白の世界
チェキは病院の受付を通り過ぎて、エレベーターに乗り込んだ。私はじっとエレベーターの行き先を見届ける。エレベーターは8階で止まった。確か8回はこの病院の最上階のはずだ。私はチェキが乗ったエレベーターの隣のエレベーターに乗り込む。
罪悪感はあったけれど、落ち込んでいた私の気持ちは既に「家族として知っておくべきだ」という使命感に変わりつつあった。ヒトの脳とは器用なものだ。自分の極めてモラルに欠けたこの行動すら正当化してしまうのだから。
エレベーターに乗りながら考える。おそらく最上階には診察室はない。そもそも受付を通り過ぎた段階で彼は病気ではなく、誰かの見舞いにきたという可能性が浮上する。一階外来、二階検査室およびレントゲン室、三階内科、耳鼻科と親切な病院マップがエレベーターの壁に書かれているが、八階には何も書かれていない。空白になっていたので、目を細めて格好悪いくらいマップにへばり付いて凝視するが、文字が浮かび上がるわけでもなく、そこには本当に全く何も書かれていない。
チーンという、この世の共通語のような音がして扉が開いた。そこにあるのは白い廊下。白い壁と白い床。窓から差し込む日の光が、神聖なものに思えた。極めて清潔感があり、自分が何かしらの雑菌を持ち込んだせいでブザーやサイレンが喚き散らすのではないかという不安を抱いた。しかし、そんな心配もよそに、八階は沈黙に包まれていた。防音設備でもあるのだろうか。蝉も、八階には喧しい声が届かないように配慮して鳴いているのではないだろうか、そもそもこの世界には誰もいないのではないか、と思うほどに。
私は廊下を歩いた。不思議の国のアリスのように、急に別の世界を迷い込んでしまったのではないだろうかと私は馬鹿げた想像をする。でも、私が追ってきたのは時計を握り締め、喚きながら去っていくウサギではなく、私の保護者であり育て親であるチェキだ。そんなことはありえない。
完全にチェキを見失ってしまったけれど、八階は決して広くはない。エレベーターを降りると真っ直ぐに道が続いていて、そこに部屋が6個ほどぽつぽつとあるだけだ。きっとこの中の何処かの部屋にチェキの知り合いが入院している。おそらく極めて親密な誰かが。
私は足を動かそうとして躊躇った。ここまで来て、これ以上何をするというのだ、と問いかける自分がいる。もう彼が見舞いに来ていることが分かった。これ以上知ることは何もない。それとも、部屋を一つ一つ見て回るのか。そこでチェキに遭遇したら、私は何をどう言い訳すればよいのだろう。
様々な思惑が交錯する。私は脳内の激しい葛藤のせいで真っ白な廊下で立ち尽くしている。早く帰らなければ、チェキに見つかってしまうという状況にありながら、好奇心と理性の間で私は右往左往している。
その時、再びチーンという音がした。チェキが乗ってきたエレベーターがもう一往復したようだ。
エレベーターから降りてきたのは、日本人離れした顔立ちの男だった。アジア人にも見えるし、欧米の白人のようにも見える。歳は私と同じか、もう少し上かもしれない。Tシャツとジーパンというカジュアルな服装で、頭にはニット帽をかぶっている。いつも綺麗めな格好を好むチェキとは対照的だなと思う。
男はチラリとこちらを見て、私の横を通り過ぎようとするが、「あれ?」という気の抜けた声を上げて立ち止まり、くるりと振り返って私の顔を凝視した。
「もしかして、あんた、滝島さん?」
急に苗字を当てられて、私は驚く。そして思わず初対面でありながら露骨に怪訝な表情を浮かべてしまう。
「滝島、セツコだろ?」
「セツナ、ですけど」
「あぁ、それそれ」
飄々と悪びれることなく男は笑った。
「何で知ってるんですか?」
「何が?」
「私の名前」
それ以外何があるのだと憤る暇もなく、彼は「知ってて当然だろう」と答えにもならない言葉を発して自信満々に胸を張った。間違っていたではないかとも思うけれど、それを口にする気にさえならない。
「ていうか、何故セツナがここにいるわけ?」
見ず知らずの男に突然下の名前で呼び捨てにされて、私は少し不快感を覚える。
「チェキを追ってきたら、ここに着いたんです」
私は正直に言ってみる。男は「ふーん」と興味のない返事をして、私をじろじろと見ている。
「てっきり、あんたも彼に会いに来たのかと思ったよ」
「え?」
「まあいいや。一緒に行こうよ。その感じじゃ病室にチェキもいるんだろ?」
男は私の手首を掴んで歩き出す。いきなり掴まれたので、拒否する暇がなかった。でもこのままチェキのいる病室に行っては、彼に見つかってしまうではないか。
「あの……ちょっと」
嫌がる私は全く無視して、男は大股で歩き始めた。既に私は散歩嫌いな飼い犬のように引き摺られている。
「何だよ。せっかく来たなら、彼に会っていきなよ」
「彼?チェキのこと?」
男は首を振り、溜め息を吐きながら馬鹿にしたような表情をこちらへ向ける。「なんであんたがチェキに会わないといけないわけ?」と小さく呟くのが聞こえた。
私は意味の分からないまま、男に引き摺られ、気がつくと八階の一番奥の角部屋の前にいた。心臓がバクバクと音を立てて私に警告しているのが分かる。大いなる後悔と反省を抱いて逃げろ、と。それでも一方でどうしようもない好奇心が湧き立ち、ここに留まろうとする。そんな葛藤も虚しく、男はノックをすることもなく、扉の取っ手を握り締め、ガラガラと勢いよく病室の扉を開けた。
扉の先にあった世界も白の世界だった。正面の窓が開いていて、爽やかな風が吹き込みレースのカーテンがヒラヒラと靡いている。そして窓に沿うように白いパイプベッドが置かれていて、そこに誰かが眠っている。その誰かの横に立っているチェキの姿があった。チェキの目はとてつもない奇跡に遭遇した時のように大きく見開かれている。
「サンデ……?」
「よ。久しぶり」
軽い口調で、サンデと呼ばれた男は右手を挙げる。どうやら、チェキの古い友人のようだ。チェキの驚いた様子から、久しく再会したのだろう。
「そこで会ったから連れてきたよ」
サンデは私の手を引いて、部屋に放り出す。私は使命感に置き換わったはずの罪悪感が急に元の姿を取り戻し、私の中で膨れ上がった。おそるおそる、私は顔を上げる。勝手にプライバシーを侵害し、さぞかしチェキは怒っているだろう。失望し、私のことを嫌いになったかもしれない。自分の興味本位でやらかしたことの重大さを、今更になって痛感し、後悔した。
「セツナじゃないか。何かあったのか?」
拍子抜けするほどチェキの表情には怒りなど微塵も浮かんでいなかった。代わりに、突然病院まで追いかけてきた私を心から心配していることが伝わった。思わず泣きそうになったので、私は少し俯いて首を振ることしかできなかった。
「なんだ。お前ら、仲良いんじゃん。来るなら一緒に来いよ」
サンデはどうやら、私とチェキの仲が悪く、別々にここにやってきたと勘違いしていたらしい。強引に私を引っ張ってきたのは、彼なりの優しさだったのだと私はそこで気付いた。