妻に「私たち、もう夫婦じゃなくて同居人だよね」と言われたので、同居を解消することにした。
妻がその言葉を口にしたとき、俺は冷めた焼き魚の骨を抜いていた。
「私たち、もう夫婦じゃなくて同居人だよね」
佐和子は笑っていた。
食卓に肘をつき、明日会う友人からのメッセージを読んでいた。美容院のあとに待ち合わせをするらしい。俺の翌日の予定は、まだ決めていなかった。
「同居人?」
「最近、帰ったかどうかくらいしか話さないじゃない。明日もお互い別行動だし」
責める調子ではなかった。八年も一緒に暮らせば、こんなものだという顔だった。
「佐和子は、それでいいの」
「楽でよくない? お互い、自分のことは自分でできるし」
箸の先に、小さな骨が残った。
皿の端へ置こうとして落とし、もう一度つまんだ。
「そうか」
佐和子はスマートフォンを伏せた。
「日曜の夜は家にいるよ。何か食べに行く?」
「日曜、少し話したい」
「うん。何?」
「これからのこと」
妻は一度だけ俺の顔を見て、テーブルの端の封筒へ目を移した。
「転職の返事?」
「それもある」
「そっか。もう期限だもんね」
返事の期限は、翌週の水曜だった。
俺が何を迷っているかも、佐和子は知っていた。
「何度も言ってるけど、転職するのは反対してないからね」
「うん」
「生活費さえ、今までどおりなら」
頷いてから、俺は残った魚を口へ運んだ。
よく噛んだのに、飲み込むのに時間がかかった。
*
十日前、その封筒を開けたときには、少しだけうれしかった。
中堅の部品メーカー。受発注の管理と、倉庫との出荷調整。今の仕事で身につけたものが使えるし、面接では、欠員のある部署を一人で引き受けるような採用ではないことも確認した。
繁忙期の残業はある。ただ、今のように毎晩遅く、休日にも会社の端末を持ち歩く働き方ではなかった。
給与は下がる。
提示された条件から、手取りは今より月八万円ほど減ると見込んでいた。残業代に頼っていた分も大きかった。
それでも、次に働く場所を想像できた。
朝、電車に乗って、仕事をして、帰ってくる。その先にも時間がある生活を。
「ここ、受かった」
書類を見せると、佐和子は「よかったね」と言ってくれた。
俺は向かいの椅子に座り、家計の表も出した。
「前に話したとおり、給料は下がる。今の部屋に住み続けるなら、分担を変えたい」
佐和子の手が止まった。
「まだ、その話になるの?」
俺たちは毎月、生活用の口座へ金を入れていた。
俺が二十万円、佐和子が八万円。
家賃と管理費が十一万円。食費、光熱費、通信費、日用品などを合わせて十三万円前後。残りは、家電の買い替えや二人の将来のために残していた。
別に、それぞれの口座もある。
俺の今の手取りは、月によって違うが三十万円ほど。昼食、仕事に必要な服、散髪、交際費などを払った残りを貯めていた。
転職後に二十万円を出し続ければ、手元に二万円しか残らない。
「今の金額を続けると、自分の生活費も足りない。二人の貯金も、俺の分もあるから、すぐ困るわけじゃないけど」
「だったら、それで少し様子を見たら?」
「毎月取り崩す形では、続かないよ」
佐和子は表を見た。
妻の手取りは、二十三万円ほどだった。俺より安定している。
「私だって、貯金したいんだけど」
「分かってる。だから、家賃を下げる案も出した」
「引っ越しは、お金かかるじゃない」
「最初はかかる。でも、そのあとは下がる。今の駅にこだわらなければ、二人で住める部屋はある」
「今の通勤、楽なのに」
佐和子は今の職場まで、一度乗り換えれば通える。雨の日でも、駅からほとんど濡れずに行けると喜んでいた。
その暮らしを変えたくない気持ちは、俺にも分かった。
「すぐ決めろとは言わない。ほかにも、減らせるところを考えたい」
「食費、削れば?」
「二人で外食もやめて、食材も見直して、それでいくら下がるかだよね」
「そういうの、匡平、得意じゃない」
俺は表を手元へ戻した。
「一緒に考えてほしいんだ」
「だから、食費はって言ってるじゃない」
妻も苛立っていた。
俺はそれ以上続けられず、翌日、過去三か月の食費を確認した。
昼の休憩中に、コンビニのパンを食べながら。
*
三年前、同じ食卓で、俺たちは一度、もっと大きく家計を変えている。
佐和子が会社を辞めたときだ。
当時、妻は小さな販売会社で経理をしていた。
上司が替わってから帰宅が遅くなり、最初は文句を言いながら飯を食べていたのが、途中から箸を持ったまま黙るようになった。
「辞めたら?」
初めてそう言った夜、妻は首を振った。
「次、決まってないし」
「決めてからじゃなきゃ駄目ってことはないだろ」
「そんな簡単に言わないでよ」
俺は簡単に言ったつもりだった。働けないほど嫌なら、別を探せばいいと思っていた。
