発車10分前
さあ、そろそろ時間だ。
二年前の誕生日に千夏からもらった腕時計が、出発時刻の10分前を指している。俺たちは新幹線の改札を抜けた。俺は指定席の切符を、千夏は入場券を手にして。二人で会う日の最後はいつも新幹線のホームで見送るのが恒例になっている。
「あのさ。」
「ん、何?」
「俺、転職することにした。」
「ええ?!ウソぉ?なんでー?」
千夏は地元の訛りで驚いた返事をする。俺が千夏の生まれ育った地域にいたのは大学にいた間だけだからあまり同じ方言は使わないけど、千夏はずっと地元に住んでいるからその地域の方言で喋る。地方の方言というのは飾り気がなくて優しい気がする。俺が東京で育ったせいなんだろうか。
「前から考えてたんだけどね、次の就職先決まったから、報告。」
「そうなん・・・引越しするん?」
「うん。」
「遠くなるん?」
「いや、遠くはならない。ていうか、めっちゃ近くなるよ。」
「え、そうなん!どこになるん?」
大学で出会った千夏とは、卒業してからも遠距離恋愛を続けている。就職活動真っ只中に倒れたお母さんのため千夏は地元に残ることを選んだ。お父さんには任せておけない、と言って卒業までに介護の資格も取ったらしい。行動力があって、情にもろくて、よく笑い泣く。わがままで強引なところもあるが、そういうところも含めて千夏は魅力のある人だと思う。
俺はひと呼吸おいて一気に言った。
「もう新幹線使わなくて済むよ。俺、春からこっちで働くことにした。だから一緒に暮らそう。」
龍平はまっすぐ私を見ていた。少し笑って、少し緊張して、いた。改札階からホームまでのエスカレーターに乗ったまま、私には時空が止まったみたいな気がした。
今、戻って来るって言った。一緒に暮らそうって言った・・・。
龍平の言葉があまりにも唐突で、私は何も答えられなかった。気づいたらエスカレーターを降りて、冷たい風が吹くホームを歩いていた。
「・・・なんでもっと早く言ってくれんかったん?」
やっと言えたのはそんな言葉だった。
大学を卒業してから3年間、私たちは遠距離恋愛をしてきた。龍平は憧れていた仕事をするために大学を出たら東京に戻ると在学中からずっと言っていた。真っ直ぐにやりたいことを語れる龍平が私は好きだった。だから私も、母が倒れるまでは龍平と一緒に東京に出て就職したいと思ってた。でも地元に残ると決めたのは私の意思だ。倒れてから介護が必要になった母を残して遠くで暮らすという選択は、私にはできなかった。地元で就職して、家のことはできるだけ引き受けるようにした。学生の頃は物理的に距離が離れても今は便利なものがたくさんあるんだから大丈夫と思っていた。けれど、現実はそう簡単にはいかなかった。電話越しに会いたいと泣いてわがままを言ったこともあったし、誕生日やイベント当日を一緒に過ごせる友人カップルが羨ましくて龍平にあたったこともある。それでも龍平は私を責めたりしなかった。電話代も交通費も馬鹿にならないのに、龍平は忙しい合間を縫って月に1回くらいの頻度で私に会いに来てくれた。だけど、すれ違いや思い違いで喧嘩の回数は増えて、別れを考えたことも何度かある。
「就職先決まってから言おうと思ったんだ。何も決まってないのに言っちゃうと無責任なような気がして。」
「そう・・・。」
「ダメかな?一緒に暮らすの。あ、もちろんお母さんたちも一緒にって意味だけど・・・。」
龍平は最後の方は不安そうに言った。違う、そうじゃない。私は頭の中が整理できなくて何を言えばいいのかわからなかった。
「ダメじゃないよ。」
「じゃあ、どうした?」
「なんで・・・相談してくれんかったん?」
「びっくりさせたかったから。ていうのもあるけど・・・仕事見つからなかったらカッコ悪いと思ったのもある。」
「うん。」
「なんか、あんまり嬉しくなかった?」
「そんなことないよ、そうじゃなくてね。・・・私、東京に行くつもりだったん。」
「え?」
「東京で働こうと思って、いろいろ調べたりしとったん。」
「いや、でも、ちーは家のことあるし。」
「それも、親と交渉しとったん。」
実は私も、密かに龍平と一緒にいられる方法を探していた。母の介護を依頼できそうな制度や会社を調べたり、家事のできない父に少しずつ家のことを手伝ってもらうようにしたり、それから時々地元に帰れるように支社が地元にある東京の会社の資料を集めたり。もともと一人娘の私は、実家を出たいと言うと両親にいい顔をされなかったけど、今回は親戚も巻き込んで交渉を始めようとしていたところだった。
「そっ・・・かぁ。」
龍平は私の言葉を聞くと立ち止まり、安堵なのか驚きなのかよくわからない表情でため息のように言った。たぶん、両方入り混じってたんだと思う。急に止まった龍平の背中に私はぶつかってしまい、お互い同時にごめんと言ってちょっと笑った。
「なんだ、そうだったのか。断られるかと思ったじゃん。」
今度はいつもの龍平だった。
「でも、交渉は続けないといけなさそう、かな。」
「ん?一緒に暮らすの?それは歓迎してくれると思うよ。うちの親、龍くんのこと気に入っとるし・・・。」
そう言っている間に龍平の乗る車両の乗り場に着いた。もうすぐ来る便に乗るため数人のビジネスマンが列を作っている最後尾に、私たちも並んで立ち止まった。その時、龍平の髪が耳に触れた。
「ちー、結婚しよう。」
耳元で聞こえた言葉は確かにそう言っていた。その言葉と同時にホームは騒がしくなり、龍平の乗る便が到着するアナウンスが響く。突然のことで頭はパニックだったけど、反射みたいに言葉は出てきた。
「うん。」
雑音に負けないよう精一杯の愛情を込めて笑ったつもりだけど、何故か泣き顔みたいになった。龍平の予約した席は先頭側の車両だから、車両が姿を見せるまで少し時間がかかる。この時間をいつも寂しく思うけど、今日は余計寂しく感じる。まだ到着しないで。
「ありがと。・・・今度来るのはちーの家に挨拶に行く日かな。」
「・・・うん。」
照れる。なんか、嬉しい。たぶん私今、顔赤いと思う。
「うち着いたらまたメールするから。じゃあね。」
いつものように頭をぽんぽんと2回撫でて、龍平は新幹線に乗った。すぐにドアが閉まり、ゆっくりと龍平が遠ざかっていく。私は手を振って見送った。幸せで泣きそうってこういうことを言うんだね。
一人になったホームを、改札に向かって戻っていく。吐く息が白い。春になるまで、あともう少し。