第44話:光の傲慢、湯けむりの極楽
王都アイギスの空が、数百の鋼鉄の影によって覆い尽くされていた。
それは、王国が誇る正規軍の航空艦隊だった。
最新鋭の飛空艇が編隊を組み、太陽の光を反射して威圧的な輝きを放っている。
その中央に鎮座するのは、白亜の巨体を持つ旗艦『グロリアス・セイバー』。
全長五百メートルを超える、空の要塞だ。
そのブリッジにある豪華な玉座には、足を組んでグラスを傾ける金髪の青年、勇者セドリックの姿があった。
「遅いですね。艦隊の進行速度が予定より十分も遅れていますよ」
セドリックが不機嫌そうに呟くと、傍らに控えていた艦長が慌てて頭を下げた。
「も、申し訳ありません、勇者様! 風向きが悪く、旧式の護衛艦が遅れておりまして……」
「言い訳は結構です。まったく、無能な働き者はこれだから困る。……レンのようなゴミが指揮を執っている海賊船ごときに、これほどの大軍を動かすこと自体が滑稽だというのに」
セドリックは美しい顔を歪め、窓の外を見下ろした。
彼にとって、今回の討伐任務は退屈な雑務でしかなかった。
かつて自分のパーティで荷物持ちをさせていた、Fランクの落ちこぼれ。
そんな男が、まぐれで古代兵器を手に入れたからといって、Sランクの自分に勝てるはずがない。
「まあいいでしょう。彼の船を粉砕し、古代の遺産を回収すれば、私の名声はさらに高まる。レン君には、私の踏み台としての最後の役目を与えてあげましょう」
セドリックは嗜虐的な笑みを浮かべ、眼下の雲海を睨みつけた。
彼らが向かう先は、王国の北部に位置する険しい峡谷地帯、『竜の顎』。
そこでネズミ狩りが行われる手はずとなっていた。
一方その頃。
追われる身であるはずのリベルタ・アーク号の船内は、緊迫感とは無縁の、極上のリラクゼーション空間と化していた。
場所は、船の上層部に新設された『天空展望大浴場』。
星核から発生する余剰熱エネルギーを利用して沸かした湯が、檜(に似た古代樹)の浴槽に並々と注がれている。
壁一面がマジックミラー状の強化ガラスになっており、湯に浸かりながら雲海のパノラマを一望できるという、王族ですら味わえない贅沢な仕様だ。
「……極楽だ」
レンは手足を伸ばし、熱い湯に身を委ねていた。
全身の毛穴が開き、日々の激務と戦闘で蓄積した疲労が溶け出していくようだ。
スラムの冷たい雨水で体を拭いていた頃を思えば、ここは天国と言っても過言ではない。
「ふぅ……生き返るな。まさか空の上で、こんな本格的な温泉に入れるとは」
隣で湯に浸かるガイウスも、その巨体を真っ赤にして満足げに唸っている。
彼の筋肉隆々の背中には無数の古傷が刻まれているが、湯の効能のおかげか、古傷の痛みも和らいでいるようだ。
「成分分析完了。……硫黄、ナトリウム、そして微量のマナ成分。筋肉疲労の回復だけでなく、魔力回路のメンテナンスにも最適だ。レン、君はまたとんでもないものを作ったな」
ヴァイスが試験管に湯を採取しながら、感心したように眼鏡を曇らせている。
そして、洗い場の方では、奇妙な光景が繰り広げられていた。
『マスター。背中、流シマス』
機神兵アイギスが、器用にタオルを持ってレンの背後に立っていたのだ。
その巨体ゆえに浴槽には入れないが、防水加工済みのボディは湯気の中でも問題なく稼働している。
「おいおい、いいのか? 最強の機神兵に垢すりをさせるなんて、バチが当たりそうだぞ」
『問題アリマセン。本機ノ精密動作マニュピレーターハ、細胞一ツ分ノ汚レモ逃サズ除去可能デス。……痛カッタラ言ッテクダサイ』
「手加減してくれよ。お前の指圧でマッサージされたら、骨が粉になりそうだ」
レンが苦笑すると、アイギスは慎重に、まるで宝石を磨くかのように優しくレンの背中を擦り始めた。
その力加減は絶妙で、レンは思わず恍惚のため息を漏らした。
「……あー、そこそこ。上手いな、アイギス」
『学習シマシタ。マスターノ筋肉ノコリ具合カラ、最適ナ圧力ヲ算出シテイマス』
キリルはといえば、猫の本能ゆえか湯船には入らず、サウナ室の前で整っていた。
