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第32話:暴食の荒野にて

 王都の地下深くに広がるスラム街は、その深さと場所によって明確な階級と生態系が存在する。

 レンたちが拠点を置く廃棄区画が、物資も希望も流れ着かない最底辺の沈殿地だとすれば、西側に広がる通称、餓狼街は、暴力と食欲だけが支配する無法地帯だった。


 湿り気を帯びた石畳には、正体不明の動物の骨が散乱し、足を踏み出すたびに乾いた音が響く。

 路地の奥からは、どこからともなく強烈なクミンやコリアンダーのようなスパイスの香りと、腐臭ギリギリまで熟成された肉の匂いが混ざり合った、鼻腔を突き刺すような刺激臭が漂ってくる。


 建ち並ぶ店はどれも、廃材をトタンで継ぎ接ぎしただけの掘っ立て小屋ばかりだ。

 屋根からは常に脂ぎった煙が立ち昇り、地下の天井を灰色に染め上げている。

 ここでは、生きることは食うことと同義であり、弱者は強者の皿に乗るだけの存在でしかない。



 だが、その混沌とした一角からだけ、奇妙なほどに力強く、暴力的なまでに食欲をそそる芳香が噴き出していた。

 それは、焦げた醤油とニンニク、そして獣の脂が炭火で焼ける、抗いがたい魔性の香りだった。


「……ここか?」


 レンは足を止め、目の前の建物を仰ぎ見た。

 看板は半分焼け落ちて炭化しており、かろうじて『鉄板』という文字だけが読み取れる。

 入り口の扉はなく、代わりに長年の油煙で黒く変色した分厚い麻袋が、暖簾のように垂れ下がっていた。


「間違いないニャ。ここが『鉄板のバンバ』の店だニャ。スラムの住人でも、胃袋と肝っ玉に自信のある命知らずしか近づかない場所だがな」


 案内役のキリルが、鼻をひくつかせながら大きく頷いた。

 その隣で、リアは不安そうに眉をひそめていた。白いローブの裾を汚さないように引き上げながら、周囲を警戒している。

 彼女の王宮で培われた清潔な感覚からすれば、この店は飲食店というより、オークの解体処理場か、廃棄物処理施設のように見えたからだ。


 壁には正体不明の粘液が飛散した跡があり、地面は油で黒光りしている。

 とてもではないが、人間が食事をする環境には見えない。


「レンさん、本当にここに一流のシェフがいるんですか? 衛生局の役人が見たら、即刻営業停止にして、建物を焼き払いそうな雰囲気ですが……」


「衛生局の役人が来たら、鍋の具材にされそうな店構えだな。だが、匂いは本物だ」


 レンはニヤリと笑い、汚れた麻袋を乱暴に手で掻き分けて中へと足を踏み入れた。



 瞬間、熱波が顔を叩く。

 店内は、外見以上に混沌としていた。

 客席らしきものは、錆びたドラム缶や木箱をひっくり返しただけの簡素なものだ。

 壁には無数の包丁や肉切り斧が突き刺さり、天井からは干し肉となった巨大な魔物の足が、不気味なオブジェのようにぶら下がっている。


 そして、店の奥にある厨房からは、轟音と共に灼熱の炎が天井を舐めるほど高く噴き上がっていた。


「いらっしゃいませなんて言わねえぞ! 食いたくなきゃ帰れ!」


 雷鳴のような怒号が飛んできた。

 厨房に立っていたのは、巨岩のような男だった。


 身長は優に二メートルを超え、筋肉の鎧を纏った赤銅色の肌は、無数の切り傷と火傷の跡で覆われている。

 禿げ上がった頭には油染みたねじり鉢巻をし、手には身の丈ほどもある巨大な中華鍋を軽々と振るっていた。

 彼こそが、この店の主、バンバだ。


 レンは男の放つ圧倒的な威圧感にも怯むことなく、一番近くのドラム缶に腰を下ろした。

 鉄がきしむ音が静寂に響く。


「注文は?」


「あるもん全部だ。……ただし、俺たちを満足させられなかったら、金は払わん」


 レンの挑発的な言葉に、鍋を振るバンバの手がピタリと止まった。

 彼はゆっくりと首だけを回し、血走った眼球でレンを睨みつける。

 その圧力だけで、常人なら失禁しそうなほどの濃厚な殺気だ。

 だがレンは、退屈そうに肘をついてその視線を受け止めた。


「……上等だ、細身の兄ちゃん。貴族気取りの批評家ごっこか? 俺の料理を食って、二度と減らず口が叩けねえようにしてやるよ」


 バンバは中華鍋をコンロに叩きつけ、巨大な肉切り包丁を閃かせた。

 ドゴォ!