佐和子が怖がっているのは、会社だけではなかった。
翌朝、妻は玄関に座り込んだ。
靴を履いたあと、そのまま動かなかった。
「今日、休むって連絡できる?」
聞くと、佐和子は顔を伏せた。
俺は会社へ遅れると連絡して、隣にしゃがんだ。妻が電話をかけ終えるまで、そこにいた。
その日の夜、通帳を二人で見た。
毎月必要な支出を紙へ書き、俺の給料と貯金で、どれくらい暮らせるか計算した。
「これなら、しばらく大丈夫」
「しばらくって、いつまで?」
「半年くらいしたら、また計算しよう」
「そのときも働けなかったら?」
その質問には、すぐ答えられなかった。
俺だって不安がなかったわけではない。
「そのとき、また考えよう。今ここで、ずっと先まで決めなくていい」
佐和子は何度も通帳を見た。
それから、小さな声で「辞めたい」と言った。
退職の手続きは、妻が自分でした。
俺が代わりに会社へ乗り込んだわけでも、何もかも引き受けたわけでもない。ただ、生活の金をどうするかという心配は、二人で持つことにした。
しばらくは俺の収入で暮らした。足りない月は、二人で決めて貯金から出した。
妻は家にいても、何も手につかない日があった。
洗濯機の中に朝の洗濯物が残っていても、回し直した。飯がなければ、帰りに買った。
もちろん、疲れる日はあった。
会社の帰りに米まで買い、両手が塞がったまま鍵を探しているとき、何をやっているんだろうと思ったこともある。
だが、玄関を開けると、佐和子が台所に立っていた。
小さな鍋に、味噌汁ができていた。
「おかずまで、できなかった」
「買ってきた。ちょうどいいよ」
そう答えて袋を置くと、妻は鍋の蓋を閉め、少し笑った。
前のように外へ出られるようになり、求人を探し始めるまでには時間がかかった。
面接に落ちた夜、佐和子が「私、もう働けないかも」と言った。
「一社だろ。今日はもうやめとこう」
俺はテレビをつけ、二人で前に見た映画を流した。
途中で妻が眠ってしまい、音を下げたことを覚えている。
新しい仕事が決まったのは、退職から十か月後だった。
初任給の日、妻は駅前で小さなケーキを二つ買ってきた。
「ありがとう。待っててくれて」
「お祝いしよう。皿、出すよ」
冷蔵庫から出したばかりのケーキは少し硬く、フォークを入れると底の生地が割れた。
佐和子はそれを見て笑い、それから泣いた。
「あなたと結婚しててよかった」
俺は、返す言葉が見つからなかった。
照れくさくて、もう一口食べた。
あのとき妻を待ったことを、後悔したことはない。
今でも、辞めてよかったと思っている。
*
俺の仕事がおかしくなり始めたのは、佐和子が前の会社を辞めてから、二年半ほど経った頃だった。
担当者が一人辞め、その補充が決まる前に、もう一人が異動した。
倉庫への出荷依頼、納期の調整、取引先からの問い合わせ。本来なら分けて持つ仕事が、少しずつ俺へ寄ってきた。
初めのうちは、採用が決まるまでだと言われた。
それなら仕方がないと思った。
だが、候補者が辞退し、募集条件を見直している間に、繁忙期へ入った。
上司に業務を減らしてほしいと話すと、「今月だけ頼む」と言われた。
翌月にも同じことを言われた。
休みの日、冷凍食品を籠へ入れていたとき、会社の端末が鳴った。
取引先へ出す荷物が揃わないという。通路の端へ寄り、倉庫へ電話した。
確認している間、佐和子は先に買い物を済ませて、出口で待っていた。
「せめて休みの日くらい、切れないの?」
「切っても、明日困るの俺だから」
「それ、ずっと続けるつもり?」
俺も同じことを考えていた。
その夜、初めて転職の話をした。
「今の会社、辞めようと思ってる」
佐和子は冷凍庫を閉め、こちらを向いた。
「いいんじゃない。そこまでして働くことないよ」
その返事を聞いて、息が抜けた。
自分で思っていたより、妻に言うことが怖かったらしい。
「次は、給料下がるかもしれない」
「まだ分からないでしょ。探してから考えたら?」
それもそうだと思った。
俺はその晩、求人サイトに登録した。
求人を見れば、今の収入が残業の量に支えられていることは、すぐ分かった。
同じ業務で休日や勤務時間の条件を変えれば、給与の幅も変わる。
応募した会社から返信が来た。面接も受けた。条件を見て、自分から辞退した会社もある。
佐和子には経過を話していた。
「ここだと、たぶん手取りが二十三万円くらいになる」
「今より七万も?」
「残業代がかなり減るから。その分、帰れる」
「ほかも見てみたら」
俺は頷いた。
それから二か月探した。
その間にも、一度会社へ部署の異動を希望した。
異動するにしても、今の仕事の引き継ぎ先が必要だと言われた。人が来ないから困っているのに、人が来なければ動けなかった。
