水辺の鳥
よろしくお願いします
青い髪の青年は私に言った。真に願う心が在れば一度だけその想いを叶えると。
だから私は願った。――『殺して』と。
青年は笑う。
嘲笑った後で――私に『生』を渡した。
「ヴェンディ様。何をしてらっしゃるんですか?」
声に私は我に返っていた。あれ。今まで何をしていたんだっけ。寝てたのかな? ……鍋とオタマを持って。記憶が無いんですけど。なに、これ。怖い。そう考えながら引き攣った顔で振り向くとそこには少年が鬼のような顔をして立っていた。
アルス・キューブ。栗色の目と髪。白い肌を持つ整った顔立ちの少年に私は笑いかけると少年の口許は不機嫌そうにしてへの字に曲がる。
「うーん。料理かなぁ。――多分」
「やめてくださいと言ったでしょ? あなたは私の『主』なんですからどんと構えていれば問題ないと何度言えば良いんですか?」
いや。そんなものにした覚えはないんだけど。そう言おうと思ったんだけど、その会話何度しただろうか。結局『主』だからで押し切られてしまう。大体、『位』で言うならこの少年の方が断然として上なんだ。国王の弟君を親に持つんだから。そんなのが何故私にかしずいているかと言えば、私はどうやら『水の精霊』らしいんだ。これが。
『らしい』と言うのは私自身認めてないから。だってここ――精霊宮――に来るまでの記憶ないし。大体力も発揮できないと言うか感じられもしない精霊って何さ。時々酷い干ばつに襲われていたこの国に何もできない私は――やっぱりただの一般人だと思う。例え精霊の証である『水色の髪と目』を持っていても。
アルスには申し訳ないけれど。
「いや、でも。わたしだってだまは何かしないと。アルスだけに任せるのは申し訳ないし――ここを出て行けば自活しなければいけないわけで」
そう。『神殿』にはアルス一人しか始め住んでいなかった。いつからここにいたのか分からないけれど、私が神殿に迷い込んだときからなんでもできる子供だった。一人でいる理由を『何でもできるから』と言われて納得したが、そんなわけ無いという事に最近ようやく気づいたんだ。
何も聞けてないけど、もうどうでもいい気がする。
「問題ないです。俺が何とかしますから。ていぅか、ここから出ませんから」
どうやら、決定事項らしい。本物が来たら追い出されるのは確実なのにさ。私もここは好きだし住みよいけれど――きっと居る場所じゃないよね。
アルスはそれ以上話す気は無いようでクルリ踵を返すとカツカツと足を鳴らしながら調理場を出て行く。しかしながら何か思い出したようにくるりと私の方に振り向くと、ニコリと微笑む。
何だろう?
「あ、野菜の収穫頼みましたよ。ヴェンディ様」
言われたことが一瞬分からなくて私は目をぱちぱちさせていた。いつもはそんな事なんて任せてくれないのに。――暑いからと滅多に外へも出してくれない。何と言う過保護だと思っていたんだけど。
「いいのっ?」
私は嬉しくて声を上げてしまっていた。そんな事を許すなんて珍しい。何か裏があるのかと勘繰ったけれど――やっぱりどうでも良くなった。
だって何か言って『ダメ』とかいわれたらいやだもの。
くすりと大人びた笑みをアルスは落とす。たまにこんな表情するんだよね。アルスは。
「たまには、何か持っていきますね」
「うんっ!」
私はまるで遠足が待ちきれない子供の様に裏庭へと駆け出していた。
******
裏庭にはさまざまな野菜が植えられている。この『神殿』は王都から遠く、辺境にあるため滅多に買い物に行くことは出来ずもちろん商人も来ることは無い。その為自給自足が主となってくる。さすがに肉や魚は無いけどある程度は何とかなるものだなと感心する。
籠を持って、帽子をかぶって準備万端。空を見上げれば焼け付くような太陽がぎらぎらと輝いていた。
「――ん。コレはいいのかなあ? まだ緑だし」
独り言ちて『ま、いいか』そう心の中で結論をだす。青々とした実を茎からもぎ取れば甘いような苦いような香りが鼻についた。それを籠に詰め込めば後からやって来たアルスがひょいっと拾い上げた。
「ああ。もう少し赤くなってから取らないと。でもまぁ、酢に付けてしまえばいいですね」
「ダメなの? じゃ、こっちの野菜は?」
「それは熟れて――」
どうしたのだろう。アルスは何かに気付いた様に顔を上げて視線をぐるりと泳がせたと思えば、なにかを見つけたらしい。顔を軽く強張らせた。
「アルス?」
私も顔を向けて見れば、そこには大柄な男が立っていた。上等な布――おそらく絹――を使った美しい衣服。その腰には『使えないだろう』剣が止めてあった。黒い髪と眼。褐色の肌はこの国にはよくある色で、私たちの方が異質だったが今はその男の方が異質なように思える。
中年の男は驚いた様に目を見開き、アルスはどこか苦渋に満ちた表情をしていた。
なに?
