第28話:鎖に繋がれた同胞
地下へと続く長い梯子を降りるにつれ、空気は重く、湿り気を帯びていった。
腐った水と安酒、そして焦げた脂の臭いが混ざり合った、スラム特有の芳香。
上層の住人が嗅げば卒倒するようなその悪臭も、レンにとってはどこか懐かしい実家の匂いのようなものだった。
地下街、通称『蛇の穴』。
王都の地下水道と廃棄区画が複雑に絡み合ってできたこの場所は、正規の地図には存在しない。
ここにあるのは、盗品、禁制品、そして行き場を失った者たちだけだ。
「……賑やかですね」
リアが、フードを深く被り直しながら囁く。
彼女の視線の先には、薄暗い通路の両脇に並ぶ無数の露店と、そこを行き交う怪しげな人影があった。
魔導ランプの明滅する光の下、ゴブリンの牙や出所不明の魔導具、さらには見るからに毒々しい色の薬瓶が売買されている。
「スリと強盗には気をつけろよ。ここでは、よそ見をしている奴から死んでいく」
レンは鋭い視線で周囲を威圧しながら、人混みをかき分けて進む。
彼の背中には、布で包んだだけの解体用大型レンチが背負われている。剣や杖ではなく、あえて鈍器を見せつけることで、スラムの住人たちに手慣れた同業者であることをアピールしているのだ。
キリルは無言だった。
いつもなら尻尾を立てて軽口を叩く彼が、今はレンの影に隠れるようにして、周囲を警戒している。
その猫耳はぺたりと伏せられ、小刻みに震えていた。
「おい、そこの兄ちゃん! 上物が入ってるぞ! 深淵近くで捕れたリザードマンの燻製だ!」
ダミ声の男が、店先から声をかけてくる。
レンは足を止め、店先に吊るされた干し肉を指先で弾いた。
「保存状態が悪い。脂が酸化してやがる。こんなもん食ったら腹を下すぞ」
「あぁ!? なんだと、てめぇ……」
店主が凄もうとした瞬間、レンは懐から一枚の硬貨――ワイバーンの討伐で手に入れた魔石の欠片――を弾いて渡した。
「口止め料だ。まともな肉がある店を教えろ。……毒抜き済みのやつな」
店主は魔石を受け取ると、急に愛想笑いを浮かべた。
「へへっ、旦那はお目が高い。……ここを真っ直ぐ行って突き当たりだ。『赤鬼の店』なら、地上の貴族も隠れて買いに来る極上品があるぜ」
レンたちは言われた通り、路地の奥へと進んだ。
突き当たりには、巨大なオークの頭蓋骨を看板にした店があった。
中から漂ってくるのは、確かにまともな肉の焼ける匂いだ。
「助かった……これでようやく、ゴムの味以外のアリツケる」
レンが安堵の息を漏らそうとした、その時だ。
バシッ。
乾いた音が、店の奥から響いた。
続いて、幼い悲鳴と、鎖が擦れるジャラジャラという音が聞こえてくる。
「何をやっている! 商品を傷つけるなと言っただろう!」
怒鳴り声と共に、店の裏口から数人の男たちが現れた。
彼らは大きな檻を台車に乗せて運んでいる。
レンたちの目の前を横切ろうとしたその檻の中を見て、リアが息を呑んだ。
「……っ!」
檻の中に詰め込まれていたのは、獣人族の子供たちだった。
犬の耳を持つ少年、ウサギの耳を持つ少女。
彼らは薄汚れたボロ布一枚を纏い、首と手足には重い鉄の首輪が嵌められている。
その肌には、鞭で打たれたような新しい傷跡が赤く滲んでいた。
そして、檻の隅に、一際小さな影があった。
黒い猫の耳と、恐怖で縮こまった細い尻尾。
キリルと同じ、猫人族の少女だ。
「……ミ、ーシャ……?」
キリルの口から、信じられないものを見るような声が漏れた。
その声に反応して、檻の中の少女が顔を上げる。
虚ろだった瞳が、キリルの姿を捉えた瞬間、わずかに見開かれた。
「キリル……兄ちゃん……?」
少女が檻の格子に縋り付こうとする。
だが、見張り番の男が、無慈悲に警棒で格子を叩いた。
「おい、商品が騒ぐんじゃねえ! これからオークションなんだよ!」
男が少女を蹴り飛ばす。
キリルの全身の毛が逆立ち、喉から獣の唸り声が漏れた。
「てめぇら……!」
キリルが飛び出そうとする。
だが、その肩を、レンの手が強く掴んで制止した。
「離すニャ、旦那! あれは……あれは俺の妹分だニャ! 俺がスラムを出る時、守ってやれなかった……!」
「落ち着け。今飛び込んでも、お前がハチの巣にされて終わりだ」
レンの声は冷静だったが、その目は笑っていなかった。
レンは素早く視線を走らせる。
男たちの装備。腰に下げた魔導銃。そして、彼らが着ているベストの胸に刻まれた紋章――絡み合う二匹の蛇。
「『双蛇会』か。……人身売買と違法薬物で肥え太ってる害虫共だな」
レンは暴れるキリルを強引に引き寄せ、物陰へと身を隠した。
男たちは檻を運びながら、下卑た笑い声を上げている。
「今回は豊作だぜ。特にあの猫族のガキは、上玉だ。変態貴族共が高値をつけるぞ」
「へへっ、売り上げで今夜は豪遊だな」
遠ざかる檻を見送りながら、レンは静かにキリルの肩から手を離した。
キリルは地面に爪を立て、悔し涙を流して震えている。
「……旦那。頼むニャ。肉なんてどうでもいい。……俺に、力を貸してくれニャいか」
キリルが、地面に額を擦り付けるようにして懇願する。
「俺の金なんて、全部やる。これからの報酬もいらニャい。命だってくれてやる。だから……あいつらを、ミーシャを……!」
レンは、キリルの泥だらけの頭を見下ろし、ため息をついた。
そして、空腹で鳴る腹をさすりながら、ニヤリと凶悪な笑みを浮かべた。
「勘違いするなよ、キリル。俺は腹が減ってるんだ」
レンの視線は、『双蛇会』の男たちが消えていった闇の奥、巨大な倉庫のような建物を捉えていた。
「あいつら、売り上げで豪遊って言ったな? つまり、あのアジトには、売るほどの上等な食料と、腐るほどの金があるってことだ」
レンは背負っていたレンチを握り直し、その冷たい金属の感触を確かめる。
「俺たちの晩飯は、あそこで調達するぞ。……ついでに、食後の運動として害虫駆除だ。スラムのゴミ掃除は、俺の本職だからな」
リアも、フードの下で黄金の瞳を怒りに燃え上がらせていた。
彼女にとって、檻に閉じ込められる恐怖は、誰よりも理解できる痛みだったからだ。
「行きましょう、レンさん。……あんな檻、私の魔眼で全部解錠してみせます」
「決まりだな。キリル、案内しろ。今日は泥棒猫の本領発揮だろ?」
キリルは涙を拭い、鋭い牙を剥き出しにして立ち上がった。
「……合点だニャ、旦那! あいつらの金庫もプライドも、一欠片残さず盗み尽くしてやるニャ!」
食料調達の予定は変更された。
今夜のメニューは、悪党たちの絶望を添えた、フルコースの略奪劇だ。




