漆黒の世界
世界は漆黒の闇に包まれていた。そこには一筋の光さえ見えない。黒のクレヨンでグリグリと塗り潰された空には月が無い。星すら見えない。これが絶望の世界だ。そう耳元で囁かれたような気がした。
私は根を下ろした大木のように冷たい土の上に立っている。寒々しい色の無い風が私の横を通り抜けた。私には当たらないように避けたようだった。
私は既に知っていた。世界に残された時間がないことを。そして生命が既に峡谷の端に立たされ、その間で轟々と流れる濁流に飲まれようとしていることも知っていた。
空を見上げる。信じてもいない神に祈りを捧げる。その行為に全く意味がないことは分かっていたけれどそうせずにはいられなかった。何故ならその世界を失うわけにはいかなかったから。
私が空を仰いでいると、横に誰かが立っていることに気付いた。チェキだ。今とは異なり、その茶髪は後ろで束ねられるほど長い。印象が違いすぎて最初は分からなかった。そこに立っているチェキは私が知っている彼とは異なり、老成した雰囲気もなければ、あの柔らかな笑みを浮かべることも無い。まるで磨く前の原石だ。澄んだ瞳は無垢で、ぽかっと口を開けながら、夜空を見ている。
「誰か」
彼は擦れるような声で呟いた。生まれて初めて声を発したように、彼は自身の声に驚き戸惑っているようだった。
「さみしい」
目元に涙を浮かべている彼は幼い子供のようだった。デパートで迷子になった子供は皆こういう顔をしている。私が横にいることに気付かないのか、はたまた自分はここに存在していないのかは分からないが、彼は私が横にいることを知らないようだった。
「いやだよ。ひとりはいやだよ」
ぐずるチェキは暗闇の中、座り込んでしまう。もうここからは一歩たりとも動く気はないと決め込んだようだ。
「こわいよ。誰か、たすけて」
私はチェキを抱き締めたい衝動に駆られた。このままではガラス細工のような彼の繊細な心が崩れてしまう。失うことを恐れて私は彼に手を伸ばすが、そこであることに気付いた。
私は決して彼に触れることはできない。私はそこに存在していないのだ。私はその世界の空気であり、大地であり、空だった。それでも私の前に広がる景色は夢にしてはあまりにリアルで鮮明なものなので戸惑ってしまう。半狂乱で喚く彼に私は何もしてあげられない。このまま彼は錯乱し、自我を崩壊させてしまうのではないかと不安になる。
その時だった。暗闇の中から大地の土を踏みしめる音が聞こえてきた。何者かが近づいてきている。闇が深すぎて前方からの来訪者を確認することができないので、チェキは恐怖に震えた。涙のせいであの整った顔がぐしゃぐしゃになっている。
「誰なの」
チェキは闇を纏ったその存在に小さな声で訊ねる。声が震えて、裏返りそうになっている。
「食ったんだね」
穏やかな声が聞こえた。朝靄に包まれた湖を思わせる。チェキは身体を強張らせて、暗闇に目を凝らした。
「そうだろ?」
暗闇から姿を現したのは美しい青年だった。白い肌と華奢な身体。澄んだ黒い瞳は大きく可憐な女性のようだ。黒い革のジャンバーと細身のジーンズを身につけている。先ほど会ったからすぐに誰か分かる。桐谷リヒト、コアのリーダーだ。
「恐れることは無い。僕も同じなんだ」
彼は柔らかな笑みを浮かべる。涙を流しながら見上げるチェキは震えている。怯えと歓喜の入り混じった表情で、膝を抱えたままチェキはリヒトを見上げている。
「一緒に来るか?」
桐谷リヒトにそう言われたものの、彼はすぐには首を縦に振らなかった。言葉の意味も善悪の判断もできていないように傍観者の私には見えた。
「行こう」
チェキの首が縦に振られる前に、リヒトは強張ったチェキの右手を掴んだ。痺れを切らしたというよりも、リヒトにはチェキが判断力のない赤子同然の存在であることが分かっていたのだろう。
右手を引っ張られて、おのずとチェキは立ち上がった。
「うん」
くぐもった声で鼻を啜りながら、チェキはそこでようやく頷いた。満足そうに見つめるリヒトの微笑みは私が生きてきた中で最も美しいものであると思った。