朝
私は飛び起きた。少しは労れよと文句を言うようにベッドがギシッと呻く音がしたが、部屋には朝の静寂が敷き詰められていた。日本の蝉は全て絶滅したのではないかと思うほど静かだった。あれほど私を苛つかせる彼らの合唱も無くなってしまえば寂しいものだなと思う。
私ははぁと深い息を吐き出した。Tシャツは汗で少し湿っていて、早く着替えたい衝動に駆られた。
ぼんやりとベージュの壁に飾られたカレンダーを眺める。本日8月1日土曜日のご予定は、と訊ねる頭の中の天使はご機嫌のようだ。
『サナと会う(nearHEARTS 11時)』
私は頭をボリボリ掻きながら、カレンダーに寄り添うように掛けられた壁時計を見る。
「あっ」
思わず素っ頓狂な声を上げる。既に10時15分。完全に寝坊だ。
待ち合わせ場所であるカフェ、nearHEARTSは隣り町にあるので、10時30分には家を出なければ間に合わない。私はベッドから飛び降りて、クローゼットを勢いよく開ける。散らかったタンスの中身を更に散らかし、Vネックの白のサマーセーターと破れたジーンズを引っ張り出す。
「チェキに起こしてもらうんだったなぁ」
誰に言うわけでもなく、私は口走る。ふと姿見に映った自分の寝起きのふぬけた顔を見て苦笑した。顔が少しむくんでいるし、肩まで髪の毛は全体的に右に流れている。私の髪の毛は直毛すぎて一度曲がるとお風呂に入ってしっとり濡らさなければ元に戻らない性質があるので、この時間に起きた段階で寝癖を直すことは諦め、一つに束ねて誤魔化すことにした。
ベッドの横に併設されている棚に置かれた携帯電話に手を伸ばした時、誤って写真立てに手の甲を当ててしまった。安定感をなくした写真立てが、膝を折るようにして前にパタンと倒れた。私は写真立てを起きあがらせる。
そこに写っているものを見て私は動きを止める。同時に心の動きも止めようと努める。
桜の下で背の高い女性と手を繋ぎながら満面の笑顔を浮かべる幼い少女。どんなに抑えようとしても鮮明に写真の中の情景が浮かび上がる。あの時散っていた桜の花びらの色も、カメラを構えながら少し緊張しているチェキの顔も簡単に思い出せる。母の掌の温かさも、私よりも嬉しそうな母の笑顔もたやすく脳裏に蘇る。私が小学校に入学するときの写真だ。あの時も母は仕事に追われていて、この後すぐに携帯電話が鳴っていなくなったんだったな。私は懐かしくも苦くもどかしい、古い記憶に思いを馳せる。私は写真立てを元に戻し、携帯をもぎ取るようにして手に取り部屋を出た。
リビングにはソファーに座りながら足を組み、難しそうな本を読んでいるチェキの姿があった。
「おはよう」
戦場から逃げ出すように慌ただしく階段を駆け降りてきた私に、彼は一瞬目を丸くしていたが、すぐにそれは微笑に変わった。
「忙しそうだな」
皮肉にも聞こえた。既に朝食を作り、家の掃除も洗濯も終えたチェキの方が遙かに忙しかっただろう。
「今からサナに会うの」
「ほう。帰りは遅いのか?」
私は首を振る。高校の友人とランチをするだけだ。ディナーの予定はない。おそらく夕方には帰られるだろうと私は伝えた。
「送っていこうか?」
「いいよ。電車で行くから」
私は顔を洗って歯を磨いた。鏡の中に立っている自分は先ほどよりはマシになっている。むくみも髪の毛も許されるくらいには誤魔化せている。準備時間15分。まぁ上出来だ。
「行ってきまーす!」
焦っているからか、いつもより大きな声で私は言った。決して広くはない家の中に私の声が響きわたった。