夕食の途中で眠くなり、風呂に入ると目が冴えた。
布団へ入っても、翌日返すメールの文面を考えていた。
隣では、佐和子が眠っていた。
自分から起こした夜もある。
「ごめん。少し話していい?」
「明日じゃ駄目?」
俺は頷いて、居間へ移った。
夜中に起こされたくないのは当然だった。
翌日の夕食で、もう一度話した。
「昨日、ほとんど眠れなかった」
「考えすぎなんじゃない? 匡平、家でもずっと仕事のこと考えてるし」
「うん。だから、変えたいんだ」
佐和子は箸を置いた。
「辞めるなとは言ってないよ」
俺は自分の茶碗を見た。
残った飯が、硬くなり始めていた。
*
最初に分担の見直しを頼んだのは、夏の終わりだった。
手取りが二十二万円になった場合、俺は十六万円、佐和子が十二万円を生活用の口座へ入れる。今の部屋も、生活費の総額も変えない案だった。
「四万増えるってこと?」
「そうなる。まず半年、その形でやって、実際にどれくらい残るか見直したい」
「半年したら、給料上がるの?」
「それは約束できない。だから、難しければ支出を変える必要がある」
佐和子は首を傾けた。
「私、仕事変わるわけじゃないのに」
俺は用意していた言葉を忘れた。
「……うん。俺が変えるから、相談してる」
「毎月四万って、大きいよ。年間でいくらだと思ってる?」
「四十八万」
「それ、私が貯められなくなるんだよ」
俺は紙を伏せた。
増やしてもらう分を、小さな額だと思っていたわけではなかった。
俺の希望で転職するのだから、妻にも不満がある。それは話し合うつもりでいた。
「じゃあ、ほかの形を考えよう」
同じ紙の下へ、別の計算を書いた。
「毎月、二人の口座に残してる四万円を、しばらくやめるのはどうかな。それなら俺が十六万、佐和子は今までどおり八万で、今かかってる分は払える」
妻は、紙を覗き込んだ。
「家電が壊れたら?」
「そのために貯めてきた分がある。一度止めたあと、いつからいくら戻せるか、一緒に見直したい」
「戻せるか、分からないんでしょ?」
「今はね。でも、毎月必ず四万って決めなくても、暮らしに合わせて変えられると思う」
佐和子は首を振った。
「貯めるのをやめるのは怖いよ。一回やめたら、そのままになりそう」
「じゃあ、少しだけでも減らせないかな。全部止めるかどうかじゃなくて」
「匡平の給料が戻るまでは、減らした分を取り戻せないじゃない」
俺はペンを置いた。
「今と同じ給料に戻ることは、前提にしないでほしい」
妻は返事をせず、書き直した数字を見ていた。
増やす負担も、減らす貯金も、俺が次の案を出すまで、そのまま残った。
次の週は、家賃の安い部屋をいくつか調べた。
駅が変わるもの、今の駅から少し歩くもの。佐和子の通勤を考え、乗り換えが増える物件は候補から外した。
妻は画面を指で送って、最後まで見る前に返した。
「ここ、古くない?」
「築年数はね。中は直してあるみたいだけど、見ないと分からない」
「帰り道も暗そう」
「そっちはやめよう。ほかのは?」
「そもそも引っ越すなら、休みも使うし、住所変更もあるし。そんな余裕あるの?」
余裕はなかった。
それでも今を変えるには、どこかで時間を使わなければならなかった。
「内見は俺が先に行ってもいい。よさそうなら、一緒に見よう」
「そこまでして、引っ越したいの?」
違う、と言いかけてやめた。
引っ越すための話をしているのではなかった。
その翌週、二人の貯金から移行期間の不足を補う案を出した。
ただし、その間に家賃か分担を見直す必要があるとも伝えた。
「あれは老後とか、何かあったときのお金でしょ」
「今、使うことも考えていいと思う」
「まだ働けてるじゃない」
佐和子は、悪気なく言った。
俺が毎朝着替えて、家を出て、夜には帰ってくるから。
「働いてるけど、このまま続けたくないんだ」
「うん。だから、もっと条件のいいところがないかって」
「探してる。受けてもいる。それで今、こういう話をしてる」
声が強くなった。
妻が顔を上げたので、俺は一度口を閉じた。
「ごめん。怒鳴りたいんじゃない」
「私に言われても、あなたの会社のことは分からないよ」
台所で冷蔵庫が唸っていた。
佐和子は、食器を下げようとした。
「待って。今日は、最後まで聞いてほしい」
妻は皿を戻し、座り直した。
「今の仕事を続ける前提では、もう考えられない。次を決めずに辞めるつもりはないし、佐和子に全部出してもらうつもりもない。でも、今の生活のまま、俺の収入も今のままでっていうのは、できないと思う」
言っている間、膝の上で指を握っていた。
「どれかを変える話を、一緒にしてほしい」
佐和子はしばらく黙っていた。
「分かった。少し考える」
俺は「ありがとう」と言った。
その夜は、久しぶりに早く眠れた。