そしてバンバは、風呂上がりの牛乳ならぬ「特製フルーツオレ」を脱衣所で冷やしている最中だ。
男湯の壁を隔てた向こう側、女湯でもまた、至福の時間が流れていた。
貸切状態の広大な浴槽で、リアは一人、お湯の表面に浮かぶ白い泡と戯れていた。
「ふふ……すごい。お肌がツルツルになる」
リアは自分の腕を撫でて、うっとりと目を細めた。
王宮にいた頃も風呂はあったが、それは身を清めるための儀式的なものであり、こんな風に心からリラックスできる場所ではなかった。
監視の目もなく、時間に追われることもない。
ただ、温かいお湯と、綺麗な景色があるだけ。
「レンさん……本当に、魔法使いみたい」
リアはガラスの向こうに広がる青空を見つめ、レンの横顔を思い浮かべた。
彼はガラクタを集めて船を造っただけだと言うけれど、彼が造り出すものは、いつも誰かを笑顔にする。
壊れたものを直し、捨てられたものを輝かせる。
その優しくて不器用な魔法に、リアは救われたのだ。
「……もっと、役に立ちたいな。レンさんのために」
リアは小さく呟き、お湯の中に潜って顔の赤さを隠した。
風呂上がり、食堂兼ラウンジには、バンバの用意した豪勢な湯上がり御膳が並べられていた。
キリッと冷えた深淵麦酒に、天空の墓場で採取した古代キノコの天ぷら、そして深淵猪のローストポーク。
「食え食え! 風呂に入って腹が減っただろ! カロリーの過剰摂取こそがパワーの源だ!」
「いただくぞ! うおぉ、この麦酒、喉越しが凶悪すぎる!」
ガイウスがジョッキを一気に空ける。
レンも冷えたグラスを手に取り、一口飲んだ。
強烈な苦味と爽快感が喉を駆け抜け、思わず声が出る。
「……最高だ。勇者様たちは今頃、狭い軍艦の中で乾パンでもかじってる頃かな」
「違いないニャ。ざまぁみろだニャ!」
キリルが焼き魚を齧りながら笑う。
ひとしきり笑い合った後、レンは表情を引き締め、テーブルの中央にホログラム地図を展開した。
そこに表示されたのは、無数の岩柱が牙のように突き出す渓谷、『竜の顎』だ。
「さて、腹ごしらえも済んだことだし、仕事の話だ。……セドリックたちは、間違いなくここを通る」
レンが地図上の一点を指差す。
そこは、両側を切り立った崖に挟まれた、幅数百メートルの狭い回廊だった。
「奴らの艦隊は数が多い。だが、数が多いということは、狭い場所では動きが取れなくなるということだ」
「なるほど。あえて狭い場所へ誘い込み、各個撃破するというわけか」
ガイウスが腕組みをして頷く。
だが、レンは首を横に振った。
「いや。撃破するだけじゃ足りない。……俺たちがやるのは、格の違いを見せつけることだ」
レンは悪戯っ子のような、しかし底冷えするほど冷徹な笑みを浮かべた。
「セドリックはプライドの塊だ。正面から正々堂々と挑んできた相手には強いが、予想外の事態や、自分が理解できない現象には脆い。……だから、あいつが一番嫌がる方法で歓迎してやる」
「一番嫌がる方法……ですか?」
リアが首を傾げる。
レンは懐から、天空の墓場で拾ったある「部品」を取り出し、テーブルの上で弄んだ。
「ああ。奴の自慢の聖剣も、王国の最新鋭艦隊も、ここでは何の役にも立たないと教えてやるんだ。……アイギス、地形データの解析は?」
『完了シテイマス、マスター。該当エリアニ、重力制御機雷ノ設置ポインターヲ設定。イツデモ罠ヲ張レマス』
「よし。バンバ、明日の朝食は少し遅らせてくれ。……勇者狩りの後で、祝勝会といこうぜ」
「ギャハハ! 合点だ! 最高のご馳走を用意して待ってるぜ!」
リベルタ・アークは速度を上げた。
極上の休息を終えた狼たちは、牙を研ぎ澄まし、獲物が罠にかかる瞬間を静かに待ち構える。
かつて世界を救うと謳われた勇者パーティと、世界に見捨てられた者たちの船。
両者が交錯する『竜の顎』にて、運命の歯車が大きく軋みを上げて回り出した。
そこで待っているのは、英雄譚の続きではない。
残酷なまでの現実と、真の実力者による教育的指導の時間だった。




