第24話:壊れるほどに
視界が真っ赤に染まっていく。
それが、リベルタ号を包む爆炎のせいなのか、それとも限界を超えて酷使された網膜から溢れ出した血のせいなのか、リアにはもう判別がつかなかった。
黄金の旗艦オーリオールは、眼前で狂ったように光り輝いている。
王宮筆頭魔導師オズワルドが掲げる杖の先には、おぞましいほどの魔力が収束していた。
それは、この空域に存在するすべての生命を塵へと変える戦略級魔法、終焉の劫火。
そしてその輝きは、カプセルの中で死を待つ少女、ミリィの命そのものを削り取って生み出されたものだった。
「ああ、ミリィ……ミリィ……!」
リアの喉から、血の混じった悲鳴が漏れる。
バイザー越しに見える世界は、無数の術式と魔力の奔流によって埋め尽くされていた。
かつてリアを忌み子と呼び、ゴミのように捨てた魔導師団の技術。
そのすべてが、今はミリィを殺すための刃となって彼女の細い肢体に食い込んでいる。
助けたい。
その一念だけが、リアの崩れかけた意識を繋ぎ止めていた。
だが、オズワルドが展開した防御結界はあまりにも強固だ。
リベルタ号の主砲でも、ガイウスの剣でも、あの厚い壁を破ってミリィに届くには時間が足りない。
魔法が発動すれば、その反動でミリィの魔力回路は内側から破裂し、形も残らず消え去るだろう。
「……私の、目なら」
リアは、奥歯が砕けるほどに噛み締めた。
黄金の瞳が、さらに激しく、不気味なほどの輝きを放ち始める。
レンズ加工機を組み込んだバイザーが、過負荷によってバチバチと火花を散らし、焦げた絶縁材の臭いが鼻を突いた。
魔力を乱す呪い。
世界を壊すための瞳。
それを、今この瞬間にだけは、誰かを守るための力に変えてみせる。
リアは、自分自身の脳を演算機として、オーリオールの結界を構成する数千万の数式を強引に解読し始めた。
熱い。
頭蓋の内側を、熱した鉄でかき回されているような激痛が走る。
脳が焼ける。神経が千切れる。
それでもリアは、その黄金の視線を一点から逸らさなかった。
「リア、やめろ! それ以上は脳が焼き切れる!」
伝声管から響くレンの怒声。
だが、リアにはもう、その声すらも遠い霧の向こうからのようにしか聞こえなかった。
ミリィ。
泣き虫で、優しくて、いつもリアの背中を追いかけてきた、たった一人の妹。
あの子がいない世界に、自分の居場所なんて必要ない。
私がゴミなら、ゴミらしく、この命を全部使い切ってあの子を救ってやる。
「……出力……限界突破……!」
リアが叫ぶと同時に、彼女の瞳から流れる血が、頬を伝って顎から滴り落ちた。
黄金の光が、もはや物理的な質量を持って船内に溢れ出す。
リベルタ号の計器がすべて逆回転を始め、制御不能の警告音が狂ったように鳴り響いた。
目の前の結界が、紙細工のように綻び始める。
解ける。あと少し、あと一秒、この視界を維持できれば。
だが、リアの意識は急速に闇へと沈もうとしていた。
指先の感覚が消え、光が白く飛び、何もかもが遠ざかっていく。
ああ、ここまでか。
最後に見たあの子の顔が、絶望に満ちたものだったことが、ただ悲しい。
せめて最後くらい、綺麗だと言ってくれたこの瞳で、あの子に笑顔を見せてあげたかった。
深い闇の底へ落ちていこうとしたその時。
ガッ。
背中から、暴力的なまでの力強さで抱きしめられた。
「……勝手に壊れるなと言ったはずだ、この馬鹿野郎」
耳元で響いたのは、震えるほどに低い、レンの声だった。
リアの身体を包み込んだのは、鉄とオイル、そして深淵の冷気が混じった、レン特有の匂い。
「レン、さん……離して……私は、あの子を……」
「黙ってろ。お前一人の脳みそで足りないなら、このリベルタ号の演算システムを全部使え。俺のクラフトが、お前の神経とこの船を繋いでやる」
レンの手が、リアの頭と、操舵パネルの基盤を同時に掴んだ。
レンの異能、接着。