だが、日曜に尋ねると、妻はまだ考えていなかった。
「次の会社が決まらないと、ちゃんとした額も分からないじゃない」
「決まったら、一緒に見てもらえる?」
「うん。決まってからにしよう」
その返事を頼りに、俺は応募を続けた。
*
佐和子が、俺のことを何も気にしていなかったわけではない。
帰りが遅ければ、夕食を冷蔵庫に入れておいてくれた。
洗濯も掃除も分担していた。俺が寝坊すれば起こしたし、雨の予報の日には、玄関で傘を渡してくれた。
「今日、雨だよ」
そう言って差し出される折り畳み傘を、俺は受け取った。
だから、生活が全部壊れているとは思えなかった。
仕事さえ変われば、また前のように話せるかもしれない。俺が疲れているから、妻の返事を悪く受け取っているのかもしれない。
その一方で、休日に物件を調べていると、佐和子が隣から画面を覗くことはなくなった。
俺も、途中まで作った家計の表を、そのまま閉じるようになった。
十月の初め、今の会社へ、退職を考えていると伝えた。
上司は、採用が決まりそうだと言った。
「いつですか」
「そこはまだ、先方の都合もあるから」
「決まっても、引き継ぎは必要ですよね」
「もちろん。だから、もう少しだけ」
俺はその場で、今週中に必要な仕事を書き出した紙を見せた。
全部は持てないと伝え、二件を上司へ戻した。
気まずかった。だが、相手が気まずそうにするのを見て、また自分で持ち直すことはしなかった。
次の面接の日は、有給休暇を取った。
家では落ち着かず、駅前の喫茶店へ寄り、応募先の資料を読んだ。
隣の席には、小さな子を連れた夫婦がいた。
子どもがこぼしたジュースを、二人で拭いていた。片方が紙を取りに行き、もう片方が子どもの服を押さえた。
俺は資料へ目を戻した。
面接の帰り、佐和子からメッセージが来た。
『どうだった?』
『話はできた。条件も確認した』
『いい返事来るといいね』
俺は、その画面を少し長く見ていた。
妻がうれしそうにしてくれたら、まだ何とかなると思えた。
内定の連絡が来た日の夕方、真っ先に妻へ知らせた。
そうして、あの家計の表を、もう一度出したのだった。
*
金曜の夜、佐和子が風呂へ入ったあと、俺はノートを開いた。
新しい職場へ通える範囲で、一人用の部屋を探した。
家賃六万円台。二口コンロと、室内の洗濯機置き場。部屋は狭くてもよかった。
概算の生活費を書いた。
昼食も、服も、自分の分の貯金も含めた。
転職後の給料で収まった。
もう一度計算した。
数字は変わらなかった。
佐和子と暮らす方法は、何か月も計算していた。
自分一人の暮らしは、三十分ほどで輪郭ができた。
風呂場の扉が開き、俺は画面を閉じた。
隠していることが後ろめたかった。
同時に、もう一度「ほかを探せば」と言われるのが怖かった。
「まだ起きてるの?」
「もう寝る」
「電気、お願いね」
佐和子は寝室へ入った。
俺はノートを閉じ、そのあとを追った。
隣で妻が、枕の位置を直している。
同じ寝具を買い替えた日のことを覚えていた。店でいくつも試し、佐和子が真剣に迷っていた。
あのときも今も、妻の寝顔は変わらなかった。
俺は天井を見ていた。
家賃六万四千円の部屋には、ベッドを一つ置けばよかった。
*
翌朝、不動産会社へ電話をかけた。
午後なら案内できると言われ、一件だけ内見を予約した。
角部屋で、窓の外には隣の建物の壁が見えた。陽当たりはよくないが、昼間は仕事に出ている。
洗濯物を干す場所を確かめ、冷蔵庫の幅を測った。
「奥様もご覧になりますか」
案内した人に聞かれ、俺は首を振った。
「一人で住む予定です」
声に出すと、想像していたより重かった。
その場では申し込まず、資料だけもらった。
駅へ向かう途中、佐和子と以前入った定食屋の前を通った。
妻はそこの唐揚げが好きだった。俺の皿にも手を伸ばし、自分の魚と交換した。
足を止めたが、入らなかった。
コンビニでパンを買い、電車で帰った。
日曜の夕食は、佐和子が作った。
肉じゃがと、冷やした豆腐。妻は途中で思い出したように聞いた。
「話って、今でいい?」
「食べたあとにしよう」
洗い物は俺がした。
いつもより時間をかけて、水を切った皿を棚へ戻した。
佐和子は、食卓の上を拭いていた。
向かい合って座ったあと、俺は言った。
「内定は、受けようと思う」
「うん」
「それと、別々に暮らしたい」
妻の持っていた布巾が、止まった。
「……別々って?」
「俺が部屋を借りる。この家をどうするかも、相談したい」
「何で?」
佐和子は椅子を引き、座り直した。
「転職先、そんな遠くないよね」
「通勤のためじゃない」
俺は一度、息を吸った。
「離婚も、考えてる」
佐和子は瞬きをした。
怒るより先に、意味を確かめようとしている顔だった。
