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第35話:暴食の判決、舌の上で踊る革命

 爆風と共に吹き飛んだ巨大な扉の残骸が、磨き上げられた大理石の床に散らばる。

 会場を支配していた優雅なワルツは断ち切られ、代わりに支配したのは、脳髄を直接揺さぶるような、暴力的なまでに芳醇な「肉」の香りだった。


 それは、ただ肉を焼いた匂いではない。

 深淵の猛獣が持つ強烈な生命力と、それをねじ伏せるスパイスの刺激、そして焦げた醤油と果実酒が混ざり合った甘美なソースの香り。

 百合や薔薇の香水で塗り固められた貴族たちの嗅覚防壁など、紙切れのように突き破り、彼らの空っぽの胃袋を鷲掴みにした。


「な、なんだこの匂いは……!」

「唾液が、止まらない……?」


 悲鳴を上げて逃げようとしていた招待客たちの足が、見えない鎖に繋がれたように止まる。

 恐怖よりも先に、生物としての根源的な「飢え」が彼らの理性を侵食し始めていた。


 粉塵が晴れると、そこには異様な光景があった。

 会場の中央、砕け散った氷の彫刻の上に仁王立ちするのは、返り血のようにソースで汚れたコックコートを纏う巨漢、バンバだ。

 彼が押してきた巨大な銀のワゴンからは、煮えたぎる大鍋が灼熱の蒸気を噴き上げている。


「メインディッシュのお届けだ! 冷め切ったオードブルを突っつくのはそこまでにして、本物のメシを食らいやがれ!」


 バンバが吠える。その声は、かつて厨房を追い出された男の怨嗟ではなく、自身の腕一つで世界を屈服させんとする王者の咆哮だった。


「き、貴様ら……! 警備兵! 何をしている、早くこのドブネズミどもを殺せ!」


 バルデル子爵が、泡を飛ばして絶叫した。

 彼の顔は怒りで赤黒く変色し、首の血管が切れんばかりに膨れ上がっている。

 しかし、駆けつけた警備兵たちでさえ、剣を構えたまま困惑していた。

 彼らの鼻もまた、漂ってくる香りの虜になり、戦意を削がれていたからだ。


 その混乱の中心で、レンは悠然とグラスを掲げた。


「そう青筋を立てるな、バルデル。せっかくの晩餐会だ。余興が必要だろう?」


「余興だと? テロリストの分際で!」


「テロリストじゃない。俺たちは審査員だと言ったはずだ」


 レンはゆっくりとバルデルに歩み寄る。

 その隣には、夜の女王のようなドレスを纏ったリアが、影のように寄り添っている。

 彼女の冷徹な黄金の瞳に見据えられ、バルデルの隣にいたエリーシャは、蛇に睨まれた蛙のように身を縮こまらせた。


「バルデル、お前は自称・王都一の美食家だったな。ならば、その舌で確かめてみろ。お前が用意したこの冷え切ったパテと、俺のシェフが作った料理。どちらが客を満足させる価値があるかをな」


 レンが指差した先には、会場のテーブルに並べられた料理があった。

 見た目は美しい。金箔が振られ、宝石のように飾り付けられたオードブル。

 だが、それは時間が経って表面が乾き、脂が白く浮き始めている。

 味よりも「見栄え」と「保存性」を優先した、魂のない工業製品だ。


「馬鹿にするな! 私の専属シェフは、王宮御用達の三ツ星だぞ! スラムの残飯などと比較すること自体が冒涜だ!」


「なら、証明してみせろ。……それとも、怖いのか? 自分の舌が、実は何の価値も判断できない節穴だとバレるのが」


「なっ……!」


 レンの挑発は、バルデルの最も肥大化した急所――プライドを正確に貫いた。

 周囲の貴族たちが、ひそひそと囁き合う声が聞こえる。

 もしここで逃げれば、バルデルの美食家としての名声は地に落ちる。


「……いいだろう。その減らず口、二度と利けないようにしてやる。おい、皿を持ってこい!」


 バルデルが怒鳴る。

 勝負は成立した。


 バンバがニヤリと笑い、大鍋の蓋を開け放った。

 ボォォォォォン!

