彼女を殺すのか
サハラは背後から向けられた視線の色の変化に気付いていた。ヒトが適わないはずのコアの命を奪うことが出来る者の正体は、またコアであることを彼女が気付かないとは思えなかった。彼女から見える平凡なヒトが「恐ろしいコア」だったと知れば、彼女とは今までと同じように「人間ごっこ」をすることができない。それを思うと寂しくなった。
黒いライオンの表情は著しく歪んでいた。恐怖のせいか、ただ苦痛に寄るものなのかは分からないが、ただ醜いとサハラは思った。
『お前は誰に牙を向けているのだ』
先ほど漆黒のライオンに囁いたのが、効いたのだろうか。まだ生きている黒いライオンは再度立ち上がろうとはしなかった。
戦意を失った黒いライオンとは異なり、赤いライオンはむしろ逆上しているように見えた。先ほどと同じ言葉を彼に発したところでライオンはおそらくサハラの正体を察することができるほどの余裕を欠いており、攻撃を止めることはないだろう。
サハラは小さく息を吐く。
すぐに彼の頭の中から赤いライオンは既に亡き者になっていた。むしろ彼の頭の中は事後処理のことでいっぱいになっていた。自らの正体を知る者は限られている。しかも彼女はあの「滝島カオル」の娘だ。彼女が母親に今夜起こったことを話せば、すぐにサハラの居場所を突き止められ、何らかの鉄槌が下ることは見えている。
『滝島セツナを殺すのか?』
彼の脳裏にその命題が浮かび上がる。あまりに残酷で、無駄のない方法であると思えた。
彼の思考回路を遮断するようにして、赤いライオンはフーッと鼻息を吐きながら、突進してきた。それをサハラはたやすく回避する。大した敵ではない。彼の脳は再度思考を開始する。
『殺してしまえばいい』
そう。彼は常にそうしてきたのだから。サハラにとってこの世界の神になることは、天命のようなもので、邪魔するものは排除するべきであると、彼はずっと思っていたから。
抱えきれないほど増え、飽和してしまった生命を凝縮するシステム、命蝕。
1人の少女の些細な願いから生まれたこのシステムを構築したのも、また自らの使命であったように、共存が難しい2つの種族を統括する者として世界に君臨することも使命であると、彼は思っていた。この使命を果たすことは、生物が遺伝子を残すという本能的なものに似ている。
しかしその天命に抗うことをどこかで望んでいることに、サハラは気付き始めていた。
ヒトとして生きて、およそ20年。
星の石の魅力に取り憑かれた可哀想なヒトの身体を奪ってから、彼は人間として生きた。最初は余興のつもりだった。この不可解な存在を分析することで、彼は面白おかしく神となるまでの時間を潰すつもりだった。
それなのに。
彼はその平凡で訳の分からない生き方が嫌いではなかった。
彼の目の前に現れては去っていく人間が、おかしくて仕方なかった。
そして滝島セツナに出会い、胸に渦巻くものがはっきりと輪郭を帯びた。それは彼の「望み」であり「夢」なのだと、最近になって自覚するようになった。
『このままヒトとして生きたい』
決して口にすることはできない願い。執着していた「天命」と「夢」の間に深い溝ができ、それは願えば願うほど広がり、2つの思いは遠のいていく。何故、あの時滝島セツナに愚痴ってしまったのだろう。自らの不可解な行動に彼はうっすらと笑みを浮かべた。
『彼女を殺すのか?』
何度も彼は自らに問いかけた。使命を全うするには、ここで彼女を殺さなければならない。驚くことに彼の手は震えていた。自らの中で思いは拮抗し何かしらのバグを起こしているのだろうと彼は冷静に分析した。
怯むこともなく赤ライオンは突進してきた。近づいては爪やら牙やらでサハラの身を裂こうとするが、サハラには掠りすらしない。
そろそろ結論を出そう。
使命を全うして世界を君臨する神となるか、それとも身を隠しつつただのヒトとして生きるか。
『神様には絶対分からないだろうなぁ』
急にわけもなく滝島セツナの声が思い出された。
