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彼の手

私はチェキの寝顔を見たことがない。

そんな話を周囲の誰も信じないけれど、これは本当の話で、そもそも彼が眠っているのかどうかを私は確かめたことがない。

私が幼い頃、夜が怖くて眠れない私の傍に座り、優しく頭を撫でてくれたチェキ。彼はいつも私の寝顔を見届けるまで起きていた。そんな日々は私の「夜が怖くない宣言」が発せられるまで続いた。


夏の夜、決して寒くないにもかかわらず、奇妙なほど震えが止まらなかった。チェキは自分の腕の中で静かに眠っている。彼の寝顔をこんな形で眺めるなんて。私は身を裂かれるような気分だった。彼の鮮血が私の手も衣服も染めていたけれど、私はそんな鮮やかな赤よりも、沈黙したまま白い顔をして静かに眠るチェキの顔の方が痛々しく感じた。


「どういう意味だ? チャンスって」


サンデが首を捻る。かつての滅ぼしたい敵とかつての守りたい人の両方を持ち合わせた男を前にして戸惑っているのか、彼の顔は硬直したままだった。


「あいつらが今から入るならセルの入り口は自動ドアみたいなものだ。あと」

「あと?」


サハラは肩を竦めて「俺が力を貸してやる」と笑った。


「何だよ、それ」

「お前達はセルがどういう場所か知らないんだろ? それにチェキは戦闘不能だし、お前が入ったところで記憶が消しとんで終わりだろ? どうするつもりだったんだ」


呆れた様子でサハラは深く息を吐く。その態度が気に食わないのか、サンデが噛みついた。


「そ、そもそもお前がセルなんか作るから、事態がこんがらがってるんだろうが」

「勘違いするなよ。俺は非難してるわけじゃない? ただ純粋に訊ねている」

「それは……」


言葉を濁すサンデは悪いことをしている子供のようだ。彼の高い鼻を擦りながら「うー」とか「いや」とか独り言をこぼしている。


半身エソラが指示したんだな。 あの慎重な男にしては奇妙なほど強引だが。理由があるな」


サハラは目を逸らしたサンデの顔をのぞき込む。


「な、何だよ。オレはお前のこと恨んでるんだよ。心の底から憎んでる。だからお前に話す義理はない」


絞り出すような声だったのは、彼の中にある強い葛藤ジレンマのせいだろう。サハラはそんな彼を眺めていたが、やがて青い瞳を動かし、こちらを見た。


「怖い顔をしないでくれ」


懇願するようにサハラは眉に皺を寄せながら言った。


「怖い顔をしているキミはカオルに似ている。その顔を見ていると、昔の自分(ほし)のことを思い出す。辛いんだ」

「辛い? あなたが私を騙して利用してチェキをこんなに傷つけたというのによく

そんなこと……」


彼は黙って私の言葉を聞いていた。誤魔化しも弁解もしない彼に、逆に私は苛立ち胃の底に滞留したままの言葉を吐き出した。要するに「キレた」ということだ。


「どうしてこんなに酷いことができるの? こんなに血を流している彼を見て何も思わないの? 感じないの? 人間はね、他人の痛みを感じるの。貴方が私に睨まれて辛いと思うような痛みじゃない、想像を絶する痛みをね」


止まらなかった。自分の言葉が、彼の心をズタズタに引き裂いていく感触が確実にあった。だから、私も酷く傷ついていた。泣いてはいけない。そう思ったけれど、この激昂を抑えるにはその手段しかないと身体が判断したらしく、大粒の滴がこぼれてくる。


「慣れないことをするからだ」


掠れた声が聞こえてくる。涙が伝う私の頬に触れる温かい手は彼のものだった。


「感情的に怒るなんて、セツナらしくない」

「チェキ?」


気がつくとチェキの茶色の瞳が開いている。その目は明らかに茶化すような色を帯びて弱々しく笑っている。


「怒らないでやれ。この傷をつけたのは彼ではないし、既に彼なりに充分苦しんだ」

「でも……」

「いいんだ」


声量そのものは小さいものの有無を言わせぬ力強さがあった。何故かつてチェキを苦しめたサハラを庇うのか腑に落ちないけれど、私は迷った末に素直に頷く。


「随分早いお目覚めだな」


サハラがようやく口を開いた。声そのものは少し上擦っている。


「暢気に眠っているのは趣味じゃない」


チェキはそう言いながら、私の膝元から身体を起こし、ゆっくりと慎重に立ち上がった。少しよろめいたものの、彼の背筋はまっすぐに伸びている。これもコアの力。常人には有り得ない治癒能力だ。


「急がずとも、彼は完全なる鍵を手に入れていない。鍵は俺とエソラだから」


チェキは仰天するわけでもなく、小さく「そうか」と呟くだけだった。


「あまり驚かないな」

「その可能性も多少は推測していた。そうでなければエソラがリヒト様の心を完全に持つというなら、邪悪な意志を持つ半身を食うことに執着する理由が見当たらないからな」

「さすがだな。で、どうする? 俺はセルを作り上げた張本人だから、基本的に道は分かるが」

「お前を信用できるか、と言われると首を傾げたくなるが、カオル達のように鍵を連れて逃げ回る方針は好かない」


その一言で合点がいったのか、サハラは「そういうことか」とこぼした。


「エソラは、カオル達に鍵として保護される前に全てを終わらせたかったんだな。そうだろ、サンデ」

「え……あ、さぁ?」


曖昧に頷きながらサンデは誤魔化したけれど、イエスと答えているようなものだと私は思った。


「さて、そうと決まれば行こうか」


サハラはアスファルトに座り込んだ私の前でしゃがみ、視線の高さを合わせて悲しそうに笑った。


「俺は罪を償うよ」

「……」

「だから見てて。許してとは言わないからさ」


サハラが口にした「罪」を私は知らない。それでも彼の青眼に秘められた色がその重さを物語っていた。


「こっちだ」


そう言ってサハラは立ち上がり、踵を返して構内へと足を運ぶ。


「行こうか」


チェキが座り込んだ私に手を差し伸べてくれた。私はその手を握ろうと、腕を上げようとするが躊躇った。私の手は赤黒く変色した血にまみれていた。血を流している張本人であるチェキの手に一滴の血液も付着していないことに驚きながら、私はその手を汚したくなかったので自らの手を引っ込めた。


私の浅はかな意思などチェキにはお見通しで、彼はやんわりと笑いながら、私の手を掴んだ。僅かな熱が彼から伝わってくることに私は安堵する。かつて眠れない私の頭を撫でてくれた柔らかい手の感触がここにある。こみ上げてくる気持ちを抑えられずに、私は気がつくと満面の笑みを浮かべて彼の手を握り返していた。



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