「金曜の、同居人って言ったこと?」
「それだけじゃない」
「あれ、冗談だよ。そんな意味で言ったんじゃない」
「分かってる。佐和子が別れたいと言ったとは思ってない」
「じゃあ、何で離婚の話になるの」
テーブルの端に、昨日もらった物件の資料があった。
佐和子がそれを見つけ、俺の顔を見た。
「もう探してるの?」
「昨日、一件見てきた。申し込んではない」
「私に黙って?」
「ごめん。先に、自分で暮らせるか確認したかった」
謝っても、妻の表情は戻らなかった。
「生活費のことで、そこまでする?」
俺は膝に置いていた手をほどいた。
「金額だけの話なら、こんなに何度も相談しなかった」
「私がもっと出せばいいってことでしょ?」
「それでいいなら、引っ越す案は出さないよ。佐和子に全部埋めてくれって話もしてない」
妻が、唇を結んだ。
「今の仕事を続けられないから、暮らしを変えたいって話してきた。何を変えられるか、二人で考えたかった」
「だから、転職は反対してないじゃない」
「でも、家賃も、分担も、貯金も変えられないなら、俺はどうやって変えればいい?」
佐和子はすぐに答えなかった。
「もっと、いい条件のところが」
「探したよ」
妻の肩が、小さく動いた。
俺は声を落とした。
「何か月も探して、会社にも相談して、そのうえで決めた。俺なりに、この先も働いて暮らすために考えたんだ」
佐和子は布巾を畳み直した。
四つに折られた布の角を、何度も揃えた。
「私だって、将来が心配だよ。簡単に貯金を減らせばって言われても」
「うん。だから、どれならできるか話したかった」
「分からないもの。いくら必要になるかなんて」
「俺も分からないよ」
思ったより、弱い声が出た。
「分からないから、相談したんだよ」
佐和子は顔を上げなかった。
俺は、冷蔵庫の上の時計を見た。
まだ九時を過ぎたばかりだった。
「今日、全部決めてくれとは言わない。資料、ここに置いておく。来週、もう一度話したい」
立とうとすると、妻が言った。
「私、あなたと離婚したいなんて、一度も思ってない」
俺は椅子へ手をかけたまま答えた。
「うん。俺も、思いたくなかった」
*
翌朝、佐和子はいつもより早く起きていた。
俺が居間へ入ると、テーブルに家計の表が広がっていた。以前俺が印刷したものだった。
「もう少し、時間ほしい」
妻は言った。
「ちゃんと見てみるから。今すぐ部屋、決めないで」
「分かった。次の土曜まで待つ」
「内定は?」
「受ける。今日、返事する」
佐和子は頷いた。
出勤する前、俺の上着についた糸くずを取った。
その手を見て、また迷った。
昼の休憩に、内定を受諾する連絡をした。
入社は二か月先。今の会社には、その日から逆算した退職希望日を伝えた。
上司には引き留められた。
給与を見直せるかもしれないとも言われた。
「申し訳ありません。もう次に返事をしました」
その言葉を、二度繰り返した。
引き継ぐ内容と、期限までに終わらせる仕事を決めた。残った有給休暇を使う日も、予定表に入れた。
帰りの電車では、何度も携帯を見た。
佐和子からの連絡はなかった。
家へ帰ると、洗面所の電球が新しくなっていた。
何日か前から点きにくくなり、俺が替えると言ったまま忘れていたものだった。
「買ってきてくれたんだ」
「会社の帰りに寄れたから」
「ありがとう」
それだけのやり取りで、少し泣きそうになった。
自分の気持ちがどこにあるのか、まだ分からなかった。
*
土曜日、佐和子はノートを持ってきた。
「毎月、十二万。出せると思う」
俺が最初に頼んだ額だった。
妻は自分の口座から落ちるものも書き出していた。これを減らせば、こっちは残せると、数字に線が引いてあった。
「ちゃんと見てくれたんだ」
「うん」
「ありがとう」
佐和子は、ほっとしたように顔を緩めた。
「だったら、この部屋にいられるよね」
俺はノートへ目を戻した。
十六と十二を足せば、二十八になる。
何度も欲しかった数字が、そこにあった。
「お金の上では、そうだね」
「……お金の上ではって?」
俺は返事に詰まった。
これで暮らせる。妻も考えた。だったら、元へ戻ればいい。
自分にも、そう言い聞かせたかった。
「少し、離れて暮らしたい気持ちは変わってない」
佐和子の手が、ノートの端を押さえた。
「私が出しても?」
「出してくれれば終わると思ってたら、離婚の話はしてない」
「じゃあ、何をすればいいの」
俺は黙った。
その問いに、家計のような答えは出せなかった。
「最初から、戻るつもりないんじゃない」
佐和子の声が震えた。
「何しても駄目なら、考えてって言わないでよ」
俺は頭を下げた。
「ごめん。お金を変えれば続けられるとは、約束できない。俺も、離婚していいのか迷ってる。でも今のまま一緒にいて、転職も済んで、もう大丈夫だったことにはできない」