『分かりっこないですよ。神様にはちっぽけな人間の嘆きや悩みとか聞こえない』
彼は目を見開く。100年も昔の、肉体がほしかったあの頃を思い出す。彼には強大な力だけがあった。全てを従えるだけの力があったというのに、何1つ得られなかったではないか。唯一大切だった、「忍海マリル」の願いさえ叶えられなかった。むしろ張り巡らした棘で彼女を傷つけただけだったではないか。
彼は拳を握り締める。
赤いライオンが再び飛び掛ってきたとき、彼はその華奢な拳から黒い炎を吐き出した。黒い炎はまるで生き物のように、激しくうねり、ライオンの身を纏った。
耳を劈くような咆哮が聞こえた。煩いので彼は、その拳でライオンの喉元を貫いた。ぱっと赤い鮮血が飛び散り、彼の顔に付着した。彼の身体を構成する「青い月」の力のせいで、彼らはおそらくこのまま消えて自らの血肉へと代わるだろう。
あの憎き天敵の刀が、自らの一部となったことも奇妙な縁だな、と彼は苦笑する。
彼はゆっくりと振り返る。背後にいる小さく脆い存在に目を向ける。
「サハラさん……」
彼女の目は少し怯えているように見えた。やはり、と小さく息を吐く。その時彼の口の中がとても乾いていることに気付いた。
「大丈夫?」
ようやく絞り出せた声が若干擦れていた。格好悪いほど、声は彼の心情を表していた。怯えているのは自分の方だと、すぐに気付いた。
「はい」
放心状態のままセツナは答えた。急の血生臭い現場に遭遇して、取り乱しているに違いない。
「サハラさんは、コアだったんですね」
意外なことにその言葉には軽蔑も嘲笑もなかった。
「ごめん」
「何故謝るんですか? むしろ助けてくれてありがとう」
「俺が怖くないのか?」
「はい。驚きましたけど」
ようやく、セツナは笑った。
「意外だな。コアのこと、詳しいのか?」
「詳しいというか……、私はコアに育てられたようなものですから」
「育てられた?」
「はい。母は忙しくて家にいなかったので、代わりにね」
彼女は足元に転がったライオンの骸が緑色の光を放ちながら消えていく様子を眺めている。
「これが再蝕、ですね」
「そうだ」
「このような大きな再蝕は初めて見ました。小さな虫とか植物との再蝕は見たことあるんですけど」
このような大きな再蝕が可能なのは、自分が「青い月」の力を持っているからなのだと、告げる勇気はなかった。サハラは「そうか」と小さく呟いた。
「獰猛なコアがこんな住宅街に現れるなんて、驚きました」
「俺も驚いたよ。俺がいなかったら、こいつらの餌だったね」
本当は自分の餌になるところだったのだ、とサハラは心の中で呟く。しかし彼の中で彼女を殺す選択肢は既に消えていた。どうしても彼女を殺せない。どんな危険が伴うとしても。
サハラとセツナはライオンの骸に背を向けて、再度歩き出した。時計を見ると、既に10時を回っていた。
「誰にも言わないでほしい」
「何をですか?」
「俺のこと」
「あぁ。大丈夫ですよ。言うつもり、これっぽっちもないですから。あ、でも」
「でも?」
滝島セツナは躊躇った様子で、こちらを少しちらりと見た。
「知り合いだったら、と思って」
「何が?」
「私を育ててくれたコアの彼とサハラさんが知り合いだったらなぁと思って」
滝島セツナを育てたコア。サハラは何かの予感がしてぎゅっと拳を握り締めた。
「名前を言ってみて。知ってるかもしれない」
その時ばかりは、好奇心は湧いてこなかった。むしろ訊ねるべき義務があるような気がしたから訊ねてみた。
「チェキって言うんです。知ってますか?」
サハラは思わず息を呑んだ。頬が強張るのが分かったけれど、何事もないような振る舞いをする必要がある。彼女には何も感づかれたくない。
「知らないな。残念だ」
今おそらく、大学のある一室に血だらけのまま眠っているだろう。そしてそれを指示した男が自分だと知れば、彼女はさすがに怒り、自分を憎むだろう。
どうして世界はこうも彼を孤独へと追いやるのか。彼は深く溜め息をついた。