第27話:腹が減ったらなんとやら
アイギスの空を焦がした決戦から、三日が過ぎた。
リベルタ号は、王都の監視網を逃れるため、スラム街の中でも特に雲霧の濃い「廃棄区画」の谷間に身を潜めていた。
甲板には、戦いの爪痕である煤や傷が残っているものの、船体そのものは驚異的な速度で自己修復を続けている。
深淵エンジンの鼓動は静かで、船内には穏やかな時間が流れている――はずだった。
グゥゥゥゥゥ……。
船のエンジン音よりも大きく、情けない音が食堂に響き渡った。
テーブルに突っ伏しているのは、リベルタ号の誇る操舵手、キリルだ。
彼の猫耳は力なく垂れ下がり、尻尾はピクリとも動かない。
「……旦那ぁ。もう無理だニャ。目が回るニャ……」
「我慢しろ。あと数時間の辛抱だ」
向かいに座るレンもまた、眉間に深い皺を刻んで腕を組んでいた。
その顔色は優れない。
王宮魔導師団を壊滅させた英雄の威厳はどこへやら、現在のレンたちが直面しているのは、国家権力よりも恐ろしい「飢餓」という現実だった。
原因は明白だ。
先日の決戦で、ヴァイスの化学兵器やリアの魔力回復のために、備蓄していた食料と嗜好品のほとんどを消費してしまったのだ。
特に、ヴァイスが調合した「魔力回復スープ」の材料費(食費)が莫大だった。
「非効率だな」
そのヴァイスが、白衣のポケットから乾パンを取り出し、齧りながら現れた。
彼だけは平然としている。
「人間というのは燃費が悪い。これだけの戦闘能力を持ちながら、定期的に有機物を摂取しなければ稼働停止するとは。……ほら、船長。私の非常食を少し分けてやろう。味は泥とゴムを混ぜたようなものだが、カロリーだけは保証する」
「……遠慮しておく。それを食うくらいなら、自分の靴を煮て食った方がマシだ」
レンは毒医者の差し入れを拒絶した。
ヴァイスの作る「栄養剤」は、確かに効くが、人間の尊厳を代償にする味がする。
その時、医務室からリアが出てきた。
まだ包帯は残っているが、その足取りはしっかりしている。
彼女の手には、少し干からびたリンゴが二つ乗った皿があった。
「あの……レンさん、キリルちゃん。これ、ミリィが食べてって……」
リアが申し訳なさそうに差し出す。
それは、救出したミリィのために取っておいた、虎の子の果物だった。
「いらん。病人に食わせろ」
「でも、レンさんが倒れたら、誰が船を動かすんですか」
リアは譲らない。
その瞳は、かつての怯えたものではなく、航海士としての責任感に満ちている。
ガイウスも、船の隅で剣の手入れをしながら、重々しく頷いた。
「主よ、兵站は戦の要。……とは言え、私の故郷の騎士団でも、ここまで酷い欠乏は経験がないが」
ガイウスでさえ、その巨体が心なしか小さく見える。
レンは天を仰いだ。
金はある。
オズワルドの旗艦から剥ぎ取った装甲や、撃墜したグリフォンの魔石を回収してあるからだ。
だが、ここは王都の直下。
レンたちは現在、一千万ゴールドの賞金首だ。
うかつに表の市場に顔を出せば、すぐに通報されて軍隊が囲んでくるだろう。
「……仕方ねえ。キリル、生きてるか」
「死ぬ寸前だニャ……」
「スラムの『底』へ行くぞ。……お前の古巣なら、賞金首でも肉が買える闇市があるだろう?」
レンの言葉に、キリルの猫耳がピクリと反応した。
彼はのっそりと顔を上げ、少し複雑そうな表情でレンを見る。
「……『蛇の穴』のことかニャ?」
「ああ。あそこなら、王宮の憲兵も寄り付かない無法地帯だ。金さえ積めば、飛竜の肉だって手に入る」
キリルは少し躊躇した後、覚悟を決めたように立ち上がり、垂れた耳をパンと叩いた。
「わかったニャ。……でも旦那、あそこは俺たち猫人族にとっちゃ、あんまりいい場所じゃないニャ。タチの悪い連中が仕切ってるから、気をつけるニャよ」
「上等だ。オズワルドよりタチが悪い奴なんて、そうそういないだろうよ」
レンは立ち上がり、コートを羽織った。
その背中には、空腹の苛立ちと、久々の「狩り」への予感が漂っている。
「留守番はガイウスとヴァイスだ。船とミリィを守れ。……リア、お前も来い。新しい服と、美味い飯を食わせてやる」
「はいっ!」
リアが嬉しそうに返事をする。
一行はリベルタ号を隠蔽魔法で霧に溶け込ませると、スラム街のさらに奥深く、光の届かない地下層へと続く錆びた梯子を降りていった。
そこは、王都の廃棄物が最後に流れ着く場所。
そして、キリルがかつて「泥棒猫」として這いずり回っていた、因縁の故郷でもあった。
空腹の英雄たちはまだ知らない。
肉を買いに行くだけのつもりが、この地下街に巣食う、王宮よりも腐敗した「闇」と対峙することになる未来を。




