恋
腕時計を見ると既に2時になろうとしていた。既に勤勉な学生達も熱心な研究者もいなかった。建物内からぼうっと浮かび上がる光は消火栓の赤い光か、非常口の緑色の光だけだ。暗闇にぼんやりと輝く光は薄気味悪く、未知なる世界に迷い込んでしまったような気分になる。
私とチェキとサンデはサハラに案内され、大学敷地の奥にあるL棟へと向かっていた。外は真っ暗だった。30メートルおきに設置された街灯が道を照らす唯一の光で、管理が悪いのか時折チカチカと電気が切れかかっているものもあった。
私はチェキの身体が心配だった。先ほどまで動くこともままならなかった彼がこのまま敵地であるセルに入ることなど、無謀であると思われた。街灯の白い光で照らされる度に私は「大丈夫?」と訊ねていた。鬱陶しいと思われていてもおかしくないが、彼はやんわりと「気にするな」と笑うだけだった。恐らく大丈夫ではなかったところで、彼は同じ回答を繰り返していただろうが。
「セルに入ったら、本当に記憶が失われるのか?」
L棟が見えた所でサンデが訊ねた。
「普通に入ればな。失ってから記憶を取り戻すという手段もあるが、失うことそのものから逃れる術も実はある」
サンデは鼻の頭に皺を寄せて小さく唸った。
「本当にこいつを信じていいのかなぁ」
サンデはもっと適当で荒々しい性格だと思っていたけれど、意外と慎重なタイプのようだ。
「実はオレ達をはめようとしてるっていう可能性もあるわけだろ?」
その言葉にサハラはふっと息を吐いた。張りつめていた空気が弛むのが分かった。
「何だよ」
「変な気分だ」
「はぁ?」
サハラはうっすらと笑みを浮かべている。嘲笑っているわけでも、愉快なわけでもないようで、どちらかというと苦笑に近い。
「確かに俺がこんなことをする義理なんてないんだよな」
気が変わったとか言わないでくれよ、と急に神妙な口調になるサンデがおかしかった。私は声を殺して笑う。そんな私の様子を横目にチェキが訊ねた。
「じゃあお前が協力する理由は何だ?」
サハラはその問いに首を捻る。そんな彼の様子をぼんやりと眺めていると、やがて彼の青い瞳がこちらを捉えていることに気付いた。
「きっかけが滝島セツナであることは間違いない」
「え?」
「初めて許されたいと思ったんだ」
おそらく、サハラも理由が分かっていない。彼にとって、私達に力を貸すことは世界のためという壮大な目的があるわけではなく、漠然と彼の中に芽生えたものに忠実に従っているだけなのだろう。
チェキはサハラに何も言わなかった。数秒サハラの瞳を直視した後、ただ「そうか」と短く言い、暗闇にひっそりと聳え立つ目の前の3階建ての建物へと足を動かした。右足が痛むのか、少し引き摺っている。
「なんだよ、あいつが一番星を憎んでいると思ったのにな」
サンデはチェキの広い背中を見つめながら、ぽつりと呟いた。どこか不満そうで、どこか安心したような表情をしていた。サンデが小走りでチェキを追いかけていったので、私とサハラが彼らの背後を歩く形になった。
妙に胸が締め付けられる気分だった。手を伸ばしても息を切らして走っても、決してチェキの背中に辿り着けないのではないかと思ってしまう。長い時間を共に生きてきたというのに、私は彼のことを何も知らない。
「私は知らないことばっかりだ」
私のボヤキは気がつくと口から零れていた。
「知らなくていいよ。滝島さんは」
「そうかな。でも私はチェキの全てを知りたいよ。悲しい過去も大切な思い出も」
「きっとそれは俺の罪を知るということだ」
星の罪。本当に悔いているのだろう。彼は苦しそうにそう言った。
「キミはコアと人が共存できる世界が創りたいって言っていたよな?」
「うん。言った」
「騎士達の愚行を止めたところで、世界の歪みは元には戻らない」
「うん。分かってるよ」
それでも指を咥えて待っているだけでは、何も変えられないのだということくらい、高校生の私でも分かる。何故今、そのようなことを言うのか分からなかった。私が腑に落ちないままサハラの顔を見ていると、彼はふっと頬を緩ませた。
「キミは彼女を思い出させる」
「?」
彼の眼窩にある海よりも深い色の青がきらりと輝いた気がした。私はその美しい瞳に魅せられ、息をすることすら忘れそうになる。
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サハラは自分でも、何故彼らに力を貸す気になったのか分からずにいた。彼が「神となる計画」から降りたことと「計画をぶち壊す」こととは同義ではない。彼がヒトとして、平和に過ごすことなら、彼らに力を貸すことなく可能なことだったはずだ。
それでも、気がつくと彼は手を差し伸べていた。不可解な自分の行動に、そして混乱している頭の中に彼は溜め息を吐く。
それでも彼の中で何か変化が起こっていることは把握できていた。そしてその変化を生み出したのが、滝島セツナであることは明白だった。大した力も持たないただの少女にすぎない彼女が、何故これほどまでに自らを揺さぶってくるのか分からなかった。
彼はなんとなく滝島セツナを欲しているのだと気付いていた。自分のことを大切に思ってほしい。これを恋だというならばそうかもしれないし、違うかもしれない。その判別は極めて困難だ。
そして、どんなに手を伸ばしても彼女は手の届かないところにいるのだということにも、彼は気付いていた。サハラが犯した罪はどんな償いによっても許されるものではないし、セツナが誰よりも大事に想っているチェキを苦しめたと知れば、彼女は自らを憎むに違いない。彼女が、チェキの過去を知りサハラの罪を知る時、彼の小さな恋のような感情は終わるのだろう。
ふと、彼女が「コアとヒトの共存できる世界を創りたい」と言っていたことを思い出す。彼女の小さな力では叶える事が難しい儚い願い。星が犯した罪が許されないとしても、せめてその願いくらいは叶えてあげたい。
このような感情が湧いてくるのは久しぶりのことだった。妙に懐かしい感覚だ。
あぁ、とすぐにサハラは納得して笑ってしまう。
強い意志を秘めた瞳。彼女にとても似ている。
「キミは彼女を思い出させる」
サハラの言葉の意味が分からないのか、滝島セツナはぽかんと口を開けたままこちらを見ている。そのあどけなさを残した表情は、忍海マリルの面影を湛えていた。
この淡い心を、忘れないでいよう。
かつての星のように間違わないために。
やっと見つけた光を失うことの無いように。
「俺が不審な行動をした時は、これで俺を消してくれ」
サハラはポケットに入れていた小さなナイフを出す。彼女はおそるおそるそれを受け取り、ケースを引き抜き、刃の部分を見て驚いていた。柄の部分は粗末な木で出来ているが、刃は青く輝いている。
「これは?」
「星の石で作ったナイフだよ」
彼の体の一部から作ったのだといえば、顔を顰めて気持ち悪がられると思ったので口にはしなかった。
「なんで私にこれを預けるの?」
不思議そうに首を傾げる彼女に納得させる説明はできそうにない。サハラは笑みをつくって誤魔化すことしかできなかった。