第10話:神殿を巻く大蛇
ドゥン、ドゥン、ドゥン……。
動力炉が重苦しい唸りを上げている。
海の色は、もはや青ではなく、インクを垂らしたような漆黒に変わっていた。
俺は操舵輪を握る手に汗が滲むのを感じていた。
怖いんじゃない。武者震いだ。
ゲーマーにとって、ボス戦前のこの独特な緊張感ほど、脳汁が出る瞬間はない。
「……見えてきたぞ」
伝声管から、リアの緊張した声が響く。
「前方、距離3000。……信じられない大きさです。まるで、山脈みたい」
リアの誘導に従い、俺は船を減速させた。
雲海の霧が晴れていく。
その先に現れた光景に、隣に立っていたガイウスが息を飲んだ。
「な……なんだ、あれは……!」
そこには、海底から突き出した巨大な古代神殿があった。
ボロボロに崩れた石柱。苔むした祭壇。
かつて空の上にあり、墜落した文明の墓場だ。
だが、問題なのは神殿そのものではない。
その神殿を、幾重にも巻き付いて締め上げている『生き物』だ。
全長、推定百メートル以上。
鋼鉄のような青黒い鱗に覆われた、巨大な海蛇。
その鎌首が、神殿の頂上でゆらりと揺れている。
「『深淵の守護者』……」
俺はポツリと、そのモンスターの名前を口にした。
このエリアの主にして、神殿の奥に眠る宝――『浮遊機関』を守る番人だ。
ゲーム内での推奨レベルは60。
まともに戦えば、俺たちの船ごとしっぽの一撃で粉砕される。
「ふざけているな……」
ガイウスが剣の柄を握る手が、カタカタと震えていた。
無理もない。
騎士の剣技が通じるサイズじゃない。あれは生物というより、動く災害だ。
「船長、撤退しよう。あんなバケモノに勝てるわけがない。軍艦を十隻連れてきても全滅するぞ」
ガイウスの判断は正しい。
この世界の常識ならな。
だが、俺はニヤリと口の端を吊り上げた。
「安心しろ、ガイウス。俺たちは軍艦じゃない。ただの『ゴミ船』だ。だからこそ勝機がある」
「……何?」
「あいつの習性を利用するんだ。ステータスを見てみろ」
俺は遠くの海蛇を指差した。
あいつは今、眠っているように見える。
だが、その鱗の隙間からは、絶えずバチバチと青白い放電現象が起きている。
「あいつは雷属性だ。そして、極度の『音』と『振動』に反応して襲ってくる習性がある」
「音と……振動?」
「そう。だから今は、エンジンを極限まで絞って近づいている。……リア、聞こえるか?」
俺は伝声管に向かって呼びかけた。
「はい、聞こえます。……レンさん、あいつの周囲の魔力が渦を巻いています。もし近づけば、感知されて即座にブレスが飛んできます!」
「了解だ。だから、これから俺たちは『囮』を使う」
俺は足元の甲板を足で叩いた。
「ガイウス、昨日俺たちが拾った、あの大量の『空き樽』と『火薬草』を覚えているか?」
「ああ……まさか」
「そのまさかだ。これから俺たちは、即席の『機雷』をばら撒く」
俺はガイウスと共に、船倉からロープで数珠つなぎにした樽を引きずり出した。
中には、衝撃で爆発する火薬草と、深淵スライムから採った粘着液がたっぷり詰まっている。
俺はこの数日間、ただ航海していたわけじゃない。
このボス戦のために、ガラクタを集めてはせっせと工作していたのだ。
「作戦を伝えるぞ」
俺は二人のクルーに向かって、短く告げた。
「まず、この機雷を海流に乗せて、あいつの鼻先まで流す。そして、爆発で目を覚まさせる」
「正気か!? 寝た子を起こしてどうする!」
「あいつは寝起きが一番機嫌が悪いんだ。怒り狂って、一番大きな音を出しているものを狙う」
俺は、背後のエンジンを親指で示した。
「そのタイミングで、俺たちはエンジンを『最大出力』にして逃げる。あいつは必ず俺たちを追いかけてくるはずだ」
「逃げて……どうするんですか?」
リアの不安げな声。
俺は、海図のある一点を指差した。
「ここだ。神殿の裏側にある『海底火山の亀裂』。狭い渓谷になっている。俺たちの小さな筏なら通れるが、あのでかい図体の海蛇はどうなると思う?」
ガイウスがハッとした顔をした。
「……詰まる、のか?」
「そうだ。地形ハメだ」
俺は悪戯っ子のように笑った。
「真正面から殴り合うなんて馬鹿のすることだ。あいつを狭い路地に誘い込んで、身動きが取れなくなったところを一方的にタコ殴りにする。……いや、ヘビ殴りか」
卑怯?
上等だ。
生き残った奴が勝者だ。それが深淵のルールだ。
「さあ、準備はいいか野郎ども! 深淵最大の『鬼ごっこ』の始まりだ!」
俺たちは樽を静かに海へと投下した。
波に揺られ、樽の群れがゆっくりと、眠れる龍の鼻先へと流れていく。
俺は操舵輪を強く握り直し、もう片方の手でエンジンの出力レバーに触れた。
汗が目に入る。
心臓が早鐘を打つ。
(3……2……1……)
遠くで、最初の樽が海蛇の鱗に接触した。
**カッッ!!**
水中で閃光が走り、遅れて衝撃音がドオンと響いた。
神殿が揺れる。
そして。
**『グオオオオオオオオオオッッ!!』**
大気を震わせる咆哮。
巨大な鎌首が持ち上がり、怒りに満ちた金色の瞳が、真っ直ぐに俺たちを捉えた。
「――逃げるぞッ!!」
俺はレバーを叩き込んだ。
エンジンが悲鳴を上げ、筏がロケットのように急加速する。
背後から、全てを飲み込むような津波と殺気が迫ってきた。