 彼がまな板の上に放り投げたのは、見たこともない異形の食材たちだった。


 毒々しい紫色の皮を持つ巨大な芋。

 全身が鋭利な棘で覆われた深海魚。

 そしてどう見てもスライムの死骸にしか見えない、緑色のゼラチン質の塊。


 どれも、上層の市場では「廃棄物」として捨てられるようなクズ食材ばかりだ。


「うっ……あれを、食べるんですか?」


 リアが顔を青ざめて口元を押さえる。

 だが、調理が始まった瞬間、その場の空気が一変した。



 ドォォォォン!


 バンバが包丁を振り下ろすたびに、食材が爆ぜるような音を立てて解体されていく。

 それは単なる力任せの破壊ではない。

 レンの目は見逃さなかった。その刃筋は、食材の繊維の流れ、骨格の構造、そして宿っている微弱な魔力の流れさえも見切っていた。


 紫色の芋は一瞬で黄金色の細切りになり、棘だらけの魚は皮と骨だけを綺麗に残して白身の山へと変わる。

 スライムの核を正確に抉り出し、可食部だけを瞬時に切り分ける手際は、熟練の外科医すら凌駕していた。


 そして、炎だ。

 バンバが鍋を振るうたびに、調味料と食材が空中で踊り、爆発的な化学反応を起こす。

 焦げた醤油の香ばしさ、数種類のスパイスの刺激、そして素材の持つ生命力が凝縮された濃厚な香りが、暴力的な質量を持って店内に充満した。

 それは食欲という本能を直接殴りつけてくるような、抗いがたい誘惑だった。


「食え! 『スラム流・魔獣のごったジャンク・シチュー』だ!」


 ドン、とテーブルに置かれたのは、洗面器のような巨大な皿に山盛りにされた料理だった。

 見た目は最悪に近い。色はどす黒く、具材の原形もわからないほど煮込まれている。

 だが、そこから立ち昇る湯気は、レンの胃袋を鷲掴みにした。


 レンは無言でスプーンを突き入れ、熱々の塊を口に運んだ。



 瞬間。

 脳髄を殴られたような衝撃が走った。


「……!」


 美味い。

 ただ美味いのではない。

 本来なら捨てられるはずの食材たちが、互いの欠点を補い合い、旨味の爆弾となって口の中で炸裂しているのだ。


 スライムのゼラチン質が溶け出して濃厚なコクを生み、棘魚の淡白な白身が強烈なスパイスの刺激を受け止め、芋の甘みが全体を優しく包み込む。

 泥臭さは微塵もなく、あるのは大地と海の生命力そのものだ。

 それは、計算され尽くした混沌の味だった。


 キリルも夢中で食らいつき、リアもおそるおそる口にした瞬間、目を見開いてスプーンを止まらなくさせている。


「どうだ兄ちゃん。文句があるなら言ってみろ」


 バンバが腕を組み、仁王立ちで見下ろす。

 レンはスプーンを止めず、皿の底が見えるまで一気に食べ尽くした。

 そして、満足げに息を吐き、口元を拭った。


「……文句はない。だが、質問がある」


 レンは空になった皿を指差した。


「あんた、なんでこんなゴミみたいな場所で燻ぶってる? これだけの腕があれば、上層のレストランでも料理長になれるはずだ。素材の魔力まで計算して火を入れる技術、そこらの三流魔導師より繊細だぞ」