妻はノートを閉じた。
「私、そんなにひどいことした?」
声が細くなった。
「あのとき、仕事辞めたの、ずっと悪いと思ってるよ。迷惑かけたのも分かってる。でも、あのときは本当に働けなかったんだよ」
俺は顔を上げた。
「分かってる。辞めてよかったと思ってる」
「だったら」
「今でも、あの会社に戻って働けばよかったなんて、思ってない」
佐和子は口を閉じた。
「でも、私と匡平は、違うじゃない」
「違う?」
「あなたは、ちゃんと仕事に行けてたし、次も探せてたし。私みたいに、何もできなくなったわけじゃ」
そこまで言って、妻は言葉を切った。
俺は頷いた。
「行けてたよ。行けてるうちに辞めたかった」
朝、靴を履いたあと、動けなくなった妻を思い出した。
そこまで行く前に相談してはいけなかったのだろうかと、何度も考えた。
「俺も、玄関で動けなくなれば、信じてもらえた?」
言ったあとで、しまったと思った。
佐和子が顔を歪めた。
「今のは、ごめん。そんなことを言いたかったんじゃない」
俺は椅子へ座り直した。
「会社のことを解決してほしかったわけじゃないんだ。俺だって佐和子の上司をどうにかできたわけじゃない。ただ、辞めたあとも一緒に暮らせるように考えた。俺も、その相談をしてた」
妻は、閉じたノートを見つめていた。
そこへ、一滴、水が落ちた。
「分かってなかった」
俺は何も言えなかった。
「今までみたいに出せないって話だと思ってた。仕事が変わるなら、それはそうなんだろうけど、私のお金が減るのは嫌で」
妻は指で頬を拭いた。
「あなたがずっと働けるようにって、そこまで考えてなかった」
佐和子は泣いていた。
俺は水を取りに立った。
戸棚からいつものコップを出し、妻の前へ置いた。
「ごめんね」
妻が言った。
俺は頷いた。
話が通じたことに、ほっとした。
胸にあったものが軽くなるのを待ったが、すぐにはそうならなかった。
*
その日、別居のことを、もう少し具体的に話した。
佐和子は、離婚を決めたわけではないのに、新しい部屋を借りることを怖がった。
俺も、金が余計にかかるのは分かっていた。
それでも、転職してからも住める場所を、一つ確保しておきたかった。
「別々に住んだら、戻れなくならない?」
妻の問いに、俺は答えた。
「今、戻るって約束して残っても、たぶん無理する。また大丈夫なふりをすると思う」
佐和子は長く黙り、それから頷いた。
生活用の口座と二人の貯金を確認した。
俺が出たあとの家賃を、すぐ妻一人へ任せることはしなかった。今の部屋をどうするか決めるまで、二か月はこれまでの額を入れる。その間の自分の家賃は、俺の手元の貯金から出すことにした。
それより先のことは、次に会うときに改めて決める。
俺が一件目に見た部屋は、もう埋まっていた。
二件目で、少し広い部屋を借りた。家賃は同じくらいで、駅からは五分余計に歩いた。
引っ越しは、十一月の半ばになった。
妻のあの言葉から、一か月ほど経っていた。
荷物を詰めていると、佐和子が押し入れから冬物を出した。
「これ、持っていく?」
厚手の毛布だった。
結婚した年、妻の両親が送ってくれたものだった。
「佐和子、使ってるだろ。こっちの薄いの持っていく」
「寒いよ。夜」
「暖房あるから」
佐和子は毛布を抱えたまま立っていた。
俺は段ボールへシャツを入れた。
夫婦で暮らすために少しずつ増やしたものが、部屋に残った。
その大半は一人では大きすぎ、どちらが持っても、使いにくかった。
引っ越し当日、佐和子は仕事を休まなかった。
見送るのはつらいと言ったので、俺もそうしてほしいと答えた。
朝、妻は玄関で振り返った。
「着いたら、連絡だけして」
「分かった」
いつものように送り出したあと、俺は台所へ戻った。
食器棚から、自分の茶碗を出した。
新聞紙に包むと、形が分からなくなった。
*
一人の部屋で、最初の夜はよく眠れなかった。
冷蔵庫がまだ届いていなかったので、コンビニで飯を買った。
箸を忘れたことに気づき、段ボールを開けて自分のものを探した。
ようやく見つけた頃には、弁当はぬるくなっていた。
妻へ到着したと連絡すると、すぐ返信が来た。
『ご飯、食べた?』
『今、食べてる』
『よかった』
その下に何か打とうとして、やめた。
布団を敷いたあと、テレビをつけた。
前の家でも、妻が風呂に入っている間によく見ていた番組だった。
一人で見ると、笑い声が大きかった。
音を下げて、携帯を見た。
佐和子はもう寝ただろうか。
俺のいない部屋で、どこに座っているだろう。
戻るなら、まだ間に合うと思った。
借りたばかりの部屋を解約するのは、もったいない。それでも、八年を終えるより安く済むのかもしれなかった。
