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第36話:鋼鉄の胃袋と、動き出す冷徹な歯車

 王都の煌びやかな夜景を遥か下方に置き去りにして、リベルタ号は夜霧の海を滑るように航行していた。

 船の外は氷点下の冷気と静寂に包まれているが、分厚い装甲の内側、食堂エリアだけは、火山の火口のような熱気と喧騒に支配されていた。


 それは、貴族たちの晩餐会で見せたような、腹の探り合いや見栄の張り合いなど微塵もない、純度百パーセントの食欲と歓喜の爆発だった。


「美味い! 美味すぎるぞ、これは!」


 食堂のテーブルを叩き割らんばかりの勢いで叫んだのは、留守番役だった元騎士団長、ガイウスだ。

 彼の手には、バンバが厨房から運び込んできた深淵猪のスペアリブが握られている。

 骨付きのまま豪快に炙られたその肉塊は、表面が飴色に輝き、齧り付くたびに熱々の肉汁が飛沫となって飛び散った。


「戦場で食う干し肉とは次元が違う! これこそが、命を賭して戦った者への最大の報酬だ!」


 ガイウスは涙すら浮かべながら、骨まで砕く勢いで肉を貪り食う。

 その横では、毒医者のヴァイスが、試験管とナイフを交互に操りながら、複雑な表情で皿と向き合っていた。


「……信じられん。深淵生物特有の神経毒が、熱変性によって極上の旨味成分に置換されている。これはもはや調理ではない、高度な化学実験だ」


 ヴァイスはぶつぶつと分析を続けていたが、その手は止まらず、次々と肉片を口へと運んでいる。

 彼の青白い顔に、心なしか生気が宿っているように見えた。


 そして、主役であるバンバは、厨房からさらに巨大な鍋を抱えて現れた。

 その顔は煤と油で汚れているが、満面の笑みは太陽のように輝いている。


「ギャハハハ! 食え食え! 貴族共に出したのは脂身の多いバラ肉だが、こっちは筋肉の締まった肩ロースだ! 噛みごたえと味の濃さはこっちが上だぜ!」


 バンバが鍋の中身を大皿にぶちまける。

 濃厚なソースの香りが、食堂の空気を塗り替える。

 キリルが皿を持って飛びつき、まだドレス姿のままのリアも、上品さを保ちつつも普段の倍のペースでフォークを動かしていた。


 レンは、その光景をグラス片手に少し離れた場所から眺めていた。

 彼のグラスに入っているのは、バルデルの会場から失敬してきた最高級のヴィンテージワインだ。

 だが、その芳醇な味よりも、目の前で仲間たちが笑い、食らいついている光景の方が、彼の心を深く満たしていた。


 孤独なFランクのゴミ拾いだった日々。

 冷たい雨に打たれ、泥水を啜って飢えを凌いだ夜。

 そのすべてが、今のこの瞬間に繋がっている。


「……悪くない景色だ」


 レンが独りごちてグラスを傾けた時、隣に柔らかな気配が寄り添った。

 リアだ。

 彼女はもう黄金の魔石を散りばめたドレスを脱ぎ、普段の実用的な服に着替えていたが、その表情はドレスを着ていた時よりもリラックスして輝いているように見えた。


「レンさん、食べないんですか? バンバさんが、船長のために一番いい部位を取っておいたって」


「ああ、後でいただくさ。今は腹一杯だ。……こいつらの顔を見ているだけでな」


 レンが視線でクルーたちを示すと、リアも嬉しそうに目を細めた。


「ふふ、そうですね。……私、こんなに温かい食事、初めてかもしれません。王宮の食卓はいつも冷たくて、味なんてしませんでしたから」


 リアの言葉に、レンは肩をすくめた。

 彼女もまた、機能美だけを求められ、人間としての温もりを奪われていた被害者だ。


「これからは毎日がこうだ。バンバがいる限り、味気ない栄養剤生活とはおさらばだぞ」


「はい! ……あ、でも、食費が心配ですね。あの人たちが本気で食べ始めたら、クジラ一頭でも足りない気がします」


 リアの冗談に、レンは声を上げて笑った。

 確かに、リベルタ号のエンゲル係数は爆発的に跳ね上がるだろう。

 だが、それならまた稼げばいい。

 世界にはまだ、誰も見つけていないお宝や、価値を見出されずに捨てられている素材が山ほど眠っているのだから。



 宴が一段落し、満腹になったクルーたちが各々の部屋へ戻り始めた頃。

 レンはバンバを連れて、厨房へと戻っていた。


「さて、バンバ。約束通り、お前の城を整えてやる」


 レンはレンチを片手に、殺風景なステンレスの厨房を見回した。

 元々が軍用艦の厨房だったため、機能的ではあるが、バンバのような荒々しい調理スタイルには手狭で、設備も貧弱すぎた。


「おう、頼むぜ船長! さっきのエンジン直結コンロも最高だったが、もっとこう、ド派手に火を使える焼き場が欲しいんだよ!」


