第31話:黒焦げの晩餐会と、次なる航路
スラムの夜明けは遅い。
上層の貴族たちが朝日を浴びて優雅な朝食を摂る頃、地下の掃き溜めにはようやく薄灰色の光が、ひび割れた天井の隙間から滲み落ちてくる。
だが、今日の『蛇の穴』の朝は、いつもとは違う空気に包まれていた。
恐怖の象徴だった『双蛇会』が壊滅したという噂は、ドブネズミの足音よりも速く駆け巡り、虐げられてきた住人たちの目に微かな光を灯していたのだ。
地下街の外れにある古びた礼拝堂。
そこは、行き場のない孤児や病人を匿う、スラムに残された数少ない聖域の一つだった。
「……本当に行くのかい、キリル」
シワだらけの老婆、シスター・マーサが、心配そうにキリルを見上げる。
彼女の背後では、解放された獣人の子供たちが、配給された温かいスープと毛布に包まれ、泥のように眠っていた。
キリルは、レンたちと共に双蛇会の金庫から奪った金貨の入った革袋を、マーサの手に押し付けた。
ずしりとした重み。
それは、この孤児院が数年は食うに困らないほどの巨額だった。
「ああ。俺にはもう、帰る場所ができたからニャ」
キリルの視線は、礼拝堂の入り口で待つレンの背中に向けられていた。
その顔には、かつてのスラムの泥棒猫としての卑屈さはなく、一人の誇り高い船乗りとしての精悍さが宿っていた。
「キリル兄ちゃん……」
シスターのスカートの陰から、黒猫族の少女、ミーシャが顔を出した。
その瞳は潤んでいるが、もう昨夜のような絶望の色はない。
「また、会える?」
「会えるさ。俺は空の上にいる。いつかお前が空を見上げた時、一番高く、一番自由に飛んでる船があったら、それが俺たちの船だニャ」
キリルは屈み込み、ミーシャの頭をくしゃくしゃと撫でた。
そして、未練を断ち切るように立ち上がると、レンの元へと歩き出した。
レンは何も言わず、ただニヤリと笑ってキリルの肩を叩いた。
言葉はいらない。
泥と鉄の匂いが染み付いたその手こそが、彼らの契約書だった。
「行くぞ。……腹が減って死にそうだ」
「合点だニャ、船長(旦那)」
二人の影が、朝霧の中に消えていく。
その背中を、スラムの子供たちはいつまでも見送っていた。
***
リベルタ号に戻った一行を迎えたのは、留守番をしていたガイウスと、実験器具を磨いていたヴァイス、そしてようやく熱が下がったミリィだった。
格納庫には、双蛇会の倉庫から略奪してきた山のような戦利品が積まれている。
最高級の霜降り牛肉の塊、木箱入りの新鮮な野菜、年代物のワイン、そして様々な香辛料。
スラムの住人が一生かかっても拝めないような食材の宝庫だ。
「でかしたぞ、レン殿! これほどの兵糧があれば、向こう一ヶ月は戦える!」
ガイウスが肉の塊を見て、武人らしく目を輝かせた。
ミリィも、甘い果物の匂いに鼻をひくつかせ、嬉しそうにリアの袖を引いている。
「すごい……こんなご馳走、王宮でも見たことないよ」
「ええ。今日は祝勝会ですね。レンさん、盛大にやりましょう!」
リアも満面の笑みだ。
空気は最高潮。勝利の美酒に酔いしれる準備は整っていた。
しかし、彼らは致命的な見落としをしていた。
この船には、機械を直す天才も、人を斬る達人も、薬を作る鬼才も、船を操る名手もいる。
だが、「料理」ができる人間は一人もいないという事実に。
三十分後。
リベルタ号の食堂は、鼻を突く焦げ臭さと、不穏な紫色の蒸気に支配されていた。
「……おい。なんだこれは」
レンが、目の前の皿を見下ろして低い声を出した。
そこに乗っているのは、先ほどまでA5ランクの輝きを放っていた最高級牛肉の成れの果て――炭化して真っ黒になった「何か」だった。
「申し訳ない、レン殿。火力が……その、強すぎたようだ」
ガイウスが、煤で汚れた顔を拭いながら申し訳なさそうに言う。
彼は騎士団仕込みの野営料理しか知らなかった。
つまり、肉を剣に刺して、ドラゴンのブレス並みの火力で炙るだけの調理法だ。
結果、表面は炭になり、中は冷たい生肉という、咀嚼不可能な物体が生成された。
「栄養価の観点からは、私のスープの方が優れているな」
ヴァイスが、ビーカーに入った緑色のドロドロした液体を差し出した。
野菜と肉を薬品で溶解し、効率的に栄養を摂取できるようにした流動食だという。
だが、そこから立ち昇る気泡と酸味の強い臭いは、食欲という概念を根底から否定していた。
「……無理です。これ、食べたら死にます」
リアが涙目になりながら拒否する。