 白い湯気と共に、会場の温度が一気に数度上がったかのような熱気が溢れ出す。


「食らえ! 『深淵猪の皇帝角煮エンペラー・プレゼ』だ!」


 バンバがトングで掴み出したのは、漆黒の照りを帯びた巨大な肉塊だった。

 深淵猪のバラ肉。

 本来なら瘴気を含み、鋼鉄のように硬いはずのその肉が、バンバの超火力と特殊な調理法によって、箸で触れるだけで崩れるほどの柔らかさに変化している。


 リアが手際よく皿に盛り付け、バルデルとエリーシャの前に差し出した。

 その所作は優雅で、洗練されており、エリーシャの粗雑な態度とは比べ物にならない気品が漂っていた。


「……どうぞ。毒見は済んでおりますわ」


 リアの涼やかな声に、エリーシャは唇を噛み締めながら皿を睨みつけた。


「ふん、どうせ見た目だけよ。こんな黒い塊、泥の味がするに決まって……」


 エリーシャはフォークを突き刺し、肉を口に運んだ。

 そして、言葉を失った。


 カラン。

 彼女の手からフォークが滑り落ち、硬質な音を立てて床に転がる。


「……ぁ」


 エリーシャの瞳孔が開く。

 口の中で、肉が爆発した。

 噛む必要すらない。舌の上に乗せた瞬間、煮こぼれるほどの肉汁と共に繊維が解け、濃厚な脂の甘みが口内を埋め尽くす。

 深淵特有の野性味あふれる香りが鼻に抜けるが、それは臭みではなく、生命力そのもののエネルギーとなって脳髄を刺激した。


「な、なによこれ……熱い、熱いのに、止まらない……!」


 エリーシャは、はしたなくも手掴みで次の肉を口に放り込んだ。

 ドレスがソースで汚れるのも構わない。

 先ほどまでレンを罵っていた口は、今はただ快楽に震え、咀嚼することだけに専念している。


「馬鹿な……エリーシャ、何を浅ましい真似を……」


 バルデルが眉をひそめ、自分も一切れを口にした。

 瞬間、彼の肥満体が雷に打たれたように硬直した。


「ぶふぉっ!?」


 美味い。

 認めたくない。認められるはずがない。

 だが、この肉の前では、彼がこれまで食べてきた高級料理など、味のしないゴム屑のように思えた。

 八角に似たスパイスの香りが食欲中枢を破壊し、濃厚なソースが理性のタガを外していく。


「も、もう一切れ……いや、皿ごとよこせ!」


 バルデルが皿を奪い取るようにして貪り食う。

 その醜態を見た周囲の貴族たちも、もう我慢の限界だった。


「わ、私にも一口!」

「そっちのワゴンにある酒も美味そうだぞ!」

「金なら払う! その肉をくれ!」


 優雅な晩餐会は崩壊した。

 そこにあるのは、着飾った獣たちが餌を求めて群がる、飢餓の地獄絵図だった。

 バンバとキリルは、群がる貴族たちを相手に、次々と料理を配っていく。


 その狂乱を、レンは冷ややかに見下ろしていた。

 皿を舐めるように平らげ、呆然と座り込むバルデルとエリーシャの前に、彼は静かに立った。


「どうだ、バルデル。お前の三ツ星シェフの料理と比べて」


「……ぐ、ぬぅ……」


 バルデルは脂で汚れた口元をナプキンで拭い、悔しげに呻いた。

 味の敗北は明白だ。

 自分の体が、本能が、この料理を求めている事実を否定できない。


「……美味い。認めよう。この料理は、私の舌を満足させた」


「そうか。なら、教えてやろう」


 レンは、ワゴンの前に立つバンバを手招きした。

 巨漢の料理人は、不敵な笑みを浮かべてかつての雇い主を見下ろした。


「その料理を作ったのは、お前が『客に泥を食わせる気か』と言って店を潰し、追放した男。バンバだ」


「な……っ!?」


