第29話:泥棒猫の舞踏会
地下街の最奥に鎮座する『双蛇会』のアジトは、かつてこの地下水道網を管理していた巨大な浄水施設の廃墟を、悪意だけで塗り固めたような城塞だった。
剥き出しの鉄骨と分厚いコンクリートの壁は黒カビと錆に覆われ、まるで病んだ巨獣の内臓のようだ。
入り口には武装した見張りが四人、退屈そうに安タバコの紫煙をくゆらせている。
さらに建物の屋上には、軍の横流し品と思しき魔導探知機が回転し、周囲に不可視の波長を撒き散らしていた。
スラムの住人にとって、そこは近づくだけで命を吸われる死の領域だ。
だが、三日間まともな食事にありついていない今のレンたちにとっては、そこは単なる防犯装置付きの食料庫に過ぎなかった。
物陰から様子を窺うレンの隣で、リアがフードの下から黄金の瞳を光らせる。
その視線は、物理的な壁を超え、空間に張り巡らされた術式の網目を冷徹に解剖していた。
「解析、終了しました。建物の周囲に三層の警報結界が張られています。侵入者の魔力反応を感知し、即座に中の構成員全員の端末へ通知を送る仕組みです。……随分と、臆病な鍵ですね」
リアの声は静かだが、そこには王宮魔導師団の旗艦すら沈めた者特有の、圧倒的な自負が滲んでいる。
スラムのマフィアが闇市で買い集めた程度の結界など、彼女にとっては子供の落書きのようなものだった。
「解除できるか」
「造作もありません。……瞬きする間に終わらせます」
リアが白く細い指先を虚空で弾く。
パチン。
乾いた音が淀んだ闇に溶けると同時に、屋上の探知機から発せられていた魔力の唸りが、ふつりと途絶えた。
まるで蜘蛛の巣を焼き払うかのように、リアの放った干渉波が結界の結び目を焼き切ったのだ。
見張りたちは何も気づいていない。あくびを噛み殺し、品のない笑い声を上げているだけだ。
「セキュリティは死んだ。次は、お前の番だぞ、泥棒猫」
レンが足元の影に声をかける。
そこには、四肢を地面につけ、全身のバネを極限まで圧縮したキリルがいた。
先ほどまでの涙の跡はもう乾いている。
今の彼の目に宿っているのは、獲物の喉笛だけを見据える捕食者の、凍てつくような光だけだ。
「……任せるニャ。音も無く、影も残さず、あいつらの牙だけを抜いてやるニャ」
風が吹いた。
そう錯覚するほどの速度で、キリルの姿が掻き消えた。
それは魔法による転移ではない。純粋な脚力と、空気抵抗すら味方につける獣人族特有の体術が生み出す、神速の隠密行動だった。
見張りの男の一人が、ふと首筋に違和感を覚えて手をやった。
無い。
首から下げていた、仲間を呼ぶための警報笛が無い。
男は首を傾げ、慌てて腰のホルスターに手を伸ばした。
そこにあるはずの魔導銃の冷たい感触を求めて。
だが、指先が掴んだのは虚空だった。
ホルスターは、羽毛のように軽くなっていた。
「あ、あれ? 俺の銃……どこに……」
隣の仲間に声をかけようとして、男は絶句した。
仲間の腰からも、背負っていた剣からも、武器という武器が消失している。
彼らの足元には、いつの間にか黒い疾風が通り過ぎたような、微かな砂埃だけが残っていた。
「な、何だ!? 敵襲か!? いや、何も見えなかったぞ!」
男が叫ぼうと息を吸い込んだ、その瞬間。
闇の中からぬっと現れたレンの手が、男の顔面を鷲掴みにした。
万力のような握力が、男の顎骨をきしませ、悲鳴を喉の奥へ押し戻す。
「静かにしろ。まだ開店前だ」
ドゴォォォォン。
レンは男の顔面を地面に叩きつけると同時に、その衝撃を利用して、両隣の男たちの足元へ掌を向けた。
接着。
レンの異能が発動し、地面の瓦礫と、男たちが履いている軍用ブーツの底を一瞬で分子レベルまで融合させる。
「う、動けねえ!?」
「足が……地面に吸い付いてやがる! なんだこの魔法は!」
パニックに陥り、その場でもがく見張りたちの間を、再びキリルが疾風のように駆け抜けた。
その拳が、的確に男たちの顎と鳩尾を打ち抜いていく。
一撃必殺。
武器を持たない素手の格闘戦において、怒りに燃える獣人族の身体能力は、鍛えていない人間を遥かに凌駕する。
数秒後、入り口には白目を剥いて倒れ伏す男たちと、地面と一体化したまま気絶して彫像のようになった男たちの山が築かれていた。
「掃除完了だニャ」
キリルが、奪い取った大量の銃と剣を地面に放り捨てる。
カランカランと乾いた音が響く。
