本に囲まれた部屋
びっしりと分厚い本か詰まっている本棚に囲まれた薄暗い部屋で、頭を抱えてデスクに向かう男がいた。
ほんの少し指先が震えているのは年齢だけが原因ではないことを彼は知っていた。年の割に髪の毛があると自負している頭を撫でると、1本の白髪が指に絡んでいる。20年前には白髪など完全なるマイノリティだったのに、今では絶対的権力を握った与党のようにその存在を主張している。ふいに右を見ると、本棚のガラス戸に映った自分に愕然とする。老いた。随分老いた。20年前の自分には目立った皺はなかったのに、顔に烙印のごとく深く刻まれたそれは亡者の呪いのように思えた。
傍らに置かれている写真立ての中には、幼い頃の娘の姿がある。太陽のような眩しい笑顔を、今後直視することはできそうにないと彼は溜息を吐いた。涙は出なかったけれど、出てもおかしくはない心境だった。
彼は写真立ての横に並べられた青い表紙のファイルを手に取る。片手で持つには分厚く重かったので彼は両手でそれを持った。プラスチック製の安っぽい表紙をぺらりとめくる。彼がこれまで全てを捧げたものの成果がそこに書かれている。
彼は突然息苦しくなる。そこに書かれたものは自らの罪であり、この呪いのような老いは罰なのではないだろうかと思った。水分の失われた皺くちゃの手をすり合わし、彼は酸素を求める金魚のように口をパクパクした。とりかえしのつかないことをしてしまった。そんな思いを抱いた科学者は歴史上にもたくさんいるだろう。原子爆弾を作り出したあの有名な科学者の心中は今の自分に酷似しているに違いない。しかし、脅され監禁され黙ったまま石像のように生き続けることを強いられた自らの状態に共感してくれる科学者は何人いるだろうか。この狭い部屋で、ひっそりと膨れ上がる驚異を指をくわえて見つめることしかできない自分に腹が立ち、同時に死さえも望んでしまう。
書斎の子機が鳴った。プルルルと冷たい音が鳴り、彼は唾を呑んだ。
「はい」
恐る恐る男は電話に出た。こんな時間に自分にかけてくる相手は限られている。研究員のハマダか、助手のサハラだ。
「サハラですが」
電話の向こうの低い声のせいで嫌な温度の汗が伝った。毛穴が開き、汗腺が開き乾ききった自分の全身が急に湿った。
「お久しぶりですね」
「……」
「逆無言電話ですか。まぁいいでしょう」
電話の向こうでサハラは笑った。
「あなたにいいお話がある」
「……」
「外に出られますよ。講演の依頼です」
「……」
「強力な護衛をつけますから大丈夫ですよ。コアに恨まれて殺されることもありません」
「……ただの餌なんだろう?」
男は分かっていた。サハラが自分の身を危惧しているわけではなく、彼はただ釣りをしようとしているだけだ。自分という餌をぶら下げて、馬鹿で愚かな彼の標的を釣りたいだけだ。
「さすがに分かりますよね。あなたは頭がいいから」
ケタケタと子供のように笑う声がした。
「まぁ大丈夫ですよ。あなたにはまだ死なれるわけにはいかないので全力で守ります」
意味深げな声色だった。彼は指先の震えを抑えたくて拳を握りしめた。
「コアは私達に安らかな死を与えるだろう。ヒトが持たざる強力な力で」
「そうですね。でも」
電話の向こうで低い笑い声がした。サハラの歪んだ笑みが頭に浮かぶ。
「お分かりですよね」
呆気ないほどぷつっと電話が切れた。