちょっと待って、嘘、これ、冗談よ。あ、うんちって言うのは冗談じゃないんだけど、ずっとスパイスとライスしか食べてないし、スパイスには殺菌作用もあるから、たぶん食べても大丈夫――」
「帰る。帰らせてくれ」
「あ、ね、ねえ、まだあるのよ。ほら、言ったじゃない。世界中からすごい発酵食品を取り寄せたって。苦労したんだから。全ての悪臭をね、消すように何度もスパイスの調合を変えて、発酵食品の濃厚な味だけを引き出すことに成功したのよ。……なんか、いろんな食材を混ぜ過ぎちゃった気はちょっとしないでもないんだけれど」
もう皿によそう余裕すらなく、真奈美は鍋ごと運んでくる。蓋を取ったその中に、どす黒い、どろりとしたものがのぞく。
「これこそ、究極のカレーよ。名付けて、うんち味のカレ――」
「やっぱり帰る」
「どうしてっ!?」
すがりついてくる真奈美を振り払って、坂井は部屋から出て行った。その背中に、涙まじりの問いがたたきつけられる。
「私を、愛してくれてはいなかったの? 私達の――」
しかし坂井は、振り返ることもなく扉を閉じた。胸を締め付けるような泣き声と、スパイスの香りだけが、しばらく漂い続けていた。
そんな問いに答えられるほど、俺はもう若くはないんだ。
何か違うような気がしながら、坂井は秋の気配を含んだ夜風の中、一人帰途についた。
ただ、二度と大好きだったカレーライスを食べることが出来ないだろうという喪失感だけが、彼の心を苛んでいた。
(ふぃん)
ごめんなさい。
いやもう、カレーを食べるたびにこのネタが浮かんでくるんで、とうとう書いてしまいました。
だから、ごめんなさいってばっ。