レンは満足げに頷き、アジトの入り口を塞ぐ分厚い鉄扉の前に立った。
「よし。じゃあ、まずは腹ごしらえといくか」
レンが鉄扉に手を触れる。
鍵穴など探さない。
彼の能力にとって、扉と壁の区別など存在しないからだ。
ギギギ、ガコン。
不快な金属音が響き、鉄扉の蝶番が飴細工のようにねじ切れ、重厚な扉そのものが枠から外れ落ちた。
中へ足を踏み入れると、そこは広大な倉庫エリアだった。
壁際には略奪品が入った木箱が山積みになっている。
レンが手近な箱を背負っていたレンチでこじ開けると、そこには塩漬けにされた最高級の牛肉や、木屑に包まれた新鮮な果物、そして王宮のラベルが貼られた年代物のワインが詰まっていた。
むせ返るような芳醇な香りが、空っぽの胃袋を強烈に刺激する。
「大当たりだ。こいつら、王都の食糧難なんてどこ吹く風で肥え太ってやがったな」
レンはワインボトルを一本抜き取り、コルクを指で押し込んでラッパ飲みした。
行儀など知ったことか。
芳醇な液体が喉を潤し、空腹で荒んでいた神経を鎮めていく。
それは、ただの水分補給にしてはあまりにも贅沢で、そして背徳的な味がした。
「リア、キリル。食えるだけ食っておけ。……ここから先は、少し運動が激しくなるぞ」
レンは肉の塊をキリルに放り投げた。
キリルはそれを受け取ると、包装紙ごと豪快に齧り付く。
鋭い牙が肉を裂き、肉汁が口元を汚す。
「……美味いニャ。久しぶりに、まともな肉の味がするニャ」
咀嚼しながら、キリルの視線は一瞬たりとも揺らがなかった。
倉庫の奥、厳重に閉ざされたさらに向こうの扉を睨みつけている。
そこから、微かに同胞たちの獣の臭いと、饐えた恐怖の匂いが漂ってくるのを、彼の鼻は敏感に感じ取っていた。
「あっちだニャ。ミーシャたちの匂いがする」
「ああ。ついでに、腐りきった金の匂いもな」
レンはワインを飲み干すと、空き瓶を壁に叩きつけて割った。
鋭利なガラス片が床に散らばり、キラキラと光る。
その破片一つ一つが、これから始まる暴力の予兆だった。
「さて、腹も満たしたことだ。……パーティーの時間だぞ、野郎ども」
その時、倉庫の奥の扉が開き、ようやく異変に気づいた武装した構成員たちが雪崩れ込んできた。
「貴様ら何者だ! ここを双蛇会と知っての狼藉か!」
「殺せ! 生かして帰すな!」
数十人の男たちが、魔導銃を一斉に構え、殺意に満ちた銃口を向ける。
だが、レンは不敵に笑い、足元に転がるガラクタ――空になった木箱や、先ほどねじ切った鉄扉の蝶番――に魔力を流し込んだ。
「狼藉? 違うな。これは資源回収だ」
レンの手が閃く。
瞬間、周囲のガラクタたちが意思を持ったように弾け飛び、空中で結合した。
木材と鉄塊が複雑に絡み合い、即席の巨大な防壁となってレンたちの前に立ちはだかる。
放たれた銃弾や魔法がその盾に当たり、火花を散らして弾かれた。
「なっ……魔法が効かないだと!? なんだあの盾は!」
「隙だらけだニャ!」
動揺する男たちの頭上から、キリルが降ってくる。
壁を蹴り、天井の配管を伝って移動する彼は、重力を無視した三次元的な軌道で敵を翻弄した。
暗闇で光る猫の瞳が、軌跡となって残る。
その爪が閃くたびに、男たちの武器が弾き飛ばされ、悲鳴が上がる。
リアもまた、後方から冷静に援護射撃を行う。
彼女の指先から放たれるのは、派手な攻撃魔法ではない。
敵の魔導銃の内部回路に干渉し、暴発を誘発させる、緻密かつ悪質なジャミング波だ。
「ギャアアッ! 銃が……熱暴走した!?」
「俺の足が……勝手に動かねえ! 魔力回路が狂わされてる!」
阿鼻叫喚の地獄絵図。
Fランクの船長と、捨てられた魔女、そしてこそ泥と呼ばれた猫。
たった三人の侵入者によって、スラム最強と恐れられた双蛇会の精鋭部隊は、文字通り手も足も出ずに蹂躙されていく。
レンは倒れ伏す敵の山を平然と踏み越え、奥の扉へと歩を進めた。
その背中には、一切の慈悲も迷いもない。
その先にあるのは、人身売買のオークション会場。
そして、この腐った組織を束ねる元凶がいる場所だ。
「さあ、会計の時間だ。……高くつくぞ」
レンがレンチを振り上げ、最後の扉を粉砕した。
舞い上がる粉塵の向こうから、まばゆい照明と、着飾った豚のような富裕層たちの驚愕の視線が突き刺さる。
いよいよ、メインイベントの幕開けだ。




