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第33話:深淵を纏う淑女と、狂乱の厨房

 スラムの餓狼街から連れ帰った暴食の料理人、バンバを乗せ、リベルタ号は再び廃棄区画の深い霧の中へと身を潜めていた。

 船のエンジンは静かに鼓動し、次なる出撃の時を待っている。

 だが、その船内はかつてないほどの熱気と、奇妙な活気に満ちていた。


 場所は、これまでただの栄養補給所としてしか機能していなかった食堂の奥、厨房エリアだ。


「ギャハハハ! なんだこのキッチンは! 火力が弱すぎるぜ!」


 バンバの怒号がステンレスの壁に反響する。

 彼は持ち込んだ巨大な中華鍋をコンロに据え付けると、満足できないといった様子で配管を睨みつけていた。

 彼が相手にしているのは、先日レンが深淵の浅層で回収した深淵猪のバラ肉だ。

 まな板の上に置かれたその肉塊は、切り離された今もなおドクンドクンと不気味に脈打ち、紫色の瘴気を立ち昇らせている。

 生半可な火力では、焼くどころか調理人が瘴気に当てられて昏倒するのがオチだろう。


「おい船長! もっと熱いのはねえのか! この肉はな、殺す気で焼かなきゃ旨くならねえんだよ!」


 バンバの要求に応え、レンが厨房の入り口から顔を覗かせた。

 彼は呆れたように肩をすくめながらも、指先から青白い魔力の糸を伸ばした。


「注文の多い料理人だな。……いいだろう。エンジンの排熱パイプを直結してやる」


 レンが壁に手を触れる。

 接着と改造の異能が発動し、壁の内部を走る配管が生き物のようにうねり、厨房のコンロへと新たなバイパスを形成した。

 深淵機関から生み出される規格外の熱エネルギーが、直接コンロへと流し込まれる。


 ボォォォォォォォッ!


 コンロから青を通り越して白く輝く炎が噴き上がった。

 鉄さえも瞬時に溶かすほどの超高温だ。


「ヒャハァ! これだ、これだよ! 最高だぜ!」


 バンバは狂気じみた笑みを浮かべ、その業火の中に中華鍋を突っ込んだ。

 ジュワアアアアアッ!

 深淵猪の肉が悲鳴のような音を立て、爆発的な脂の香りが充満する。

 それはただの料理ではない。

 食材と料理人の、命を懸けた格闘技だった。


「……野蛮な光景だ。だが、不思議と食欲を刺激する匂いだな」


 その様子を遠巻きに眺めていた船医のヴァイスが、興味深そうにメモを取っている。

 毒と薬の専門家である彼にとっても、猛毒の瘴気を旨味へと熱変換するバンバの技術は、研究対象として魅力的らしい。



 一方、船の居住区画の一室では、もう一つの戦いが行われていた。

 こちらは炎と油ではなく、絹と宝石の戦いだ。


 部屋の中央には、双蛇会のアジトから回収してきた数着のドレスが並べられている。

 どれも最高級のシルクやベルベットで作られた逸品だが、マフィアが貴族への賄賂や愛人のために用意していたものらしく、デザインがいささか派手で、品性に欠けるきらいがあった。


