8. 路地裏の亡霊、突きつけられた真実
孤児院での話が終わり『ひだまり荘』に向かう帰り道。
タケルとヴァルガンは、マリアンヌたちと一緒に夜道を歩いていた。
「……あのー、本当にもう大丈夫ですよ? 送ってもらうなんて恐縮ですし」
「勘違いしないでください、これは監視です」
声をかけるが、マリアンヌは前を向いたまま冷たく言い放つ。
孤児院を出てからずっと、彼女とホーリー・エンジェルスがタケルたちの後ろをピッタリとついてきているのだ。まるで連行される罪人のような空気である。
「貴方がたが変な行動をしないか、見届ける義務がありますから」
「信用ないなぁ……」
気まずい沈黙が続く。何か話題はないかと考えるタケルだったが、聖女様のプライベートに踏み込むのも気が引ける。
「……明日、わたくしたちの公務は朝六時から行われます」
不意に、マリアンヌが独り言のように呟いた。
「そのあと孤児院の予算申請書を書いて、午後からはボランティアイベントのリハーサル。夜は関係者との会食、そして教会の方針確認……スケジュールが詰まっています」
「うわぁ、激務ですね……」
「誰かの人生を背負うとは、そういうことですから。貴方がたも、その力を活かして地道に活動なさればいいのに。便利屋稼業の方が誰かの役に立てるのでは?」
「余計なお世話です! 俺たちはアイドルとしてトップを獲るんですから!」
忠告という体でチクリと刺してくる聖女様。
親切なのか意地悪なのか、よくわからない。
「フン。清廉潔白なだけの世界など、色のない絵画と同じ。泥にまみれ、欲望に忠実に生きることもまた人の営み。我が魅力を感じるのはそちらだ」
「やはり、話が合いませんね」
マリアンヌは溜息をつき、視線を逸らした。
一行は繁華街へと近づいていく。酔客の声や店の明かりが増え始め、夜の街特有の雑多な空気が漂い始めた頃だった。
「ああ、クソッ……ちくしょうが……」
路地裏の暗がりから、怨嗟のような呻き声が聞こえた。
ゴミ箱の陰、悪臭が漂う一角にボロ雑巾のような塊がうずくまっている。
(ん? あれは……)
酒瓶を抱え、ブツブツと何かを呟いている男。よれた服に、ボサボサの髪。
タケルは見覚えのあるシルエットに足を止めた。
「俺の音楽がわからねえ、凡人どもめ……」
聞き覚えのある声。そして、その不遜な物言い。
タケルはハッとして駆け寄った。
「レオンさん!? こんなところで何してるんですか!」
そこにいたのは、啖呵を切ってギルドを飛び出したレオンだった。あの時の傲慢さは見る影もなく、今は泥酔した浮浪者にしか見えない。
「……あ? 誰だ、テメェ……」
レオンは気だるげに顔を上げた。アルコールの臭いが鼻をつく。余程飲んだのか、タケルのことすら認識できていない様子だ。
「タケルです! こんなところで寝ちゃダメですよ、ほら立って!」
「うるせえ、俺は天才なんだ……テメェみたいな奴が触る資格……うぷっ」
「いや吐きそうじゃないですか! しっかりしてください、風邪引きますよ」
タケルが介抱しようと手を差し出す。
その時、後ろからついてきていたマリアンヌがピタリと足を止めた。
「その声、まさか」
彼女の視線が釘付けになる。驚き、困惑、そして……軽蔑。様々な感情が入り混じった複雑な表情。
マリアンヌが近づくと、街灯の明かりがレオンの顔を照らし出した。ボサボサの髪、無精髭に覆われた顔。だが、その面影は彼女の記憶にある人物と一致した。
「……やはり。レオン・プレイエルではありませんか」
その名前を聞いた瞬間、レオンの体がビクリと跳ねた。
酔いが一瞬で醒めたように硬直し、恐る恐る顔を上げる。そして、目の前に立つ純白の聖女を見た瞬間──怯えた表情になった。
「せ……せ、い……じょ……さま……?」
彼の顔から血の気が引いた。唇がわななき、抱えていた酒瓶が手から滑り落ちてガシャンと砕ける。
傲岸不遜だったレオンの態度は消え失せ、まるで捕食者を前にした小動物のように恐怖で縮こまっていた。
