第14話:地獄の蓋をこじ開けろ
鼓膜が破れそうなほどの気圧差。
視界は灰色一色。
上下の感覚すら曖昧な『嵐の層』の中で、俺たちの『リベルタ』号は悲鳴を上げていた。
ミシミシ、ギギギギギッ!!
木材、鉄クズ、モンスターの骨。
俺が深淵で拾い集め、無理やり接合した素材たちが、それぞれの限界点で軋んでいる。
結束バンド代わりに使った『粘着樹液』が剥がれかけ、嫌な音を立てる。
「揺れるぞ! 歯を食いしばれ!」
俺が叫ぶのと同時に、見えない巨人の拳で殴られたような衝撃が走った。
ガガガガガッ!!
足元の床が跳ねる。
俺は操舵輪にしがみつき、必死に機首を上へと向け続けた。
重い。
まるで泥の沼を垂直に登っているようだ。
『動力炉』は唸りを上げているが、上から押し潰そうとする大気の壁に阻まれて、上昇速度が上がらない。
「船長! マストが限界だ! 風圧でへし折れるぞ!」
甲板でロープを握るガイウスが怒号を上げる。
太い丸太のマストが、限界まで引き絞った弓のようにしなり、危険な角度に曲がっている。
「耐えさせろ! ここで折れたらバランスを失って墜落だ! 深淵にはもう戻らねえぞ!」
「チッ、老体に鞭を打ちおって……!」
ガイウスが自身の体をロープに巻き付け、人間アンカーとなってマストを支える。
かつての騎士団長の鎧が、風圧でボロボロと剥がれ落ちていく。
(……クソッ、まだ足りないか!)
俺はステータス画面を睨みつけた。
エンジン出力、臨界点突破。
冷却パイプからは白い蒸気が狂ったように噴き出している。
だが、この『嵐の層』は、下から這い上がろうとする異物を許さない。
その時だ。
「レンさん、ダメです! 直上、距離300! 巨大な乱気流の渦があります!」
コックピットのリアから、悲鳴のような報告が脳内に直接響く。
俺が装着したゴーグルに、彼女の視界が共有される。
そこには、竜巻を横に倒したような、黒い暴力的な渦が映し出されていた。
『暴風の壁』。
深淵と地上を隔てる、最後の、そして最悪の関門。
避けるか?
いや、舵が重すぎて間に合わない。
横に逃げれば上昇力が落ちて、この灰色の棺桶に永遠に閉じ込められることになる。
「……突っ切るぞ」
俺はスロットルレバーを、これ以上ないほど奥へと押し込んだ。
(思考するな。俺の船を信じろ)
「逃げ道なんてねえ! 真正面からぶち抜くしかねえんだよ!」
船全体がガタガタと痙攣するように震える。
釘が抜け、板が飛び散る。
それでも構わない。
この船は深淵のゴミで作った。地獄を生き抜いた素材たちだ。これくらいの風で壊れるようなヤワな作りじゃねえ。
「ガイウス! 魔剣のリミッターを外せ! 目の前の『壁』をこじ開けるぞ!」
俺の指示が飛ぶ。
「風を……斬るだと!?」
「お前ならできる! 腐っても元騎士団長だろ!」
無茶振りだ。わかってる。
だが、ガイウスは一瞬呼吸を止め、次の瞬間、獰猛な笑みを浮かべた。
「言ってくれる……! ならば、命じられた通り道を切り開こう!」
ガイウスが揺れる甲板を蹴り、マストの頂上へと駆け上がる。
紫色の魔力を帯びた『魔剣グラム』を、頭上へと構える。
船の動力炉からバイパスされた膨大な魔力が、剣へと逆流し、刀身が禍々しく膨れ上がる。
「おおおおおおっ!!」
気合一閃。
彼が剣を振り下ろすと同時に、世界が縦にズレた。
ズギャアアアアアッ!!
空間そのものが悲鳴を上げ、目の前に迫っていた黒い乱気流が、縦一文字に引き裂かれた。
風が死ぬ。
一瞬、真空のトンネルができる。
「今だッ!!」
俺はそのわずかな『傷跡』へ向かって、リベルタ号を弾丸のように突き刺した。
ゴオオオオオオオッ!!
船体の周りを風の断末魔が流れていく。
きしむ音。何かが弾け飛ぶ音。リアの短い悲鳴。
全てが混ざり合って、思考が白く塗りつぶされそうになる。
それでも俺は、操舵輪だけは離さなかった。
上がるんだ。
こんな暗くて冷たい場所は、もううんざりだ。
「抜けろ……抜けろおおおおっ!!」
俺の魂の叫びと共に、視界が焼けるように白く染まった。
フッ……。
唐突に。
風の音が、消えた。
あれほど暴れていた船体の振動も、嘘のように消え去った。
「……あ……」
誰かの吐息だけが、やけに大きく聞こえた。
俺は、恐る恐る目を開けた。
涙で滲んだ視界に飛び込んできたのは、圧倒的な『青』だった。
見渡す限りの雲海。
足元には、今まで俺たちを苦しめていた嵐の雲が、分厚い絨毯のように広がっている。
そして頭上には。
「……太陽だ」
目が痛いほどの黄金の光。
どこまでも高く、澄み渡る空。
深淵の底で数日間見ることがなかった、本物の空だ。
肌を撫でる風は、カビ臭い腐臭ではない。乾いた、少し埃っぽい匂いがした。
生還した。
俺たちは、あの地獄の底から、己の力だけで這い上がってきたのだ。
操舵輪を握る手の力が抜けた。
膝が笑い、その場に崩れ落ちそうになる。
「……やりおったな、船長」
マストの上で大の字になっていたガイウスが、呆れたように、けれど満足げに笑った。
コックピットのガラス越しには、リアが顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくっているのが見える。
「レンさん……見てください」
リアが震える声で指差した。
雲海の彼方に、いくつかの島影が見えてきた。
岩肌が剥き出しの、荒涼とした空島たち。
そこからは無数の煙突が立ち並び、黒い煙を空へと吐き出している。
きらびやかな天空都市アイギスではない。
ここは『下層空域』。
貧民や犯罪者、そして王国に見捨てられた者たちが身を寄せ合って暮らす、スラム街の空だ。
だが、今の俺たちには、その汚れた煙すらも愛おしい。
「……戻ってきたな」
俺は再び操舵輪を強く握り直した。
ここはまだ楽園じゃない。
だが、人間がいる。街がある。
そして何より、俺たちを追放した連中への、反撃の足がかりとなる場所だ。
「着陸準備だ。まずはあの汚い街で、羽を休めるとしよう」
リベルタ号は、黒煙たなびく下層の空島へ向けて、静かに舵を切った。
Fランクの逆襲劇は、ここから第2章へと突入する。