俺は携帯を伏せた。
今夜寂しいという理由だけで、妻に帰るとは言えなかった。
次の週も、その次の週も、仕事には行った。
退職の日までに終えるものを片づけ、引き継ぎの資料を直した。
思ったとおりには進まなかったが、全部を終えるために退職日を動かすことはしなかった。
最終出勤の日、会社の端末を返した。
鞄へ戻そうとした手が、途中で止まった。
担当者に渡し、受領の確認をしてもらった。
会社を出たあとも、何度か鞄の外ポケットを触った。
何も入っていなかった。
*
別居から一か月後、佐和子と駅前の喫茶店で会った。
妻は、窓から少し離れた席にいた。
俺が椅子を引くと、「仕事、お疲れさま」と言った。
「ありがとう。来週から、新しいところ」
「少しは休めた?」
「昨日、昼まで寝てた」
佐和子は笑ったが、そのあと目を伏せた。
「それでいいと思う」
注文を済ませてから、妻は話し始めた。
「前にさ、私が仕事辞めたとき。あなた、いつまで休むのって、聞かなかったよね」
「途中で、仕事探す気になったかは聞いたと思う」
「うん。でも、何月から働いてねって、決めなかった」
妻はカップの取っ手に指をかけた。
「期限がないと怖いって、私はずっと言ってたのにね」
俺はコーヒーを飲んだ。
少し熱かった。
「私、自分が辞めたときのお金、まだ取り戻してるつもりだったんだと思う。働けなかった分、今はちゃんと貯めたいって。それで、また私の貯まる分が減るのが嫌だった」
妻は一度、言葉を切った。
「でも、あのとき減ったの、私のお金だけじゃなかったんだよね」
俺は頷いた。
「返してほしいと思ってないよ」
「うん。分かってる。私が、そう数えてたんだって話」
佐和子はようやくカップを持ち上げた。
「ごめん。匡平なら、何とかすると思ってた」
「何とかしようとは、してた」
「分かってる」
妻は小さく頷いた。
「一緒に考えてって言われたときも、提案のどれかに賛成するか、反対するかだけ考えてた。私から調べたこと、一度もなかった」
俺は、テーブルに置かれた妻の手を見た。
結婚指輪があった。
俺も、まだ外していなかった。
「今からでも、できることはしたい。部屋も変えていい。少しずつでも、また一緒に暮らせないかな」
俺は黙って聞いた。
佐和子は返事を急がせなかった。
「新しい仕事、始まってからでもいい。考えてほしい」
その日は、そういう約束で別れた。
電車で一緒に帰る方向ではなかった。
改札を入ったあと、違う階段へ向かう。
俺は自分のホームに着いてから、少し泣いた。
隣に人が来たので、携帯を見るふりをした。
*
新しい職場では、倉庫の位置も、システムの画面も違った。
初日に教わった操作を翌日間違え、確認のメールを送った。昼休みに一人で反省していると、午後、もう一度説明してもらえた。
覚えることは多かった。
退職してすぐ、何もかも楽になるわけではなかった。
それでも、帰る時間が分かった。
忙しい日には残ったが、家へ帰ってからも仕事の返事を待つことはなかった。
佐和子とは、そのあとも会った。
食事を一緒にした日もある。
妻は俺の仕事の話を聞き、慣れてきたか尋ねた。
俺も、佐和子の会社の話を聞いた。
昔のように笑ったあと、帰り際に、次はいつにするか相談した。
佐和子が変わろうとしていることは分かった。
その努力を、最初からなかったことにはできなかった。
ただ、同じ家へ帰る自分を考えると、返事が止まった。
今度また、働き方を変えなければならなくなったら。
どちらかが働けなくなったら。
そのたび、今日話せたことを思い出して、大丈夫だと確かめるのだろうか。
佐和子がすべて同じことを繰り返すと、決めつけるのも違うと思った。
実際、今は俺の話を聞いてくれる。
だが、妻の返事を待つたび、自分が安心できる答えかどうかを確かめていることに気づいた。
佐和子を試すようになった自分も、嫌だった。
ある夜、食事を終えて一人の部屋へ戻った。
鍵を閉め、靴を脱ぎ、鞄を置いた。
そこで、大きく息を吐いた。
妻と別れてから、ずっと寂しかった。
でも、家へ着くと、ほっとした。
その晩は、テレビもつけずに考えた。
寂しさがなくなるまで待てば、帰りたくなるのだろうか。
佐和子を失って悲しいことと、もう一度一緒に暮らしたいことを、俺は同じものとして扱おうとしていないだろうか。
携帯に、妻からのメッセージが届いた。
『今日はありがとう。また来週、空いてる?』
俺は返事を書いた。
『空いてる。話したいことがある』
*
俺が離婚したいと伝えたのは、一月の半ばだった。
佐和子は最後まで聞いた。
それから、静かに泣いた。
「分担、変えるって言ったのにって、まだ思っちゃう」
俺は頷いた。
「うん」