「アルス。その小娘――『水の』か? 存在してたのか? お前が一向に連絡を寄越さないので来てみれば――」
「父上」
呻く様に言うアルス。うん。なるほど面差しが似ているかも――って、お父さん?
国王の弟君――クレバス殿下じゃないか! 私だってそのぐらいは知ってる。
ズカズカとクレバス様は大股で歩くと私とむアルスの前に立った。ぎろりと黒い目がアルスを非難するように捉え、アルスはぐっと口元を結ぶ。
「何故、今まで隠していた? 水の精霊が降臨している事を――民を思えばそんなことは出来なかったはずだ」
「……申し訳ありません。しかし、娘は『力』を持っていないようで私にも確証は出来ず……」
アルスのどこか消え入るような声を遮るようにして、パンツと警戒のいい音がする。――刹那亜雌の身体が飛ぶようにして地面に叩きつけられた。
殴ったんだ。この人――。私はアルスに駆け寄ると、睨み付けるようにしてクレバス様を見上げていた。
「何するんですかいきなり!」
「無ければ『次』を迎えればいいこと。前回も、前々回もそう回って来た。お前だけ例外と言う事はありえんわ。――それでは民は救われん」
聞いてないな。と言うより私が目に入っているのだろうか。そう考えていたら、驚くほど冷たい目で見られて私は背中が凍り付くような気がした。
グイッと大きな掌が私の二の腕を掴んで否でも私を立ち上がらせる。
「娘。来てもらうぞ? お前には『雨』を降らせてもらう」
「あ、でも。私は――」
何もできないのに。アルスが言ったように。私はアルスを困ったように見るとアルスは私から慌てて目を反らしていた。まるで後ろめたさがあるかのように。ずるずると遠ざかる少年の姿。私は彼が見えなくなるまで見ていたが、最後の姿は悔しそうに土を殴る姿だった。
――まるで泣いている様に。
「アルス?」
どうして泣いているんだろう? そんな表情なんていつもしないのに。私はそばに行って慰めてあげたかったけれど、どうやらそうもいかないようだ。さくっと終わらせて、さくっとここへ帰ろう。どうせ役立たずですぐに返されるだろうから。
「何も、できなければ死んでもらうしかないな。お前も――あの愚息も」
「へ?」
えっと、何を言っているんだ。このクレバス様は。私はともかく――いや、良くない、盛大に良くないけど、何故アルスまで殺す必要があるのよ? 悪いのは水の力を使えない私なわけでしょ?
その疑問を呟く前にクレバス様は平然と私を馬車に押し込みながら口を開く。一体どこに行くのかも教えてほしいものだけれど。
「あれはお前に『精霊』に与えられた贄だからな。『次』には使えない」
「……わたし、人食べませんが?」
ふかふかのクッション。革製の椅子。座り心地は驚くほどいいが、そんなものを堪能している場合では無かった。ぐっと睨み付けると『知っている』とクレバス様は平然と答える。
「ともかく死にたくなければ雨を降らせろ――精霊なら精霊らしく民を救え」
そもそも精霊にそんな義務はないだろう。言いたかったがなんだか私が口を開くことは困難な気がした。威圧された狭い空間。ただ、アルスの横顔を思いながら流れる景色を見つめていた。
******
王都は『神殿』とはまるっきり違っていた。標高が少しだけ高い神殿は地下水が豊富なため案外緑豊かな土地なのだが、王都に近づけは近づくほど茶色い荒野が広がり、やがて乾いた空気の城塞都市にたどり着く。たまにある干ばつなんて大したことなんて無いとアルスは笑っていたが――。これは思ったより酷いんではないだろうかと言うのが私の感想。カラカラの大地から察するともう何日雨が降っていないんだろうか。
閑散とした街を抜けて王城にたどり着くとすぐに衣服をはぎ取られ、なんだか質の良い衣服に取り替えられた。こんな事をするなら水を引き出す努力に回したらどうだと思うけど素人考えかな。やっはり。
それにしても。
「お可哀想に。王もこんな事やめればよいのです――」
私を差し置いて悲壮な顔をするのはやめてください。メイドさん。というか死ぬ限定だよね。いや。死ぬ自信しかないけどさ。
――でもアルスの命も掛かってるし。帰りたいし。私は苦笑を浮かべて見せた。
「仕方ないよ。何かにすがりたいんだから。というか、前にも会ったような口ぶりね?」
