夢と使命
私は夜風に当たりながら、サハラと2人で住宅街の暗い夜道を歩いている。
「確かに」
横で歩いているサハラが唐突に言ったので、私は彼の横顔を見上げた。
「確かに気持ちいいものだな」
彼は続けてそう告げた。私は横で頷いた。
先ほど喫茶店で食事を終えた後、サハラは私を家まで車で送ると行ったけれど、大学まで送ってもらうだけで充分だと、彼の提案を断った。見知らぬ男の車から私が降りる姿を、母にもチェキにも見られたくはない。大学まで送り届けてくれたけれど、結局サハラは「夜道は危ないから」と言い張って、家まで歩いて着いて来てくれた。夜道を男の人2人で歩いているところを誰かに見られるのはイヤだけれど、確かに暗い夜道を1人で歩くのは、少し怖かったので彼の申し出を受け入れた。
「さっきの話だけど」
サハラが言う「さっきの話」がすぐには理解できずに私は首を傾けた。
「あの俺のくだらない恋の話」
「あぁ。くだらなくはないけれど」
「あれはもう忘れてくれ」
少し照れくさそうにサハラは言った。
「あれは俺の忘れたい過去だから。正直、キミに話したことを後悔している」
「そうなんですか?」
「何故話してしまったんだろうな。こんな話をキミにするべきではなかったのに。でも抑えることができなかった。全てを語りたい気持ちと、言いたくないという気持ちが拮抗してぐちゃぐちゃになる」
サハラは苦々しく笑っている。近くの街灯がチカチカときれかかっていて、彼の顔はカメラのフラッシュを浴びているように明暗を繰り返した。
「最近、よく分からなくなる」
「何がですか?」
「自分がやろうとしていることと、自分が本当に望んでいることは違うのではないかって。自分が突き進めば突き進むほど、本当の望みとの間の溝は深く広く刻まれてしまうような気がする」
抽象的な話に私は彼の真意を汲み取ることはできなかったけれど、彼が真剣に悩んでいることは分かった。私はそんなサハラの苦しそうな横顔に胸が締め付けれられそうになる。
「サハラさんには夢があるんですね」
「夢?」
彼は足を止めた。目を丸くして、自分より一回りも歳も背も小さな私をじっと見つめている。
「サハラさんの望みって『夢』ってことでしょ?」
サハラさんはぼんやりと考えながら「夢、か」と呟いた。
「私にも夢があるんですよ。それを叶えたいと心から思っている。きっと誰もが夢を抱いて、それを叶える為に精一杯生きている。私も今はまだ高校生だけど、いつかはその夢を実現したいと思っています。そのための努力が夢からかけ離れていると思えば、修正したらいいんじゃないですか?」
私も自身の内面をサハラに口走ったことに若干の後悔の念が湧いてきたものの、すぐにそれは海面の泡の如く消えた。
「滝島さんの夢って何なの?」
サハラは長い前髪を揺らしながら、ぼんやりと尋ねてくる。私は少し躊躇ったけれど、気が付くと自分の夢について語っていた。
「ヒトとコアが共存できる世界を創ること。おかしいでしょ?」
笑われるか軽蔑されるかのどちらかだと思っていたけれど、サハラは意外なことに首を横に振った。
「ちっともおかしくはないと思う」
「そう?」
「でも、滝島さんがどうやってそれを実現する気なのかを知りたいな」
「まだ、考え中。でも、私はそれをできるだけの地位につきたいと思ってる」
サハラは「いいなぁ」と手を頭の後ろに回しながら言った。
「夢と使命なら、どっちが大事かな」
「使命?」
「どっちも叶えることはできない。俺は使命のために長い年月をかけてきたけれど、ここまできて、迷いが生まれてしまったんだ」
サハラは見て分かるほどがっくりと肩を落とした。彼は今脆く壊れやすいガラス細工のように見える。私にはかける言葉が見つからなかった。あまりに生きてきた年数が少なすぎて、何を言っても陳腐な綺麗ごとにしか思えなかった。