「注文が多いな。……まあいい、素材はある」


 レンは、アイテムボックス代わりの袋から、双蛇会のアジトから回収したミスリル合金の扉や、ゴーレムの残骸である駆動パーツを取り出した。

 さらに、先ほどまで宴で使っていた深淵猪の巨大な大腿骨も素材として並べる。


「まずはコンロだ。エンジンの排熱だけじゃ温度調整が利かない。魔力制御弁を組み込んで、弱火から爆炎まで指一本で調整できるようにする」


 レンの手から青白い魔力が溢れ出す。

 クラフト・改造。

 硬質なミスリル合金が飴のように変形し、複雑な幾何学模様を描きながらコンロの形状へと再構築されていく。

 さらに、ゴーレムの駆動系を流用した自動鍋振り機や、深淵猪の骨を加工した断熱ハンドルが組み込まれる。


「すげえ……! 鉄が生き物みたいに動いてやがる!」


 バンバが目を丸くして感嘆の声を上げる。


「次は排気ダクトだ。お前の料理は煙がすごいからな。……リアの術式を刻印して、煙に含まれる油分と臭いを分解、再利用して燃料に変える循環システムにする」


 数十分後。

 そこには、スラムの廃材と最新鋭の魔導技術、そして深淵の素材が悪魔合体した、世界に一つだけの魔改造キッチンが完成していた。

 黒光りするボディに、深紅のラインが走るその威容は、厨房というよりは兵器の操縦席に近い。


「完成だ。名付けて『焦熱厨房ヘル・キッチンマークワン』」


「へっ、ヘル・キッチン……! 最高にイカした名前じゃねえか!」


 バンバは新しいコンロを愛おしそうに撫で回し、試しに火をつけた。

 ボッ! と音を立てて、青い炎が美しく揺らめく。


「ありがとうよ、船長。……俺、ここを死に場所にするつもりで腕を振るうぜ」


「死なれたら困る。美味い飯が食えなくなるからな」


 レンはニヤリと笑い、バンバの肩を叩いて厨房を後にした。

 これで、リベルタ号の衣食住は整った。

 空の覇者となるための基盤は、盤石なものとなりつつあった。



 しかし、光が強くなればなるほど、落ちる影もまた濃くなる。

 リベルタ号が勝利の美酒に酔いしれていた頃、王都アイギスの最上層、王宮の奥深くにある執務室では、氷のように冷たい空気が張り詰めていた。


 深夜にも関わらず、執務机に向かっていたのは、王国の実質的な支配者、大宰相バルカザールだ。

 彼の手元には、先ほどの晩餐会での騒動を記した報告書と、精神崩壊を起こして療養所へ送られたバルデル子爵に関する書類が置かれていた。


「……バルデルが、味覚で屈服させられた、か」


 バルカザールは独り言ち、万年筆を置いた。

 その鉄色の瞳には、怒りではなく、底知れない警戒色が宿っていた。

 以前、オズワルドが敗北した時は、単なる武力による敗北だった。

 だが、今回の件は意味が違う。


「武力だけでなく、文化においても貴族を凌駕した。……これは危険だ」


 バルカザールは立ち上がり、窓の外に広がる夜景を見下ろした。

 彼らが支配するこの王国は、絶対的なヒエラルキーによって成り立っている。

 上層は高貴で優れており、下層は野蛮で劣っている。

 その価値観こそが、民を統治する最大の鎖なのだ。


 だが、レンという存在は、その鎖を溶かそうとしている。

 ゴミ拾いが最強の船を造り、追放された料理人が最高級の美食を提供する。

 そんな事実が広まれば、民衆は気づいてしまう。

 自分たちが崇めていた上層の権威が、実は虚飾に過ぎないということに。


「レン。……貴様は単なる反逆者ではない。この国の秩序を蝕む猛毒だ」


 バルカザールは、机の引き出しから一枚のカードを取り出した。

 それは真っ白なカードで、中央に王家の紋章である剣と盾だけが銀色で箔押しされている。

 彼が魔力を流すと、カードの表面に文字が浮かび上がった。


『招集命令:白銀の騎士シルバー・ナイツ総長』


「……衛兵や近衛騎士では、もはや役不足だ。正規軍を動かせば、都に無用な混乱を招く」


 バルカザールはカードを握りしめ、冷徹に決断を下した。


「掃除の時間だ。……王国の闇を狩る処刑人たちよ。あの黒い船を、乗員ごと歴史から抹消せよ」


 執務室の影から、音もなく一人の人影が現れ、深々と頭を下げて消えた。

 それは、表の歴史には決して出てこない、王家直属の暗殺部隊への死刑執行命令だった。


 暴食の宴は終わった。

 次にリベルタ号を待ち受けるのは、空腹やプライドを賭けた戦いではない。

 国家という巨大なシステムが、本気で異物を排除しようとする、無慈悲な殲滅戦の幕開けだった。


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