メイドさんは不思議そうに眼をぱちぱちさせる。え、何か変なこと言ったかなぁ。
「ご存じないのですか? たった四年前ですよ? 同じことが起こったのは。その前は六年ほど前――いずれも雨など降らすことは出来ず……ああ。四年前はご一緒に姫様が亡くなりました。国王の末姫様で――」
四年……私とアルスが会ったのが二年前で。――アルスが私を外に出したくなかったのは私の存在を知られたくなかったんだろうなと何となく思った。
だって私の為に死ぬのなんて嫌でしょ? くだらない理由の為に。
だから何とかアルスだけでもしてあげたいんだけど。何も浮かばないんだ。雨は降らすことなんてできないし。国の皆には悪いと思うけど。
「……何で王家の人が一緒に死ぬの?」
「さぁ。その方が国民に見栄えするからでは? アルス様もお可哀想に。末姫様の死と共に神殿に連れていかれ、そこに置き去りにされた上にこの仕打ちなんて――優しいいい方なのに」
いや――だから。さめざめ泣くのはやめよう? 私が泣きたいんだから。こう泣かれると思わず苦笑を浮かべて慰めるしかなくなってしまうじゃないか。私は『大丈夫よ』そう言いながらメイドの方に手を置くと『お優しゅうございます!』とさらに泣き出してしまった。
――ともかく話題を変えよう。
「ねぇ、雨を降らせたって史実ある?」
言うとどうしてそんな事も知らないのと言う雰囲気を醸し出してきたんだけど、仕方ないよね。勉強なんてほとんどしてこんかったんだからさ。
「一つ。たった一つしかない伝説ですよ? 百年も前で眉唾ですが――詩にもあります」
言うとメイドはぐっと喉に何かを飲み込んで歌い始める。それはどこか聞き覚えのあるようなゆったりとしたスローな曲。
青き髪の青年。黒き髪の乙女と共に千の夜を渡る。
されど二人同じ時を歩まん。乙女は長き眠りにつき。その躯は大地に還る。
青年は瞼を濡らし、やがて雨となり、湖となった。
その地は肥沃な土地となり人々を幸せへと導かん。
「……。なに? そのメルヘン」
なんだか頭が痛くなってきた。つまり一途な青年の話だよね。これ。恋人たちの悲恋のような。コレを聞いて私はどうすればいいんだろう。これが何も知らない夢見る乙女なら『素敵』と言うのだろうけど、死を前にしてそんなの憧れる気にもならない。
――大体『乙女』が死な無いと雨降らないし。
ん? もしかして伝承になぞってたりするの?
嫌な予感に顔を引き攣らせてしまう。
「と言う事は……もしかしてアルスが先にって事?」
「――お可哀想に」
うわぁ。
そうなんですね? 答えないけど、さめざめまた泣き始めたけど。私はため息一つ吐き出していた。
「まったく。どうしろって――」
今から『精霊』らしく水ても扱えないかな。なんてじっと掌を見てみるがそんなもの出てくる様子など一向に無い。ごろんと与えられたベットで身体を転がせば涙目でこちらを見ているメイドと目が合った。
「まだ時間はあります。ゆっくりと考えてみては? そうですね――一度湖に行かれてみてはいかがでしょうか。私も何かお手伝いできることがあればさせていただきます」
「……」
ついでに一週間後だ。私の死刑執行日。それまでに何とかしないと――アルスが死ぬよね。ともかく外出は許されているから。当然逃げたりすればメイドさんたち始め全ての『処刑』を執行する。と言うあくどい脅し付きで。――とりあえず行ってみるか。藁にもすがりたいし。ついでに前回と前々回。『精霊』達の墓参りもしようとそのありかも聞き出していた。
******
――うわぁ。
王都から少しだけ離れた地区。そこにあったのは荒野にポッコリと開いた穴だった。確かにあのメイドさんに聞いた所なんだけど、元湖には心地がいいほど何も無い。ただの巨大な『穴』だ。そして周囲を見回してみてもなにもない。荒野がただ単に広がっているだけ。
「楽しくない」
呟いてみれば、それを聞いていた護衛の男は『だよなぁ』と頷いている。ひゅうと乾いた風が吹きすさぶ世界。私は落ち込む気持ちを抱えながらため息一つ。とぼとぼと馬車に向かえば、ふと足元に何か落ちていることに気付いた。
何だろう――石。拾い上げれば琥珀色に輝いてきれいだ。
「なんすかね?」
「うーん? 取り合えず次に――ってアルス?」
