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第6話:地獄の沙汰も『湯加減』次第

 動力炉の稼働から半日。

 俺たちの『筏』は、順調に深淵の海を航行していた。

 風を切って進む爽快感。だが、俺には一つだけ、どうしても我慢できないノイズがあった。


「……かゆい」


 俺はボリボリと頭を掻いた。爪の間に白い脂垢が溜まる。

 雲海に落ちてから数日。ずっと着の身着のままだ。服は深淵鮫の脂と返り血でゴワゴワに硬化し、肌は潮風でベタついている。いくら衣食住が整ってきたとはいえ、この不潔さだけはステータス補正でもどうにもならない。精神力(SAN値)が削れていくのがわかる。


「ガイウス、進路変更だ」


 俺は舵を大きく切った。


「敵襲か!? 船長!」


 ガイウスが反射的に剣に手をかける。すっかり戦闘態勢が条件反射として染み付いている。


「違う。もっと重大な緊急クエストだ」


 俺は真顔で告げた。


「風呂を作る」


 ◇


「……風呂、だと?」


 ガイウスは、理解不能といった顔で俺を見下ろしていた。


「体を洗うために、わざわざ貴重な真水を沸かすのか? 桶の水で拭けば十分であろう。ここは戦場だぞ」


「甘いな、ガイウス。桶の水で拭くのと、肩まで湯に浸かるのは、『回復薬ポーション』と『完全蘇生リザレクション』くらい違う」


 俺はステータス画面で周囲の検索スキャンを続ける。風呂を作るには、三つの要素が必要だ。『水』と『熱』。そして何より重要なのが、『浴槽』だ。

 俺たちの筏には、まだ人間サイズの大鍋はない。木で作るのもいいが、もっとおもむきがあって、頑丈な素材が欲しい。


「いたぞ。あいつだ」


 俺が指差した先。波間から、岩のように巨大な赤い甲羅が見え隠れしていた。


 『鉄甲蟹アイアン・クラブ』。

 防御力に特化した、戦車のようなカニだ。通常なら面倒な相手だが、今の俺たちには『魔導砲』がある。


「晩飯はカニ鍋だ。ついでに、あの甲羅をいただくぞ」


 戦闘は一瞬だった。魔導砲の一撃で動きを止め、ガイウスが眉間に剣を突き刺す。

 呼吸のような連携だった。俺たちは巨大なカニを解体し(身は冷凍保存だ)、空っぽになった甲羅をきれいに洗って、筏の甲板デッキに設置した。大人が三人入っても余裕がある、天然の巨大浴槽だ。


「だが船長、これに水を溜めてどうするんだ? 薪で沸かすのか?」


「そんな非効率なことはしない。こいつを使うんだ」


 俺は、動力炉から伸びている『冷却パイプ』を指差した。

 オーバーヒート寸前で稼働している古代エンジン。その熱を奪った冷却水は、排出される頃には熱湯になっている。これまでは海に捨てていたが、これを甲羅に引き込めば……。


 ジョボボボボボ……。


 パイプから、白煙を上げる熱湯が甲羅へと注がれる。さらに別のパイプから冷たい海水を混ぜ、温度を調整する。あっという間に、湯気がもうもうと立ち込める『深淵露天風呂』の完成だ。


「よし、一番風呂は俺がいただく」


 俺は服を脱ぎ捨て、真っ赤な甲羅の中へと足を滑り込ませた。


「ふぅぅぅぅぅぅ……」


 声にならない吐息が漏れる。

 熱い湯が、冷え切った毛穴の一つ一つをこじ開けていく感覚。凝り固まった筋肉がほどけ、骨の髄まで熱が侵食してくる。


「最高だ……。生き返る……」


 俺は甲羅のふちに頭を預け、曇った空を見上げた。極楽だ。周りは地獄のような風景だが、それすらも今は風情に感じる。


「……そんなに良いものなのか?」


 ガイウスが、物珍しそうに覗き込んでくる。


「入ればわかる。ほら、遠慮するな。俺たちは共犯者だろ」


 なかば強引に促され、ガイウスも恐る恐る鎧を脱ぎ、湯へと入ってきた。彼の体には、無数の古傷が刻まれている。戦いに明け暮れてきた男の歴史だ。


「……む」


 湯に浸かった瞬間、ガイウスが目を見開いた。


「なんだ、これは。傷の痛みが……引いていく?」


「そりゃそうだ。この湯には、エンジン冷却に使った時に溶け出した『魔素』が含まれてる。言わば『高濃度魔力泉』だ。疲労回復効果バフ付きだぞ」


 ガイウスは信じられないといった顔で、自分の掌を見つめた。そして、深く息を吐き出し、肩まで湯に沈んだ。


「……ふぅぅ……」


 それは、これまで聞いたこともないような、深く、泥のような重みを吐き出す溜息だった。


「王城の湯より……温かいな」


 ポツリと、ガイウスが漏らした。


「騎士団にいた頃は、常に気を張っていた。湯浴みの時でさえ、暗殺者を警戒していたからな。……こんなに無防備に湯に浸かるのは、生まれて初めてかもしれん」


 俺は苦笑した。この人は、根っからの真面目人間らしい。


「ここは深淵の底だ。暗殺者なんて来ないし、来たとしても自動迎撃システムが蜂の巣にする。……今はただのオッサンに戻って、骨休めしとけよ」


「ふっ……。違いない」


 ガイウスが初めて、穏やかな笑みを見せた。

 カニの甲羅の中で、男二人、並んで空を見上げる。お湯の流れる音と、エンジンの駆動音だけが聞こえる。平和な時間だった。


 だが、そんな安息は、突如として破られた。


 ピピッ、ピピッ、ピピッ。


 脱ぎ捨てた服の上に置いていた『レーダー代わりの魔導具』が、不穏な電子音を鳴らし始めたのだ。


「……敵襲か?」


 ガイウスが鋭い目つきに戻り、湯から上がろうとする。


「いや、違う」


 俺は濡れた体のまま画面を確認し、首を傾げた。


「モンスター反応じゃない。この波長は……『求難信号(SOS)』だ」


 赤い点が、西の方向で点滅している。


「誰かが、この深淵で助けを求めてる」

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