17. 君に送るアンコール
『灰色のバラード』が終わった。最後の一音が、雨音の中に溶けて消えていく。魔王ヴァルガンはマイクスタンドから手を離し、静かに息を吐いた。白い息が、雨に濡れた空気に漂う。
タケルはペンライトを下ろし、感動に打ち震えていた。完走した。最後まで歌いきった。たった一人の観客のために、全力で。なんて尊いんだ。タケルが拍手を送ろうとした、その時。
ピチャ、ピチャ。
雨音に混じって、小さな水たまりを踏む音が聞こえた。タケルとヴァルガンが目を向けると、公園の入り口に小さな人影が立っていた。傘も差さず、ずぶ濡れになりながら。
「……」
そこにいたのは、十歳くらいの少年。着ている服はボロボロで継ぎ接ぎだらけ、サイズも合っていない。痩せこけた手足。頬には、汚れなのか痣なのかわからない汚れがついている。その少年が、大きな瞳でじっとヴァルガンを見つめていた。
ヴァルガンはステージの上から鋭い視線を少年に向ける……かと思いきや、その厳つい表情がふっと緩んだ。
「……物好きな客だ」
ヴァルガンの声には、威圧感はなかった。代わりに、どこか不器用な優しさが滲んでいた。
「風邪を引くぞ、小僧。こんな雨の中、何をしている」
「……」
少年はビクリと肩を震わせたが逃げ出さなかった。真っ直ぐに、ヴァルガンの真紅の瞳を見つめ返した。
「……おじちゃん」
少年のか細い声が、雨音の合間に響いた。
「すごい声だね。……雷みたいに、ビリビリきた」
「雷、か」
「僕……いじめられてて。怖くて、逃げてきたんだ」
少年はギュッと自分の腕を抱きしめた。その腕には、いくつもの古い傷跡があった。
「ここなら誰も来ないと思ったから。……でも、おじちゃんの歌が聞こえてきて。なんか怖そうだけど、あったかくて……」
少年は言葉を探すように視線を彷徨わせ、最後にまたヴァルガンを見た。
「お腹の奥が、熱くなって……元気が出た気がしたんだ」
その言葉を聞いた瞬間、タケルの胸が熱くなった。目頭がツンと痛み、新たな涙が溢れてくる。
届いた。
たった一人かもしれない。けど、ヴァルガンの歌が誰かの心に届いた。癒やしやキラキラだけがアイドルじゃない。傷ついた心に寄り添い、共に痛みを分かち合い、立ち上がる力を与える。それもまた、アイドルの偉大な力。
「魔王様!」
タケルはステージに駆け寄った。
「アンコールです! 彼のために、もう一曲!」
「……貴様が作ったセットリストには無いぞ。それに、喉も冷えてきた頃合いだ」
「お願いします! 今ここで歌わなきゃ、一生後悔しますよ!」
タケルは必死だった。この奇跡のような時間を途切れさせてはいけない。ヴァルガンはチラリと少年を見た。少年は、期待と不安が入り混じった目で見上げている。
「……」
ヴァルガンはステージから降りた。ゆっくりと歩み寄り、少年の前で立ち止まる。そして、雨でぬかるんだ地面など気にも留めず、片膝をついた。巨大なヴァルガンの目線が、少年の目線と同じ高さになる。
「特別サービスだ。心して聞け」
伴奏はない。アカペラで、ヴァルガンは静かに歌い出した。
「♪闇を恐れるな……夜は優しく、傷を隠す……」
元々、歌う予定だったのは一曲で他の歌は存在しない。ヴァルガンは即興で、この少年に相応しいと思う歌を紡ぎ始めた。歌詞は拙いかもしれない。だがヴァルガンの声が乗ると、それは力強い福音へと変わっていく。
「♪己を誇れ……痛み抱えても、魂は汚れない……」
ヴァルガンの声が、雨に打たれる少年の体を包み込んでいく。冷え切った体が、内側からジンジンと温まっていくような感覚。少年は胸に手を当て、その歌に聞き入っていた。
ヴァルガンは、かつて民衆を見下ろしていた支配者……魔王の目を捨て、ただ一人の個を見つめていた。その瞳には強さへの畏敬と、弱者への慈愛が宿っていた。
「♪立ち上がれ……何度でも……王が見ている……」
最後のフレーズを歌い終えるとヴァルガンは少年の頭に、そっと大きな手を乗せた。ゴツゴツとした武骨な手でポン、と優しく撫でる。
「……」
少年は呆然としていたが、やがてハッとして小さな両手を胸の前で合わせた。
パチ、パチ、パチ。
小さな、本当に小さな拍手。雨音にかき消されそうな音。だが、ヴァルガンの耳には、それはかつて聞いた数万の軍勢の歓声よりも遥かに大きく誇らしく響いた。
「ありがとう、おじちゃん」
少年の顔から不安の影が消えていた。代わりに浮かんでいたのは、憧れに満ちた笑顔。
「カッコよかった。……僕も、おじちゃんみたいになりたい」
「フン……」
ヴァルガンは少し照れくさそうに視線を逸らし、鼻を鳴らした。耳が少し赤いのは、気のせいではないだろう。
「礼には及ばん。……また来い。気が向いたら、歌ってやらんこともない」
「うん! 絶対来る!」
少年は名残惜しそうに何度も振り返りながら、公園を出ていった。その背中は最初に来た時よりも、少しだけ真っ直ぐになっていた。
少年が見えなくなると同時に、空が明るくなった。雨が小降りになり、分厚い雲の切れ間から夕日が差し込んでくる。濡れた地面がキラキラと輝き、まるで宝石を散りばめたようだ。
「……やりましたね、魔王様」
タケルは涙と雨でぐしゃぐしゃの顔で笑った。
「ライブを見てくれた最初のファンですよ。本当の、心からのファンです」
「ああ」
ヴァルガンは立ち上がり、夕日を見上げる。その表情は、晴れやかだった。
「たった一人の心を動かすことが、これほどまでに満たされるものだとはな」
「それがアイドルの醍醐味ですよ」
タケルは誇らしげに言った。ヴァルガンはその言葉を噛み締めるように、ゆっくり頷く。
「軍師よ。我はまだ『星』には届かんかもしれん。だが……地を這う者の希望となることはできる。この道、進んでみる価値はありそうだ」
「はい! どこまでも突き進みましょう!」
雨上がりの公園に、二人の力強い声が響いた。最強の魔王アイドルと、最強のオタクプロデューサー。彼らの物語は、ここから本当の意味で始まったのだ。