彼女自身も、ナイフで果物を剥こうとしたが、魔眼による精密動作を行いすぎた結果、皮と一緒に果肉まで削ぎ落としてしまい、皿の上には種と芯しか残っていなかった。
「キリル、お前は……」
「俺は生でも食えるから平気だニャ」
キリルだけは、生の肉に齧り付き、満足そうに喉を鳴らしている。
だが、人間(と元人間)たちにとって、この状況は地獄だった。
レンは、炭化した肉をナイフで突き、ため息をついた。
自分の手を見る。
この手は、どんなガラクタでも修復し、最強の兵器を作り出すことができる。
だが、繊細な火加減で肉汁を閉じ込めたり、ソースの味を調えたりすることはできない。
「接着」や「硬化」の能力は、料理においては何の役にも立たないのだ。
「……認めるしかないな」
レンが、フォークを置いた。
「俺たちの船は、戦闘力においては最強だ。だが、生活能力においては……Fランク以下だ」
全員が、無言で頷いた。
黄金の財宝も、最高級の食材も、それを活かす技術がなければただのゴミだ。
それは、レンが一番よく知っている真理のはずだった。
「コックが必要だ。それも、この深淵産の素材や、俺たちが持ち帰る未知の食材を扱える、超一流の料理人が」
レンの言葉に、リアがハッとしたように顔を上げた。
彼女は、戦利品の中に混じっていた一枚の封筒を思い出し、テーブルの上に広げた。
「レンさん、これを見てください。双蛇会の金庫にあったものです」
それは、厚手の高級紙に金箔で縁取りがされた、豪奢な招待状だった。
封蝋には、王都の名門貴族の紋章が押されている。
甘い香水の匂いが、焦げ臭い食堂に違和感たっぷりに漂った。
『親愛なる美食家の皆様へ。
王都復興支援チャリティー晩餐会へのご招待。
主催:バルデル子爵』
その名前を見た瞬間、レンの表情から感情が消えた。
食堂の空気が、一瞬で凍りつく。
「……バルデル、だと?」
レンの声には、先ほどまでの呆れた調子は微塵もない。
あるのは、深淵の底よりも冷たく、重い殺気だけだった。
「知っている男か、レン殿」
ガイウスが静かに問う。
レンは招待状を指先で弾き、唇を歪めた。
「ああ。よく知ってるさ。俺がFランクだとわかった途端、俺が命がけで拾ってきた素材をゴミだと鑑定して買い叩き、巨万の富を築いたクソ野郎だ」
レンの脳裏に、苦い記憶が蘇る。
雨の降る裏路地。
泥水をすすりながら、バルデルの馬車を見上げた日。
そして、その馬車の窓から、レンを嘲笑うように見下ろしていた、かつての恋人――エリーシャの顔。
「それに、こいつはただの美食家じゃない。自分の舌を満足させるためなら、優秀な料理人を誘拐同然に囲い込んだり、気に入らない店を権力で潰したりする害虫だ」
レンは椅子から立ち上がり、黒焦げの肉をゴミ箱へと放り投げた。
そして、招待状を強く握りしめる。
「決まりだ。次の目的地はこの晩餐会会場だ」
「で、ですがレンさん。私たちは指名手配中です。そんな華やかな場所に顔を出したら……」
「だからこそ行くんだよ、リア」
レンはニヤリと笑った。
その瞳には、獲物を追い詰める狩人の光が宿っている。
「双蛇会から奪った中には、貴族用の正装もあっただろう? それに、この招待状は『持参人一名様をご招待』だ。誰が持っていても構わない」
レンはキリルに向き直った。
「キリル、情報収集だ。このバルデルに店を潰されたり、恨みを持っている料理人がいないか探せ。……腕は超一流だが、性格に難ありで、今は路頭に迷っているような奴をな」
「そういう奴なら心当たりがあるニャ。……スラムの西区画に、最近流れ着いた偏屈な料理人がいるって噂だニャ。貴族の舌を『腐ってる』と罵倒して追放されたとか」
「最高だ。そいつをスカウトするぞ」
レンは、くしゃくしゃになった招待状をテーブルに叩きつけた。
「俺たちはこの晩餐会に、最高のコックを連れて乗り込む。そして、バルデルの自慢の料理をゴミ扱いし、奴の面子を丸潰れにしてやる」
レンは、食堂の窓から見える王都の輝きを睨み据えた。
「ついでに、俺の古傷の清算もさせてもらう。……待ってろよ、バルデル。それにエリーシャ。お前らが捨てた男が、どんなお土産を持って帰ってきたか、たっぷり味わわせてやるからな」
リベルタ号のエンジンが唸りを上げる。
食欲と復讐心。
二つの強烈な動機を燃料にして、漆黒の船は次なる戦場――煌びやかで残酷な、貴族たちの宴へと舵を切った。
だがその前に、まずは一人の偏屈な料理人を口説き落とさなければならない。
黒焦げの肉に別れを告げるため、英雄たちの新たなスカウトミッションが始まろうとしていた。




