悪いことと良いこと
家に帰るとチェキがキッチンに立ち、野菜を洗っていた。
「おかえり」
低い声で微笑む彼に、私もまた微笑み「ただいま」と言う。既に18時を回っていた。
「申し訳ないが、夕飯を今作り始めたところだ」
「珍しいね。いつもは早すぎるくらいなのに」
「たまにはそういうこともある」
出ていく時に読んでいたチェキの本は栞の位置から後半に差し掛かっていることが分かった。どうやらずっと読んでいたらしい。
「本ばっかり読んでて飽きないの?」
私はチェキの分厚い本を手に取り、ペラペラとめくりながら問う。視力検査をされているような細かい文字に私は思わず顔を歪める。
「飽きない。思想を知ることは重要なことだ」
私はタイトルに書かれた「ニーチェ」の文字に溜息を吐く。私の苦手な哲学が載っている難しい本であることは間違いない。
「楽しかったか?」
チェキが茄子を切りながら訊ねた。トントンというリズミカルな音がカウンターキッチンから聞こえてくる。
「うん。まあ」
「その顔は良いことも悪いこともあったという顔だな」
チラリと私の表情を見るだけで分かってしまうのはいつもさすがだと思う。コアの能力なのか、育て親の能力なのかは不明だ。
「……ねぇ。三島アキラって知ってる?」
「あぁ。最近捕獲されたコアだな」
「もしかして知り合いだったりする?」
「いや。知らないが、彼がどうした?」
私はサナの悩み相談の内容について説明した。私の中に植え付けられたモヤモヤの種を掘り返すように。チェキは手を動かしながらも、熱心に話を聞いてくれた。
「コアが嫌悪されるのはいい気分じゃない」
私は説明の最後に付け加えた。それが心の中で重い石のように横たわっていたものであることに、吐き出してようやく気付いた。
「なるほど。セツナが云わんとしていることは分からなくもない」
チェキはそう言いながら鍋に水を入れて火にかけた。
「だが、これだけは言える。コアは世界にとって間違いの存在だと」
「間違い?」
「本来はあってはいけない存在だ。異物に対し、サナがそういう思いを抱くのは当然のことだろう」
コアであるチェキの口から「間違い」という単語が飛び出したことに、少なからず私は傷ついた。
「あってはいけない命なんてない」
私はそう主張したけれどチェキはうっすらと微笑んで緩やかに首を横に振った。
「核兵器はこの世界に必要か?」
「え……?」
「武器は必ず戦を起こす。核兵器は廃絶すべきだし、それはコアであっても同様だ。厄介なのはそれに意思があるということだが」
「……チェキよりいなくていい人間なんて山ほどいるよ」
吐き捨てるように私が言うと、チェキはようやくこちらに視線を向けた。しばらく彼は目を丸くしていたが、やがてふっと頬を緩めた。
「やっぱりお前は私に似ているよ」
彼は鍋に切った茄子とトマトを入れて蓋をした。使用済みのまな板を水で濯ぎながら、チェキは問う。
「で、良いことの方は?」
私は「へ?」とマヌケな声をあげた。
「さっきのは悪い方の話だろう? 良い方を聞かせてくれ」
良い方、と言及されていい事柄なのかと一瞬迷ったけれど、先ほどまで横に座っていた青年を思い出し、なぞるように私は話した。
「不思議な男の人に出会ったの」
「ほう……」
「優しい眼をしてた。彼は私のことを知ってるみたいで名前を呼んだ」
「学校の人間か?」
私は首を横に振る。
「歳は同じくらいだったけど……あんな人が学校にいたら、有名人だよ。赤茶色の毛に青い眼だったんだもん」
あの傾き気味の太陽に照らされた金の鬣と深い海のような瞳。日本人ではないだろう。
「本当にヒトだったのか?」
料理にひと段落着いたのか、彼はタオルで手を拭いてからリビングのソファーに座り、私と向かい合った。
「コアだったってこと?」
「その可能性もある」
確かにエソラは人間離れした空気を纏っていた。セルのことや世界の抱える問題について話していた。
『世界の裏側を見てみろよ』
エソラの言葉が脳裏によぎる。よくよく考えればあれは裏側を知っているような言葉ではないか。
「コア、だったのかな」
「さぁな。いずれにしろセツナにとって、その男との出会いは良いものだったわけだ」
「あれ? 嫉妬してる?」
冷やかすように私が言うと、チェキはやんわりと笑った。余裕のある優雅な笑みだった。
「少し、な」
足を組み、ソファーに凭れるチェキを眺めながら、私はエソラのことを考える。三島アキラのように彼も捕獲されてしまうのだろうか。そして決して逃れることのできない生命の牢獄に閉じこめられてしまうのだろうか。
あれこれ考えた末、ふっと息を吐き出した。彼がコアである確実な証拠があるわけでもないのに、私は何を考えているのだろうか。
「チェキは世界中に何体のコアがいるか知ってるの?」
「どうした、いきなり」
「いや。気になっただけ」
「大規模な命蝕は7年に一度しか起こらないが、昔は不定期な小規模な命蝕が多発していたからな。私にも詳しい数は分からないよ。でも軽く見積もっても1000体は超えているだろうな」
「1000体……」
世界中に1000体。1000体もいるのか、1000体しかいないのかは分からないが、その中の3人(チェキ、サンデ、リヒト)が私の身近に存在するのはすごいことのように思えてくる。もし仮にエソラがコアだったとすれば4人。確率的にも有り得ないなと苦笑する。
「ねぇ。明日さ、私もサンデの家行っていい?」
チェキは立ち上がり、再び鍋の前に立った。
「あまり喜ばしくはないが、構わない。どうせ拒否したところで、尾行するんだろう?」
呆れた口調だったが、勿論その通りだ。
「さぁ食べよう」
チェキは冷蔵庫からグリーンサラダを取り出し、トマトスープとセットにして運んでくれた。しかし、私の分だけだ。
「チェキも食べようよ」
「セツナが残さずに食べるなら」
食欲がない私を見抜いたのか、チェキはうっすらと笑みを浮かべながらそう言った。私は引きつった笑いを浮かべる。