声を私が上げたのが先だったか、護衛の人が倒れることが先だったのかは分からない。ともかくそこには良く見知った少年が立っていた。
パンパンと埃を払う様にして軽く手を叩きながら私を見つめる。
「さ。帰りましょう」
言うと乗って来たらしい馬を指示した。
「え? どうしてここが?」
「ティナルさんに聞いたんです。――早く」
ティナル。あのメイドの人かも知れない。今日も服を整えてくれた。目立たないように少しだけ地味にして。
「でも」
「いいからっ」
有無なんて言わさず、グイッと私の手を強引に引っ張るアルスはどこか焦っている様にも見えた。どこかで戦ってきたのだろうか。別れる前までは付いていなかったはずの傷が袖の間からちらちら見えて思わず顔を顰める。もしかしたら監禁されていたのかもしれない。
「でも――皆が。それに逃げても同じじゃない?」
「そんな事は無いです。俺は守ると言った。どこにでも、どんなことでも」
どんなになっても――そう言っている気がして私は思わず足を止め、アルスは怪訝そうに私を見つめた。
私はぐっと琥珀を握りしめる。何だろう。石が温かい。なんだか力を貰える気がした。おかしな気分だけど何でも出来そう。
「アルス。大丈夫だよ。アルスは死なない。――私護るから。今まで護ってくれたお礼だし。――だから。逃げて」
「そんなこと。――そんなことできるわけがないだろ!?」
半ば悲鳴のようだった。こうして敬語が抜けるのも久しぶりだけど、心底『痛そう』な顔は――そう。あの時の別れ以来だ。
可哀想だ。痛くて、痛くてたまらない。そんな顔をしている。自称私の下僕で世話係。むすっとして意地悪だけど優しい人だと思う。でも。
「アルス。私は――アルスの何?」
思わず言葉が、出てきていた。飲み込むことはもうできない言葉にアルスも私も大きく目を見開いていた。
少しの沈黙。考えるようにして視線をアルスは巡らせた後で、言葉を紡ぐ。
「すべて」
「……」
「出会った時。俺はあそこに一人。いつ来るか分からない『精霊』とやらに捧げられてくだらない人生を終えるんだと思ってた。叔母上の様に。毎日、毎日同じことの繰り返し。食べて寝て、掃除して。勉強して。ついに生きているのか何なのか分からなくなった頃――ウェンディが俺の前に現れたんだ。水の精霊と言うよりは俺に死をくれる天使だと思った」
そう考えれば納得がいった。
なんだか会った時に笑顔が歪な子だな。とは思ったんだよ。なんだろう『生きていない』というか。でも、『死にたかった』と言われると少し悲しい。まだ――子供だったのに。『でも』と私の暗い気分を打ち消すようにアルスは笑う。
「すぐに、父上に言わなければと思ったんだ。そうすれば――けど。なんだかウェンディといるのが楽しくなってきて。何もできないし。料理をやれば炭が出来るし。掃除なんてどこをどうすれば壁が破壊できるのか不思議だった」
それは私も不思議だったんだ。何度も挑戦はしたんだ。したんだけどある時からアルスが『俺がやる』と言う様になって。要は私に家事をさせたくなかっただけなのかもしれない。
「そんな日々が楽しくて楽しくて――気が付いたら今になってて……手放したくなくなって」
そこでようやくアルスは我に返ったらしい。自分が何を言ったのか思い出して、瞬間的に顔を沸騰させている。
「だっ、だから。行きましょう!」
「……行けないよ」
一瞬だけ。一瞬だけ夢を見た。あの温かい日々の中で暮らす夢。それはとても幸せで――でも。でも。一生逃げ回らないといけないのは、嫌だ。もしかしたら『次』の人が雨を降らせてくれるかもしれないに、このままにはしておけない。それが少なくとも与えられた私の義務だよね。きっと。いま、分かっちゃった。
私は――終わらせなきゃ。
それにメイドさんも、みんなも死なせたくないし。
「ウェン――」
にこりと私は微笑んでいた。アルスは絶望の入りまじった目で私を見つめる。けど、ごめんと私は心の中で転がしていた。
「たとえば、ここで死んだらどうなるのかな?」
緩んだアルスの手をパットはぎ取ると私は身をむ翻していた。目指すは倒れている護衛の剣。柄を握れば冷たい感触が一気に這い上がって来る。鞘と刃が軽く擦れる音。ぐっと腕に重く伸し掛かる刀身は銀色に輝いていた。