 その言葉を聞いた瞬間、バンバの表情が険しく歪んだ。

 彼は足元のゴミ箱を蹴り飛ばし、吐き捨てるように言った。


「上層だ? 笑わせるな。あそこの連中は、料理なんて食っちゃいねえ。奴らが食ってるのは『値段』と『ブランド』だ」


 バンバは厨房の奥から、一枚の古ぼけた賞状を取り出し、レンの前に放り投げた。

 それは、かつて王都で開催された料理コンクールの優勝証明書だった。

 しかし、その上には赤いインクで『追放』という文字が乱雑に書き殴られている。


「俺はかつて、王都一番のレストランで働いていた。だが、ある日店に来た貴族が言いやがった。『この野菜は形が悪い』『安物の魚を使うな』とな」


 バンバの拳が怒りで震える。


「俺は反論した。形が悪くても、泥付きでも、その野菜は一番味が乗っていた。安物の魚でも、俺の火入れなら最高級の鯛に勝てると。……だが、その貴族は一口も食わずに皿を床にぶちまけ、俺の店を潰した。『客に泥を食わせる気か』とな」


 その貴族の名を、レンは聞くまでもなかった。

 料理人のプライドを踏みにじり、権力でねじ伏せる手口。

 そして何より、物の価値を見抜けない曇った眼。


「バルデル子爵、か」


 レンが呟くと、バンバの目が大きく見開かれた。


「……なんでその名を知っている」


「俺も同じだからだ。俺も、あいつに拾ってきた素材をゴミ扱いされた」


 レンは立ち上がり、バンバと真っ直ぐに向かい合った。

 身長差はあるが、その眼光の鋭さと、職人としての矜持は互角だ。

 レンは、懐からあの招待状を取り出し、油で汚れたカウンターの上に叩きつけた。


「バンバ。俺と一緒に来い。三日後、バルデルが主催する晩餐会がある」


「……は?」


「俺たちはそこに乗り込む。そして、お前の料理を、バルデルとその取り巻き共に無理やり食わせるんだ。奴らがゴミだと捨てた食材を使って、奴らの自慢のフルコースよりも遥かに美味いもんを作ってな」


 バンバは呆気にとられたように口を開けた。

 だが、次第にその口元が歪み、凶悪な笑みが浮かび上がってくる。

 その瞳に、消えかけていた情熱の炎が灯る。


「正気か? 指名手配犯が、貴族のパーティーに喧嘩を売りに行くってのか?」


「ああ。俺の船には、最高の食材と、最高の腹ペコたちが揃ってる。……足りないのは、それを料理できる最高のコックだけだ」


 レンは、アイテムボックス代わりの袋から、一つの包みを取り出した。

 ゴトリ、と重い音が響く。

 包みを解くと、中から現れたのは、どす黒く脈打つ肉塊――先日、深淵の浅層で回収した『深淵猪アビス・ボア』のバラ肉だった。

 常人なら瘴気に当てられて逃げ出すような代物だ。


「深淵の肉……!?」


 だが、バンバの反応は違った。

 彼はまるで長年探し求めた恋人を見るような熱っぽい瞳で肉塊を見つめ、震える手でその表面に触れた。


「すげえ……魔力が脂身の中で結晶化してやがる。こんな凶暴な肉、俺の火力じゃなきゃ焼き切れねえぞ……」


 バンバは肉塊を抱きしめ、天を仰いで高笑いした。


「ギャハハハハ! 気に入った! 上等だ、兄ちゃん! いや、船長ボス!」


 バンバは愛用の巨大中華鍋を背負い、包丁一本を腰に差した。

 その姿は、包丁を剣に持ち替えた戦士そのものだ。


「俺の名前はバンバ。ゴミを黄金に変える錬金術師だ。その喧嘩、俺が一番美味しく調理してやるよ!」


 こうして、リベルタ号に新たなクルーが加わった。

 繊細さとは無縁。

 だが、その腕と情熱は、深淵の闇さえも焼き尽くすほどの熱量を持った、暴食の料理人。


 レンたちは店を後にする。

 黒焦げの晩餐会はもう終わりだ。

 これより始まるのは、美食家たちの鼻を明かす、反逆のフルコースである。


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