 バルデルが目を見開いてバンバを凝視する。

 見覚えのある顔。かつて自分がゴミのように切り捨てた料理人。


「そ、そんな……まさか……あの時の……」


「そして、お前が今、美味いと泣いて食っていたその肉。……それは、お前らが忌み嫌い、駆除対象としている深淵の魔物の肉だ」


 レンが追い討ちをかける。

 会場に静寂が走った。

 貴族たちが、口に入れたものを飲み込むことも吐き出すこともできず、青ざめた顔で固まる。


「し、深淵の……肉だと……?」


「そうだ。お前たちは今、ゴミ料理人の作ったゴミの肉に、我を忘れて喰らいついていたんだよ。滑稽だな、貴族の品格とやらは」


 レンの冷徹な宣告。

 それは、彼らの美食家としてのプライドだけでなく、人間としての尊厳をも根底から破壊する一撃だった。


「おぇぇぇっ!」


 エリーシャが口元を押さえて蹲る。

 だが、吐き出せない。

 体は正直にその「ゴミ」を栄養として吸収し、細胞が喜んでしまっているからだ。

 その矛盾と屈辱が、彼女の心をへし折っていく。


「あ、ありえない……私が、深淵の肉を……ゴミを美味しいと……」


 震えるエリーシャを見下ろし、リアが静かに告げた。


「素材に貴賤はありません。あるのは、それを扱う者の愛と技術、そしてそれを受け取る者の心の清濁だけです」


 リアの言葉は、かつて自分が「呪いの子」として捨てられた過去への答えでもあった。

 彼女はレンの隣に立ち、エリーシャに決定的な敗北を突きつける。

 美しさも、品格も、そして隣に立つパートナーへの信頼も。

 すべてにおいて、リアはエリーシャを凌駕していた。


「……行くぞ」


 レンは踵を返した。

 これ以上、敗者にかける言葉はない。

 バルデルは失禁しそうなほど震え、エリーシャは涙と脂で化粧を崩して泣き崩れている。

 その姿は、かつてレンを嘲笑った高慢な貴族と令嬢ではなく、ただの哀れな道化だった。


「ま、待て! レン!」


 背後から、エリーシャの縋るような声が聞こえた。


「わ、私が悪かったわ! あなたを見直した! ねえ、やり直しましょう? 私、やっぱりあなたが……」


 レンは振り返らなかった。

 ただ一言、背中越しに投げ捨てた。


「悪いが、俺は偏食家でね。……一度腐った果実は、二度と口にしない主義なんだ」


 キリルがウェイター用のトレイを回転させ、バンバが大鍋を担ぎ上げる。

 リベルタ号のクルーたちは、呆然とする貴族たちを残し、悠々と会場を後にした。

 後に残されたのは、空っぽになった鍋と、満たされない敗北感、そして生涯消えることのない「本物の味」の記憶だけだった。


 ホテルを出ると、夜風が火照った頬に心地よい。

 レンは大きく息を吸い込み、隣を歩くリアを見た。


「……よくやったな、リア。あの啖呵、痺れたぜ」


「レンさんこそ。……少し、スッキリしましたか?」


「ああ。胸のつかえが取れた気分だ。……それに、腹も減ったな」


 レンの腹が、タイミングよくグゥと鳴る。

 それにつられて、リアの腹も可愛らしい音を立てた。

 二人は顔を見合わせ、声を上げて笑った。


「バンバ! 船に戻ったら二次会だ! 俺たちにもあの肉を食わせろ!」


「おうよ! 貴族共にはもったいない極上の部位、ちゃんと残してあるぜ!」


 夜の王都を、漆黒の馬車が駆けていく。

 その中には、世界で一番美味い料理と、世界で一番自由な笑顔が溢れていた。


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