「まだ、音楽にしがみついていたのですか?」
マリアンヌの目が氷のように冷たく細められる。そこにあるのは、ただ純粋な失望の色。
「大口を叩いて教会から逃げ出したのは、貴方自身ですのに」
「ひっ、あ、ああ……!」
レオンは言葉が出ない。ガタガタと震え、後ずさる。
ゴミ箱に背中をぶつけ、逃げ場を失った。
「……知り合いなんですか?」
状況を飲み込めずタケルが尋ねると、マリアンヌは冷ややかな視線を外さずに答えた。
「ええ、よく存じています。かつて教会で期待されていた作曲家でした。自らのエゴに溺れて、すべてを台無しにするまでは」
「エゴ……」
「天才ともてはやされ、勘違いをした愚か者です。神への祈りではなく、欲を満たすためだけの音楽を作り続け……最後は居場所を失って逃げたんですから」
マリアンヌの言葉は鋭利な刃物のようにレオンを切り刻む。彼は掠れた声を漏らし、地面に額を擦り付けるようにして顔を隠した。直視できないのだ。自分のすべてを否定し追放した、絶対的な存在を。
マリアンヌは一歩近づいた。聖歌隊の少女たちが、汚いものを見るような目でレオンを取り囲む。
「レオン。貴方が馬鹿にした規律と献身の中で、わたくしたちは多くの人々を救っています。それに引き換え、貴方の革新的な音楽とやらは誰を救ったのですか?」
「う……ああ……」
「誰も救わず、誰にも届かず、ただ自分のプライドを守るために酒を飲む。哀れですね」
美しい顔から放たれる、鋭すぎる言葉。それは慈愛の聖女が見せるものではなく、冷徹に断罪する裁判官のもの。
「やめてくれ……! 俺は、俺は……!」
レオンは何も言い返せない。地面の上に縮こまり、耳を塞ぐように頭を抱えている。「俺の音楽は高尚だ」と豪語していた男の、あまりに惨めな姿。
タケルは見ていられなくなり、二人の間に割って入った。
「言い過ぎじゃないですか! レオンさんは今、俺たちと一緒に新しい曲を作ろうとしてくれてるんです!」
「あら。もしや、彼と組んでいるのですか?」
「は、はい。腕は確かなので……」
「一つ、アドバイスして差し上げましょう。彼が生み出せるのは、祈りのない空虚な音です。音楽の質を求めるのであれば、別の方に変えることを勧めます」
彼女は汚いものを見るようにレオンを一瞥し、踵を返した。
「ここまで来たら監視の必要もなさそうですし、失礼します。ごきげんよう」
聖歌隊を引き連れ、マリアンヌは去っていく。一度も振り返ることはなかった。彼女にとって、レオンはもはや視界に入れる価値もない「終わった人間」なのだ。
「オェッ……ゲホッ……」
残されたレオンは、震えながらその場に嘔吐した。胃液と安酒の臭いが漂う。その場にあったのは重苦しい沈黙と、レオンの嗚咽だけ。
ヴァルガンは無言で壁にもたれかかり、その一部始終を見ていた。怒るわけでもなく、助け舟を出すわけでもない。ただ、観察者の目で崩れ落ちた男を見定めている。
「……レオンさん」
タケルが肩に手を置こうとすると、レオンはビクッと体を震わせ、激しく拒絶した。
「触るな、見るな……! 俺を見るなァッ!!」
血を吐くような絶叫。
プライドだけで保っていたガラスの心が、粉々に砕け散った瞬間だった。天才という鎧が剥がれ落ち、中から出てきたのは怯えるだけの弱々しい男。
(……これが、彼の本当の姿なのか)
詳しい事情はわからない。マリアンヌの言うことが正しいのかもしれない。レオンがトラブルを起こし、自業自得でこうなったのかもしれない。
でも。
(こんなに辛そうなの、放っておけないだろ)
「行きましょう、レオンさん。話はあとで聞きますから」
「放せ……俺なんか……」
「放しませんよ。まだ契約期間中ですからね」
嫌がるレオンを無理やり担ぎ上げる。重い。酒の重さだけでなく、絶望の重さがのしかかってくるようだ。
タケルとヴァルガンは、無言のままボロ家へと歩き出した。
天才作曲家を名乗っていた男の仮面が剥がれ落ち、その下にあった「弱さ」が露呈した夜だった。