「やめっ」
大丈夫。
ドクン。ドクン。心臓の音が聞こえる。それ以外は何も聞こえない。走って来るアルスがスローモーションのようだ。
泣かなくていいのに。
――もう。自由なんだから。
******
「って。あれ? ――生きてる」
目が覚めると、私は見覚えのある部屋に寝かされていた。王都――いや。ここは神殿だな。包ましやかな小さな部屋。大きく開かれた部屋の窓からはぎらぎらと太陽の光が入ってきていた。
その前でパンパンとクッションを叩いているメイド――いやアルスが一人。彼は不審そうに私を見ている。
いや、乙女の部屋を勝手に掃除するあなたも不審だからね。
「何を馬鹿な事を言っているんですか?」
「……夢?」
うわぁ。いい年の人間が何言ってるんだみたいな軽蔑の視線が痛い。しかしながら合わせるアルスはやっぱり優しい。ため息一つ。
「どんな夢を見たんですか? 怖い夢ですか?」
「ん。そうでもないけど――何で私は水の力を扱えないんだろうって夢。そしたら、みんな救えるのに。アルスも守れるのに。――『普通』に生まれたかったな。そしたらさ。死ななくていいじゃない?」
言うとアルスは顔を顰め私の足元に座る。その手は微かに震えているのが分かった。――そう言えばなんだか首に違和感。確か夢で刺した処だっけ。
気になって触れると包帯がぐるりと巻いてあるのが分かった。
――ああ。夢ではないんだ。
私は苦笑を浮かべて見せる。
「アルス。私が死なないと『次』が出てこないんだよ? 皆困るよ。メイドさんたちも――」
言うとアルスはフルフルと首を横に振る。その後で立ち上がると近くの小物入れから小さな手鏡を取り出してきた。
それを私に差し出すが――なに? 寝てて顔がパンパンとか言いたいの? それとも悲しいくらい不細工になっているとか。何でこんな時に。
不審げに手鏡を私は覗き込むと――思わず息を飲んでいた。
「一か月前。ウェンディが自殺した日。雨が降りました。それはウェンディがしたことなのか、それとも自然なのか俺にはよく分かりません。雨は一か月間降り注ぎ、あの湖は水で満たされました。民は活気を取り戻し――俺も恩赦されてここに居ることを許されました」
「……うん」
私は自身の髪に触れる。色素の薄かった水色の髪は今やもう見る影もなく――黒い。その眼も。睫毛の一本一本まで。そこにはかつての『ウェンディ』はいない。その傷だけがそれであった事を物語っていた。ポロリとなんだか涙がこぼれる。それと別れが惜しかったわけではなく、戻ってこれたこと――生きていることが素直に嬉しかった。
「そしたら――」
「……帰りたかったのかな?」
私は涙を拭いながら苦々しく笑う。
そう言えば私の頭の中に『ウェンディ』である前の記憶が蘇っている様に思えた。まだ薄らぼんやりした断片。なんだか青い髪の青年が見えるのは気のせいだろうか。
ま、いいか。何となく不吉だし。
「私はここ大好きだしね」
「あんなに出て行きたそうにしてたじゃないですか?」
不服そうに口を尖らすアルスは少しだけ嬉しそうにも見えた。
「そう、だっけ――ともかく、ここに私はいていいのかな? アルスといていい?」
「……」
なんか。変な事を言ったつもりはないんだけどアルスの頬が真っ赤なんですけど。ああ――咽た。大丈夫?
「――ウェンディ様こそ。俺でいいんですか?」
そう言えば、私もう『ウェンディ』じゃないんだよね。それってここに来た時に与えられた名前だったし。確か前の名前って――。
「リサだよ。アルス。アルスこそ」
「俺は――リサがすべてだから」
「……」
「……」
今度は私の頬が赤くなる番。いや、照れる。照れるよね。そんな事を言われたら。前は必至で気づかなかったけど――。しかも本当の名前だし。
すっとアルスは私の手を取った。茶色い双眸がまっすぐに私を見つめて私は其れを反らすことが出来なかった。
「ずっと一緒に居ていい?」
「……」
当たり前よ。そう声に出すことは出来なかったのでこくりと頷いてみれば刹那私の顔はアルスの胸に押し当てられていた。どくどくと早鐘のような鳴る心臓の音はもはや誰の者なのかは分からない。
ただアルスは『良かった』と小さく呟いて、私は大きな安堵に包まれていた。