「うぅ……レンさん、本当にこれを着ていくんですか? 背中がすごく開いてますし、このリボン、大きすぎて歩きにくいです……」


 鏡の前で、リアが困惑した声を上げた。

 彼女が試着しているのは、真紅のドレスだ。

 確かに素材は良いが、胸元が大きく強調され、無駄なフリルが彼女の清楚な美しさを殺してしまっている。

 それはまるで、商品を豪華に見せるための包装紙のようだった。


 レンは腕を組み、冷ややかな目でその姿を評価した。


「却下だ。素材は悪くないが、仕立てた職人の腕が三流すぎる。着る人間の魅力を引き出すのではなく、ドレスの値段を主張しているだけだ」


 レンは近づき、リアの肩に触れた。

 その手つきは優しく、しかし職人の目線は鋭い。


「脱げとは言わない。……俺が直す」


「えっ? 直すって……ここでお裁縫をするんですか?」


「針と糸なんて面倒なものは使わない。俺のやり方でやる」


 レンは床に散らばっていた別のドレス――漆黒のシルクで作られた喪服に近い夜会服――を拾い上げると、それをリアが着ている真紅のドレスに重ね合わせた。

 そして、魔力を流し込む。


 クラフト・融合。


 レンの手の中で、二つの布地が分子レベルで解け合い、再構築されていく。

 派手すぎる赤は、黒と混ざり合うことで深みのあるワインレッドへと変貌し、無駄なフリルは消失して滑らかなラインを描くドレープとなった。

 さらにレンは、ポケットから取り出した小さな欠片――ワイバーンとの戦いで砕け散った黄金の魔石の破片――を、ドレスの胸元と裾に散りばめた。


 パシッ、パシッ。

 乾いた音と共に、魔石が布地に吸い込まれ、夜空の星のように微かな瞬きを放ち始める。


「……できたぞ。鏡を見てみろ」


 レンが離れると、リアはおそるおそる鏡を覗き込んだ。

 そこには、別人のような淑女が立っていた。


 深いワインレッドの生地は、リアの白磁のような肌を艶かしく引き立て、シンプルながらも計算されたシルエットが、彼女の華奢な体のラインを美しく浮かび上がらせている。

 そして何より、散りばめられた黄金の魔石が、彼女の瞳の色と共鳴し、見る者を吸い込むような神秘的な輝きを放っていた。

 それはもはや、呪われた魔女ではない。

 深淵の闇を纏い、夜を支配する女王の姿だった。


「こ、これが……私……?」


 リアは信じられないといった様子で、自分の頬に手を当てた。


「完璧だ。これなら、会場のどんな貴族の女よりも美しい」


 レンが断言する。

 その言葉に嘘やお世辞は一切ない。

 彼はただ、自分が手掛けた作品の完成度を評価しているだけだ。

 だが、その直球な言葉は、リアの顔をドレスと同じくらい赤く染めさせるには十分だった。


「あ、ありがとう……ございます。レンさんにそう言ってもらえるなら、私、どこへだって堂々と行けます」


 リアがはにかむように微笑む。

 その笑顔を見た時、レンの脳裏にふと、かつての記憶がよぎった。


 元恋人、エリーシャ。

 彼女はいつも、より高価で、より派手な宝石をねだった。

 レンが命がけで拾ってきた珍しい素材で作ったアクセサリーを渡しても、彼女は「地味ね」と鼻で笑い、バルデル子爵から贈られた大粒のダイヤの方を選んだ。

 彼女にとって価値があるのは、自分を高く見せるためのブランドだけであり、レンの技術や想いなど、Fランクのゴミでしかなかったのだ。


「……レンさん?」


 リアの心配そうな声で、レンは我に返った。


「いや、なんでもない。昔のつまらないガラクタを思い出していただけだ」


 レンは首を振り、鏡の中のリアと視線を合わせた。

 目の前にいる少女は、レンの技術を、レンの存在を、心から信じてくれている。

 ゴミとして捨てられた者同士。

 だからこそ、飾り立てられた虚構の美しさではなく、本質の輝きを知っている。


「行くぞ、リア。俺たちが一番輝いていることを、あの曇った目の連中に教えてやるんだ」


「はい!」



 数時間後。

 リベルタ号の甲板に、正装に身を包んだクルーたちが集結した。


 レンは、マフィアのボスが持っていたオーダーメイドの黒いスーツを自分サイズに改修して着こなしている。

 普段の作業着とは違う、洗練されたその姿は、冷徹な若き実業家のようにも見えた。

 隣には、夜の女王の如きドレスを纏ったリア。

 そして背後には、コックコートを筋肉で張り裂けんばかりに着込んだ巨漢バンバと、猫耳を隠すためにシルクハットを目深に被った給仕姿のキリルが控えている。


 ガイウスとヴァイスは船の守りだ。

 目立ちすぎる巨体の元騎士と、不気味すぎる毒医者は、パーティー会場には不向きという判断だった。


「準備はいいか、野郎ども」


 レンが問いかけると、バンバが巨大な保冷ケースを担ぎ上げてニヤリと笑った。


「おうよ。メインディッシュの仕込みは完璧だ。あの深淵猪、最高の焼き加減にしてやるぜ」


「招待状も偽造済みだニャ。……いや、偽造っていうか、本物をちょっと拝借しただけだけどニャ」


 キリルが懐から取り出した招待状には、しっかりとレンたちの偽名が記されていた。


 行き先は、上層第一区画にある高級ホテル、ロイヤル・アイギス。

 そこで今夜、バルデル子爵主催の晩餐会が開かれる。

 それは、弱者を食い物にして肥え太った豚たちが、己の虚栄心を満たすためだけの茶番劇だ。


「出航だ。……今夜の俺たちは、海賊じゃない」


 レンがリベルタ号のタラップを降り、夜の闇に溶け込む王都の石畳を踏みしめた。

 その瞳には、復讐の炎よりも暗く、冷たい光が宿っている。


「俺たちは審査員だ。バルデル、そしてエリーシャ。お前たちの人生に、最低の評価(Fランク)を下しに行ってやる」


 月光が雲に隠れ、街の明かりだけが煌々と輝く夜。

 ゴミ捨て場から這い上がってきた狼たちが、羊の皮を被り、華やかな宴へと足を踏み入れた。

 皿の上に載せられるのが、極上の料理か、それとも主催者の首か。

 それはまだ、誰も知らない。


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