小さな部屋
ガチャリ。
キーを回すと廊下に響くロック音、イギリスの家とは違うその音は新しい世界への幕開けか。
「家具とかはとりあえず、最低限は用意したってお母さんが言ってたけど……」
部屋数は3つかな。物に埋め尽くされてない、装飾もない、シャンデリアもない、広くもない、庭園もない、バルコニーもない、使用人もいない、けれど僕1人が生活するには十分だろう。
「1年間の期限付きだし、必要なものは少しずつ揃えていけばいいんじゃないかって」
リビングのカーテンを開けると差し込む南からの日差しが小さなテーブルに陰を作る。その向こうにある街の景色。
「倉木くん」
「マサヤと呼んで欲しい」
「ん?」
「僕も君のことをリリさんと呼んでいる。だから君も僕をマサヤと呼んで欲しい」
「……マサヤ、くん」
「うん、それでいい」
気のせいだろうか。名前を呼んだだけで照れながらはにかむリリさんは、男性との距離感に慣れていないような印象を受ける。
「ざっと見た感じ、必要なものはありそう?」
「そうだな……」
「お母さんがなんでも言ってって」
「ベノアティーを嗜むためのヴィクトリア調のティーセット」
「そういうのは後にしてくれないかな!」
1人で、僕は1人で生活をする。そのために僕は日本に来た。
「一応、お風呂とトイレは別だし、あとは、あ、お風呂とエアコンのリモコンの説明とか」
お風呂とトイレが別? バスルームとトイレは別だろう。それともなにか? 日本にはバスルームとトイレが別じゃない、合体しているものが存在するのか?
「最初は全て自分でやってみよう。困難に突き当たったらアドバイスを貰いに行く」
「分かった」
「リリさん、君の優しさに感謝する。ありがとう」
「もう、いちいち感謝しなくていいから。いい加減照れる……」
「感謝の気持ちは人としてとても大切な感情だ」
「ええ、そうですけど!」
照れて笑うリリさんに、車内でリリさんのお父様が言ってたおてんばの要素は感じられない。丁寧に、親切に、僕に接してくれている。
「ところで、マサヤくんはホントに貴族なの?」
「違う。僕は貴族じゃない」
「え、違うの?」
「正確には、父が貴族階級である侯爵であり、僕はその嫡男という立場だ。父が引退後、僕がそれを引き継ぐ。侯爵家、中世の時代から続く系譜だ」
「へー、そうなんだ」
「マサヤ・ニコ・ロズヴェルグ、それが僕のイギリスでの名前だ」
「……ロズヴェルグ、うわあなんかカッコイイ! 小説とかに出てきそう!」
「僕の全てはロズヴェルグ家のために、ロズヴェルグ家の全てはロイヤルファミリーのために」
「……ん?」
「それがロズヴェルグ家の家法であり、僕が侯爵の嫡男たる所以だ」
「なるほどね。うちの学校は特殊だからさ、うん、絶対に内緒にしといた方がいい、うん、そうしよう!」
ディナーの時間に秋月家は僕を歓迎してくれるらしい。時間になったら呼びに来るから、そう言い残してユアさんは自分の家に戻った。
荷物の整理をする前に、ボストンバッグから取り出す3つの物品。それに映る3人の女性。
ーー1枚目『ユリア・ワトフォード』
アメリカ合衆国、ハリウッドで活躍する女優。僕より3歳年上で、執事が購入してくれた、笑顔のユリア・ワトフォードのA4サイズのアクリルスタンド。
ーー2枚目『Liza』
UKミュージックの人気ロックバンドのボーカル。僕より1歳年下で、CDは観賞用と聴く用を持参し、ロンドンの家の倉庫には100枚、乾燥剤と一緒に厳重に保管してある。スマートフォンのデータにも全曲網羅している。
ーー3枚目『ジュリエッタ・ウィリアムズ』
バッキンガム宮殿で撮影した僕とのツーショット写真。僕より1歳年上で、大手航空会社を経営する名門ウィリアムズ家の御令嬢。イギリスではファッションモデルとして活躍している。
「僕の最初で最後のワガママ。さあ、始めるよ」
バッグから荷物を取り出す前にまずはトイレ。
「ウオオオオオオ!」
僕は走った。靴も履かずにドアを開けて隣りの秋月家へ。焦りで震える指でインターホンを連打する。部屋の中から響く電子音。
「どうした、なにかあったのか?」
開かれるドアから覗く3人の顔を見て、肺の奥から安堵の感情が込み上げる。
「Oh,Shit! なんなんだ、なんなんだあれは!」
「どうした、空き巣でもいたか!」
「空き巣? え、ウソ! 警察!」
「トイレが……」
「……トイレ?」
「トイレの扉が勝手に開いて僕を誘って、便座が僕をあったかくして、水が僕を攻撃した!」
「……え?」
「なんなんだ、あのトイレは僕になにを要求しようとしてるんだ。まさか、日本のトイレには自我があるとでも言うのか!」
「えっとマサヤ君、一旦落ち着こうか」




