9. 剥がれ落ちた天才の仮面
ボロ家『ひだまり荘』の六畳一間。
路地裏から担がれてきたレオンは、タケルが差し出した水を震える手で受け取って一口飲んだ。水が喉を通る感覚で、少しだけ落ち着きが戻ってきた様子だ。
「……はぁ」
レオンはコップを置き、膝を抱えてうずくまる。
先ほどのマリアンヌとの遭遇、その衝撃がまだ全身に残っている。聖女の冷ややかな視線、突きつけられた言葉。それらが彼の脳内で反響し続けていた。
「話してくれませんか? マリアンヌさんとの間に何があったのか」
タケルが静かに切り出した。
レオンは顔を上げない。だが、これ以上隠し通すことはできないと悟っていた。あの惨めな姿を見られた以上、天才の仮面など剥がれ落ちているのだから。
「笑うなら笑えよ。……俺は、教会のエリートだった」
掠れた声で語り始める。
今はもう、そうではないという悲しげな声色。
「小さい頃からどんな楽器もすぐ弾きこなして、複雑な楽譜だって簡単に読めた。だから教会は俺に目をつけて、専属作曲家としてスカウトしたのさ。お前は特別だ、神に愛されているって周りは持ち上げた。俺もそう信じてた」
レオンの瞳が、過去の栄光を懐かしむように揺れた。
だが、すぐにその光は暗い影に覆われる。
「俺の音楽は世界一だと、本気で思っていた。でも、教会が求めていたのは『都合のいいスピーカー』だったんだよ。俺がやりたかったのは、人の心を揺さぶる革新的な音楽だ」
伝統的な聖歌の枠を超え、不協和音や変拍子を取り入れて感情の起伏を激しく表現する新しい讃美歌。彼は自信満々で楽譜を提出した。
だが、返ってきたのは賞賛ではなく怒号だった。
『こんなのは神への冒涜だ!』
『わざわざ伝統を汚して、何がしたい!』
却下、却下、却下。何度書き直しても認められない。
彼の音楽的挑戦はすべてノイズとして処理された。
「それでも俺は食い下がった。この音楽を理解できないのは、あんたたちの感性が古いからだってな。……今思えば、若気の至りだ」
レオンは自嘲気味に笑った。
「そして、あの聖女様に最終通告された。『貴方の音楽には祈りがありません。あるのは、自分を誇示したいというエゴだけ。それを自覚し、改めなさい』ってな」
自分で自分を抱き、身体を震わせるレオン。
「その言葉に苛立って、こんなところ出ていってやる! って言ったのさ。そうして俺は異端者として追い出されたってわけだ」
「……」
マリアンヌが話していた『自らのエゴに溺れ、すべてを台無しにした』『天才ともてはやされ、勘違いをした愚か者』という意味を理解し、何も言えないタケル。
「教会の枠がなくなれば、俺はもっと輝ける。そう信じて酒場や路上、イベントで自作の曲を披露した。でも、誰も……誰も俺の曲なんて聞いてくれなかった」
客が求めたのはわかりやすい流行歌や、陽気な民謡だけ。
レオンが魂を込めて作った難解で芸術的な曲は「うるさい」「暗い」「酒が不味くなる」と罵倒された。
「天才だと思っていた俺の音楽は、誰にも届かなかった。俺はただの、独りよがりのピエロだったんだよ」
レオンは顔を覆った。
指の隙間から、堪えきれない涙がこぼれ落ちる。
「それからは酒に逃げた。酔っていれば『俺は天才だ、周りがバカなだけだ』って自分を騙せるから。自分と向き合うのが怖くて、ずっと逃げ続けてたんだ」
この告白は、クリエイターとしての挫折。自分が特別だと信じていたのに、世界は自分を必要としていなかった絶望。それを認めるくらいなら、目を背けて生きるほうが楽だという悲しみ。
「……だから、テメェらに腹が立った」
レオンは充血した目で、部屋の隅にいるヴァルガンを睨みつけた。
「テメェみたいに、音楽理論も知らねぇ、ただ力任せに叫んでるだけの筋肉ダルマが……なんで人の心を動かせるんだよッ!!」
彼は知っていたのだ。技術的には稚拙で粗削りで、泥臭いヴァルガンの歌が人々の心を掴み熱狂させていく様を。
「俺が何年もかけて積み上げた技術も理論も、テメェの『覇気』とやらの前じゃゴミ屑みたいに霞んじまう! そんなの……認められるわけねーだろッ!」
それはレオンが喉から手が出るほど欲しくて、手に入らなかったもの。
嫉妬。羨望。そして敗北感。