「サハラさん?」
急にサハラの顔が険しくなった。サハラは目の前に広がる闇を見据えたまま、人差し指を口の前に持ってきて。私に沈黙を促した。
耳を澄ませると漆黒の闇の奥から、犬が唸るような声がした。グルル、と言う獣の声は徐々に近づいてくるのが分かった。
街灯の当たる間際のところで、それは立ち止まった。ライオンが獲物を見つけて、これからハンティングを行う時に似ている。
「俺が着いてきて良かった」
サハラがそう告げた瞬間、暗闇から大きな何かが飛び出してきた。私の目で捉えることはできなかったけれど、サハラはそれの襲撃を横平に回避し、私の腕を引っ張った。私の腕が一瞬抜けてしまったのではないかと思うほどに強い力だったが、もし彼がそうしなければ、私はそれの襲撃の餌食になっていたに違いないだろう。
私の目に映ったのは大きな黒いライオンだった。漆黒の鬣と毛並み。瞳だけが禍々しい赤に染まっており、尻尾はトカゲのように太い。
「コアだな」
サハラが目を細めて言う。彼からは恐怖心が微塵も感じられなかった。
「随分愚かなコアがいたものだな。こんな時に人間を襲うなんて」
私は彼の背後に隠されるようにして、彼にしがみ付いていた。自分でも震えていることが分かった。チェキやサンデのような人型ではないコアを直に見ることは初めてだった。
ライオンはじっとサハラと私を見据えていたけれど、やがて口角を引き鋭い刃を見せた。その歯にはべっとりと血が付いている。口元から垂れる粘性のある涎は、悪臭がして鼻が曲がりそうになった。
「サハラさん、逃げた方がいいです」
私が背後でそう言おうとした時、サハラは私の手を引いて、ライオンとは逆の方向に走り出した。
とても走り出しが早くて驚いたけれど、すぐに彼の足は止まった。
「なるほど。もう一匹いるわけか」
次は赤いライオンだ。相変わらず涎を垂らし、こちらをじっと見ている。2匹に道を塞がれてしまっては私達に逃げ場所はない。万事休すだ。
私は抑えきれない震えをサハラに伝えながら、彼の横顔を見た。相変わらず彼の顔に恐怖は見えなかった。むしろ困った表情で、あれこれを模索しているようだった。
『逃げようとおもったのか?』
黒いライオンがそう言った。
『オレ達から逃れることはできないぞ』
赤いライオンが続けてそう言うと、2匹は汚い笑い声を上げた。
『おい。クロ。おれはその小さなおんなを食いたい』
『ふざけるなよ。アカ。そのヒョロリとしたおとこを食ってもまずいのは分かってるだろうが』
『この前は、オレがまずいおとこを食った。次はオレがおんなを食う番だ』
ライオン達の会話を聞いていると、どうやら私達は獲物で、やはり食われる運命にあるらしい。もう逃げ道はない。私は死を覚悟した。
その時、サハラがしがみ付いていた私を引き離した。彼は前に一歩でてこちらを振り向いて、やはり困った表情でやんわりと笑った。
「本当は隠しておきたかった」
「?」
サハラは「ごめん」と謝り、ライオンに飛び掛っていった。いうまでもないが、生身の人間がコアに敵うわけがない。生身の人間ではライオンにすら適わないというのに、その数倍も強大な力を持つコアに勝てる見込みはゼロだった。
「サハラさん!?」
間合いに入った小さな獲物を黒いライオンは歓迎した。その鋭利な爪で、彼を引き裂こうと腕を振り翳すと同時に豪快な咆哮をあげた。
私は思わず目を伏せた。次に目を開けた時そこに倒れているのは、既にサハラの原型を留めていない可能性がある。肉の避ける音、そして轟々と唸る炎の音がして、私は更に強く目を瞑った。
すぐに沈黙が訪れた。私はゆっくり恐る恐る目を開けた。
そこには鮮血を流し、緑色の淡い光を放つ黒いライオンの亡骸と、血だらけの腕をぶらりと下げたまま立ち、もう一匹の赤いライオンを凝視するサハラの姿があった。