それはただの修理術ではない。異なる存在、相容れない物質同士を、魂のレベルで強引に一つに纏め上げる、究極の統合術。
リアの脳内に、リベルタ号の心臓部である深淵エンジンの鼓動が直接流れ込んできた。
熱い。だが、それは先ほどまでの破壊的な痛みではない。
自分を支え、押し上げ、守ってくれる、巨大な意思の塊だ。
「一人で死んでいくのがお前の『習性』なら、そんなもん、俺が今ここでスクラップにしてやる」
レンの魔力が、リアの神経系を補強するように這い回り、焼き切れかけていた回路を強引に修復していく。
リアは、レンの腕の中に自分のすべてを預けた。
レンの鼓動と、自分の鼓動が重なり合う。
レンの見ている景色と、自分の見ている景色が溶け合う。
「……行けるニャアアアッ!」
階下から、キリルの叫び声が聞こえる。
リベルタ号は、リアとレンが作り出した魔力の回廊を突き抜け、オーリオールの結界を真っ向から突き破った。
ガイウスが甲板から跳躍し、ミリィを閉じ込めているカプセルを巨剣で一刀両断する。
砕け散る水晶。
放り出された小さな体を、ガイウスの強靭な腕が優しく受け止めた。
「確保した! レン殿!」
その報告を聞いた瞬間、リアの心に張り詰めていた糸がぷつりと切れた。
限界をとうに超えていた肉体から力が抜け、レンの胸の中に完全に沈み込む。
視界はもう、ほとんど何も見えない。
黄金の瞳は光を失い、深い赤に染まっている。
それでも、リアは満足していた。
あの子の命が助かった。それだけで、自分のこれまでの不幸がすべて帳消しになったような気がした。
「……レンさん……ありがとうございました……」
掠れた声で、リアは微笑もうとした。
でも、自分の顔がどんな無残なことになっているかは想像がついた。
血まみれで、目は潰れ、もはやゴミとすら呼べない残骸。
こんな姿、見られたくなかった。
「……泣くな。終わってねえよ」
レンの声が、微かに震えていた。
レンはリアを抱き抱えたまま、ゆっくりと立ち上がる。
目の前には、ミリィを奪われ、術式を逆流させられたことで廃人寸前となり、狂ったように叫ぶオズワルドがいた。
「私の……私の魔法が! 私の地位が! 出来損ないの分際で、私のすべてを台無しにしおってぇぇ!」
醜く這いずる老人の姿。
かつてリアにとって、神にも等しい絶望の象徴だった男の、あまりにも矮小な末路。
「リア。よく見ろ」
レンが、リアの耳元で囁く。
レンの指が、リアの瞳に優しく触れた。
冷たい魔力が流れ込み、一時的に視力が戻っていく。
「あいつはお前をゴミだと言った。だが、そのゴミにすべてを破壊されたあいつこそが、今この空で一番の産廃だ」
リベルタ号の船首が、逃げ場を失ったオーリオールの艦橋へ、ゆっくりと狙いを定める。
「さあ、お前の言葉で引導を渡してやれ。これは俺たちの船だ。俺たちの航路を邪魔するゴミは……どうすればいい?」
リアは、レンの胸の中で、ゆっくりと、しかし確かな力で目を開いた。
血に濡れた黄金の瞳が、自分を虐げてきたすべての元凶を捉える。
その瞳に宿っているのは、もう恐怖ではない。
それは、過去の自分への決別と、未来を共にする仲間への信頼だった。
「……掃除……してください……レンさん」
その短い、しかし重い言葉。
それが、引き金となった。
「全門、斉射!」
レンの咆哮と共に、リベルタ号のすべての武装が火を噴いた。
黄金の旗艦オーリオールは、その輝かしい外面を保ったまま、内側から爆散し、アイギスの空に無数の破片となって散っていった。
燃え上がる空。
その中で、リベルタ号だけが、汚れなき朝日を背に受けて静止していた。
リアは、レンの温もりを感じながら、初めて本当の涙を流した。
それは悲しみの涙ではなく、自分が自分として生きることを許された、再生の涙だった。
空はどこまでも広く、もうリアを縛り付ける鎖は、どこにも存在しなかった。