(そうか。だから持って来た曲は、ああいう仕上がりだったんだ……)
タケルは納得した。酒場の演奏とは異なる難解な曲を作って持ち込んだのも、無意識のうちに「俺の方が優れている」と証明したかったからだと。音楽家としての最後のプライドを守るために。
だが、それすらもヴァルガンに「心が動かん」と一刀両断された。
「……俺にはもう、何もない。プライドも、自信も、全部へし折られた。俺は負け犬なんだよ……」
「……」
レオンの声が途切れ、部屋にはすすり泣く音だけが響く。
この苦しみは、かつてのタケル自身と重なっていた。何者かになりたくて、でもなれなくて。社会の歯車として摩耗していく中で「自分には価値がない」と思い知らされた日々。
(わかるよ。だからこそ。ここで終わらせちゃいけない)
タケルはゆっくりと立ち上がり、レオンの肩に手を置いた。
今度は振り払われることはなかった。
「レオンさん。貴方のピアノを初めて聴いた時、一瞬で空気が変わって鳥肌が立ちました。技術を誇示するためじゃなく、ただ感情を表現していた音……あれは、嘘じゃなかった」
「ハッ、気休め言うな……」
「気休めじゃありません! 俺はドルオタです、いいものを見極める目と耳には自信があります!」
タケルはレオンの肩を力強く掴み、真っ直ぐ見つめる。
「もう一度やりましょう。ヴァルガンのための曲を。俺たちとなら、レオンさんの『本当にやりたかった音楽』ができるはずです!」
「……本当にやりたかった、音楽……?」
「はい! ヴァルガンなら全部飲み込んでくれます。あの歌声とレオンさんの旋律が合わされば、きっと誰も聴いたことのない『最強の曲』が生まれます!」
タケルの熱意が、冷え切っていたレオンの心に小さな火を灯す。本当にやりたかったこと。教会に否定され、自分でも封印していた情熱。
もし、それを許してくれる場所があるなら。もし、自分の歪な音楽を受け入れてくれる「器」があるなら。
「……」
レオンは自分の手を見た。震えは止まっている。
まだ怖い。また否定されるかもしれない。でも、このまま終わりたくないという想いも確かにある。レオンは涙を拭い、立ち上がった。
「……わかったよ。やりゃいいんだろ、やりゃ。ただし、俺の曲は扱いにくいぞ」
「望むところです!」
タケルは満面の笑みで答えた。
よかった。なんとか首の皮一枚繋がった。これでまた、チームとして歩き出せると山を乗り越えた気分だった。
「……フン」
ヴァルガンが小さく鼻を鳴らす。タケルは「よし!」とガッツポーズをしているが、その様子を眺める魔王の目は冷ややかだ。
その洞察眼は、レオンの心の奥底にある澱みを見逃していなかった。タケルの言葉で一時的に奮い立っただけで、根本的な問題は解決していない。
本当にやりたかった音楽などと言っているが、今のレオンにそんなものはない。あるのは認められたいという渇望と、それを得られなかった怨嗟だけなのだ。
(まだ膿は出し切れていない。このままでは、すぐ同じ壁にぶつかるな)
中途半端な再起は、より深い絶望を招く。
ならば、完全に破壊してやる必要がある。逃げ場を塞ぎ、すべての虚飾を剥ぎ取ったあとでなければ真の「再生」はない。
「音楽家よ。再挑戦の意気込みは買った。だが、勘違いするなよ?」
「……あ?」
「作るべきは、貴様の傷を癒やすための曲ではない。我を輝かせるための曲だ。貴様の自己満足を二度と持ち込むな」
冷徹な釘刺し。
レオンの顔が一瞬強張る。だが、すぐに「わかってるよ」と強がって見せた。
(予想通り、脆いな)
ヴァルガンは確信する。まだ、この男は自分自身と向き合えていない。だが、今は泳がせておくべきだと判断した。
「明日、ギルドの倉庫に来い。続きをやるぞ」
「……へいへい、わかりました」
レオンは背を向けて、ボロ家を出ていった。来た時よりはマシだが、その背中はまだどこか頼りなかった。
「……ふぅ。なんとか説得できたな、ヴァルガン」
「甘いな、タケル。戦いはこれからだ」
ヴァルガンは窓の外、レオンが消えた夜の闇を見つめながら呟いた。
天才の復活劇は、まだ幕を開けたばかりだ。そしてその脚本には、さらなる荒療治が必要になることを魔王だけが理解していた。