「でも、そういう話じゃないんだよね」
妻は鞄からハンカチを出した。
「私、やっと話せるようになったと思ってた」
「俺も、話せたと思ってる」
「じゃあ、どうして」
俺は膝に置いた手を見た。
「謝ってくれたことも、考えてくれたことも分かってる。それでも、一緒に暮らし直したいとは思えなかった」
佐和子は目を閉じた。
「私のこと、もう好きじゃない?」
簡単に頷くことも、否定することもできなかった。
「大事だった。今も、嫌な思いをしてほしくないと思う。でも、夫婦として続けたいとは、言えない」
佐和子は何も言わなかった。
俺は、前の部屋へ一緒に戻るつもりがないことを、もう一度伝えた。
その日、妻は答えを出さなかった。
持ち帰って考えたいと言った。
俺は待った。
生活の金についても、最初に決めた二か月が過ぎた時点で、次に必要な額を話し合っていた。妻が一人で今の部屋に住む期間を決め、解約に向けて動くことになった。
二週間後、佐和子から連絡が来た。
離婚する方向で、話を進めたいと書かれていた。
『引き止めたい気持ちはある。でも、帰りたくないと言っている人に、帰ってとは言えない』
俺は何度か読み直した。
礼を言おうとして、それも違う気がして、消した。
『分かった。次に会う日を決めよう』
そう返してから、しばらく携帯を持っていた。
*
三月、二人で暮らした部屋を引き払った。
生活用の口座に残った金と、二人で貯めてきた分を整理した。結婚前から持っていたものも、お互いに確認した。
俺が自分の部屋へ運んだ家電と、佐和子が持っていく家具を書き出し、残りをどうするか決めた。
最後に大きなホットプレートが残った。
箱を開けると、蓋に小さな傷があった。
「これ、最初の部屋で落としたやつだ」
佐和子が言った。
「俺が洗ったあと、立てかけたんだよな」
「そう。倒れるよって言ったら、ちょうど倒れた」
二人で笑った。
結婚して最初の冬、よくこれで焼きそばを作った。佐和子はソースを入れすぎ、俺は野菜を入れすぎた。
「持っていく?」
聞くと、妻は首を振った。
「新しい部屋、置くとこない」
「俺も」
動くことを確かめ、買い取りへ持ち込むものに加えた。
退去の日、部屋にはカーテンもなかった。
窓の近くへ立つと、外から丸見えになる。
佐和子は壁に残った家具の跡を眺めていた。
「こんなに広かったんだね」
「物、多かったから」
俺は戸棚を開けた。
何もない。
洗面所も、押し入れも、もう一度見た。
玄関で靴を履いていると、佐和子が言った。
「同居人なんて、言わなければよかったって、ずっと思ってた」
俺は振り返った。
「でも、あれを言わなくても、私、同じことをしてたんだよね」
妻は鍵を掌に乗せた。
「あなたが出した案を、全部断って、また別のを考えてくれるのを待ってた」
俺は、頷いた。
「一緒に暮らしていくために、話してくれてたのにね」
佐和子が顔を上げた。
俺は何か返そうとしたが、言葉にならなかった。
鍵は二本とも、返した。
扉が閉まったあと、妻が鞄の中を一度探った。鍵を入れようとしたのだと、遅れて分かった。
離婚届を出したのは、その数日後だった。
俺たちは提出を確かめてから、別々の電車に乗った。
「じゃあね」
佐和子が言った。
「うん。元気で」
八年分の何かを、最後に足したかった。
足せる言葉を探している間に、妻は改札へ向かった。
俺も、自分の切符を出した。
*
四月の給料日、俺は振り込まれた額を確認した。
今の暮らしの家賃と光熱費、それから食費を引く。
前の仕事の給料より、ずっと少なかった。
それでも、翌月へ残せる分があった。
帰りにスーパーへ寄り、鶏肉と、安くなっていた長ねぎを買った。
二人分のつもりで買う癖は、まだ残っている。籠へ入れた大きなパックを、小さなものへ替えた。
冷凍すればいいと分かっていても、今日は使い切りたかった。
部屋へ帰り、鞄を置いた。
作業台が狭いので、切ったねぎを皿へ移してから肉を切る。
焼いて、味をつけ、茶碗へ飯をよそった。
棚には一組だけ、箸があった。
それを見ると、今でも少し寂しかった。
佐和子の箸は、先の塗りが薄くなっていた。
買い替えようと言ったまま、結局、最後まで使っていた。
妻は新しい部屋で、新しいものを買っただろうか。
思い出してから、自分の箸を取った。
飯を食べ、皿を洗い、洗濯機を回した。
時計を見ると、まだ九時前だった。
会社の端末は、ない。
家計の表を、今夜中に作り直す必要もなかった。
洗濯が終わるまで、何をしよう。
読みかけの本は鞄に入っていた。テレビをつけてもよかった。
俺は小さな鍋で湯を沸かし、お茶を入れた。
湯飲みを持って椅子へ座る。
窓の外で電車が通った。
音が遠ざかってからも、俺はしばらく、何もしないでいられた。
~完~




