第16話:深淵の王と、崩れゆく天空
鼻孔にこびりつくのは、錆びた鉄と饐えた油の臭い。
下層空域、第3番浮遊島スラム・ベルト。
陽の光すら煤煙に遮られるこの吹き溜まりで、異様な光景が広がっていた。
地面に額を擦り付けんばかりに平伏しているのは、この街を牛耳る鉄錆会の構成員たちだ。彼らの視線の先には、悠然と椅子に座るレンと、巨剣を背負ったガイウスがいる。
「……で、頼んでいた資材は?」
レンが短く問う。
ボスのガレオンという大男が、脂汗を滝のように流しながら前に出た。
「へ、へいっ! 集めてきやした! 廃棄された工場の鉄骨に、軍の横流し品の魔石、それから……」
ガレオンが指を鳴らすと、手下たちが大八車に山積みにしたガラクタを運び込んでくる。
スラムの住人たちから見ればただの産業廃棄物。だが、レンの目には違って見えた。
悪くない。
レンは口元だけで笑った。
深淵の素材は生物由来が多かったが、ここは金属資源の宝庫だ。これならリベルタ号の装甲を、木造からコンポジットアーマーへと進化させられる。
「よろしい。報酬だ」
レンがポケットから無造作に放り投げたのは、小指の先ほどの黒い石だ。
ガレオンが慌ててそれを空中でキャッチする。
深淵結晶。
レンにとってはただの燃料の燃えカスだが、地上の魔術師が見れば城一つと交換するほどの超高純度エネルギー体だ。
「あ、ありがてぇ……! 一生ついていきやす、旦那ぁ!」
ガレオンが石を拝むように握りしめる。
圧倒的な暴力と財力。
この二つがあれば、無法者の街を支配するなど造作もないことだった。
「それと、例の情報はどうなった」
レンが促すと、ガレオンは懐から油で汚れた新聞紙を取り出し、テーブルに広げた。
「へい。上層アイギスから流れてきた号外です。……向こうさんは、今とんでもないことになってるようで」
レンとガイウスが紙面を覗き込む。
そこには、悲痛な見出しが踊っていた。
『緊急事態宣言:ワイバーンの大群、防衛結界を突破』
『騎士団壊滅の危機――英雄ガイウス・ヴァン・ロードは何処に?』
『国王、行方不明の第一王子と元騎士団長の捜索を命じる』
紙面には、炎に包まれる王都の絵と、悲壮な顔をした兵士たちの写真が掲載されている。
ハッ、笑わせる。
レンは新聞を指で弾いた。
自分たちで最強の盾をゴミとして捨てておいて、いざ攻められたら盾がないと泣き喚いている。
かつてレンとガイウスを追放した連中が、今まさにその報いを受けているのだ。
想像するだけで、極上の酒を飲んだような高揚感が胸を満たす。
「……皮肉なものだ」
ガイウスが静かに呟く。
その視線は、かつて守り続けた国の惨状に向けられていたが、そこに未練の色はない。あるのは、愚かな元主君への冷めた侮蔑だけだ。
「戻りたいか? ガイウス」
「まさか」
ガイウスは即答し、新聞から視線を切った。
「国を守る剣など、とうに捨てた。今の私は、このリベルタの乗員だ。……それになにより、あの国にはもう、私の居場所などない」
「そうか」
レンは満足げに頷き、新聞をくしゃりと丸めて焚き火に放り込んだ。
上層の悲鳴など、暖を取るための燃料でしかない。
「さて、情報収集は終わりだ。腹ごしらえといくか」
レンの言葉に、リアがおずおずと鍋を持ってきた。
ガレオンたちに用意させた、スラムで一番高級な店の特製シチューだ。
「……いただきます」
レンは期待半分、不安半分でスプーンを口に運んだ。
瞬間、眉間の皺が深くなる。
なんだこれは。
舌を刺すような塩辛さ。生煮えの野菜の青臭さ。そして、肉からは獣特有の臭みが全く抜けていない。
マズい。いや、これはもはや毒物だ。
「……ガレオン」
「へ、へい! お味はどうで!? 奮発して肉を多めにしたんですが!」
「貴様らは、これを飯と呼ぶのか?」
レンの声色がワントーン下がった。
ガレオンがヒッと息を呑む。
レンはスプーンをテーブルに突き立てた。
「俺はな、ガラクタは好きだが、残飯処理係じゃない。……これなら深淵の鮫肉を焼いて食った方が百倍マシだ」
限界だった。
船の装備は充実してきた。素材も集まった。
だが、生活の質が致命的に低い。
このままでは、世界を征服する前に、俺たちの胃袋と精神が死ぬ。
「コックだ」
レンは立ち上がり、スラムの淀んだ空を見上げた。
「俺たちには、まともな飯を作れる奴が必要だ。……素材のポテンシャルを100%引き出し、食うだけで力が湧いてくるような、そんな料理人がな」
切実な叫びだった。
だが、その願いは唐突に遮られた。
ピピピッ、ピピピッ!
リアの持つ探知機が、けたたましい警告音を鳴らしたのだ。
「レンさん! 侵入者です! 第2デッキの資材置き場に反応あり!」
「あぁ?」
レンの目が剣呑に細まる。
鉄錆会には厳重に立ち入り禁止を言い渡してある。それを破って忍び込む命知らずがいるとは。
「ネズミか?」
「いえ、人間サイズです。ですが……速い! 私のセンサー網を、まるで曲芸のようにすり抜けていきます!」
曲芸だと?
レンの脳裏に、ガレオンの言葉が蘇る。
最近出没する、すばしっこい猫のようなこそ泥。
レンはニヤリと笑った。
不味い飯の口直しには、ちょうどいい余興だ。
「ガイウス、出番だ。飯は後回しだ」
「承知した。……正直、あのスープを飲み干すより、剣を振るう方が気が楽だ」
二人は席を蹴った。
スラムの夜風に、微かな獣の気配が混じっていた。
新たな素材――あるいは仲間となる予感を孕んで。




