10. 失敗したのなら、次の策で挑むのみ
ボロ家『ひだまり荘』の空気は重かった。窓の外は既に夜、遠くに見えるきらめきが今の二人にはあまりにも遠い。タケルは正座し、深々と頭を垂れていた。
「……申し訳ありませんでした」
謝罪の言葉しか出てこない。昼間の路上ライブ、あれは惨劇だった。通行人たちの冷たい視線、恐怖に引きつった顔、そして逃げていく背中。それらが脳裏に焼き付いて離れない。
魔王ヴァルガンの圧倒的なポテンシャルを信じていた……いや、甘えていたのだ。魔王がアイドルをやるという文脈だけで、世界が振り向いてくれると本気で思っていた。
それは現代日本というアイドル文化が成熟しきった環境でようやく成立することであって、この異世界ではただの不審者の奇行でしかなかった。
「俺の考えが甘すぎました……。基礎のスキルが向上しても、認知とその人への愛着がなければ貴方はただの『怖い人』だ」
タケルは拳を握りしめた。爪が食い込む痛みが、自己嫌悪を加速させる。
「独りよがりなプロデュースが貴方のプライドを傷つけ、貴方の価値を下げてしまった。……プロデューサー失格です」
沈黙が落ちる。隣で魔王ヴァルガンは静かに座っていた。彼は、昼間の衣装であるパーカーを脱いで丁寧に畳んでいた。そして、自分の身体の傷跡──かつての勇者との戦いで刻まれた古傷を、無言で撫でていた。
「軍師よ」
ヴァルガンが口を開いた。怒号が飛んでくるかと、タケルは身をすくませる。
「次は何をする?」
「……え?」
聞こえてきた静かな問いかけに、タケルは顔を上げる。ヴァルガンは怒っていなかった。その瞳にあるのは失望でも諦めでもない。ただ前を見据える、不屈の光だった。
「一度の敗北で膝を折るほど、我の野望は安くない。作戦が失敗したなら、次の手を打つのみ。さあ、策を示せ」
その言葉にタケルは胸を撃ち抜かれたような衝撃を受けた。
この男は、本物だ。かつて世界を相手に戦い、敗れ、封印され……それでもなお立ち上がり、今またゼロから頂点を目指そうとしている。そのメンタルの強さは、どんなトップアイドルよりもスターの器を持っていた。
(……そうだ、俺の嘘から始まったんだ。ここで俺が折れてどうする!)
タケルは自分の頬を両手でパンッ! と叩いた。痛みが思考をクリアにする。アイドルの頂点を目指すと本気で考えてくれているのなら、ちゃんと向き合わなければいけない。反省は終わりだ。次は、勝つための策を!
「作戦変更します、歌うのはまだ早かったです。まずは貴方の顔と名前を知ってもらい、キャラクターを理解してもらう必要があります。地道な布教活動……ビラ配りです」
「紙切れを配るのか?」
「はい。貴方の似顔絵と、ユニット名を書いた手書きのチラシです。これを街ゆく人々に配ります。無視されても、捨てられても、渡し続けるんです」
タケルは机の上に神を広げると、ビラのラフを書き始めた。『RE:Genesis 始動』の文字と、ヴァルガンの特徴を捉えつつ少し可愛くデフォルメしたイラストが描かれている。
「地道で、大変な作業です。貴方にさせるようなことではないかもしれませんが……」
「……フン」
ヴァルガンは一枚のビラを手に取り、じっと見つめた。
「布告状を配り歩く使者の役か。かつては配下にやらせていた仕事だが、今は我と貴様の二人きりだ。ならば、王自らが先陣を切るのも悪くあるまい。支配のため必要な儀式だ」
*
翌日。
二人が向かったのは、ルミナ・シティの中心部──魔導列車前の中央広場。
人間、亜人、獣人……様々な人々が足早に行き交っている。タケルは持ってきたビラの束をヴァルガンに渡し、二人は目を合わせて頷くと人の波に向かって歩き出した。
「こんにちは! 『RE:Genesis』でーす!」
「……受け取れ」
ヴァルガンは低い声でビラを差し出す。その腕は丸太のように太く、手には古傷。差し出された通行人の青年は、「ひっ」と短い悲鳴を上げて、まるで猛獣を避けるかのように大きく迂回して走り去った。
「……」
ヴァルガンは眉一つ動かさず、次の通行人──魔導端末を見ながら歩く女性に差し出す。女性は視線を上げることすらなく、存在そのものが空気であるかのように素通りしていった。
誰も受け取らない。それどころかヴァルガンの巨体と強面が壁となり、人の流れが自然と彼を避けていく。まるで川の中にある巨大な岩のように、彼だけが孤立していた。
「新人アイドル『RE:Genesis』でーす! よろしくお願いしまーす!」
タケルも横で必死に声を張り上げた。笑顔を作り、ビラを差し出す。だが、反応は同じだ。「邪魔だな」「何あの人たち」「怪しい勧誘?」という冷たい視線が突き刺さる。
チラリと見られても、すぐに目を逸らされる。その関心を持たれないという事実が、罵倒されるよりも心を削る。
三十分経過。一時間経過。時間が過ぎていくが配れた枚数は、ゼロ。
(……キツイな)
タケルの喉が枯れてきて、笑顔が引きつる。現代日本でもビラ配りのバイトをしたことはあるが、ここまで完全無視されることはなかった。もっと慎重に考えてから行動すべきだったのだろうか。
ふと、横を見る。ヴァルガンはまだ配り続けていた。表情はこれまで練習した媚びない流し目を崩していない。
差し出した右手は一度も下ろされることなく、ただひたすらに次の通行人へと向けられ続けている。無視されても、避けられても、舌打ちされても。
(……すごい)
タケルは息を呑んだ。この人は、心が折れないのか? かつて世界を支配した魔王が、こんな駅前の雑踏で誰にも相手にされず、紙切れ一枚受け取ってもらえない。その屈辱は計り知れないはずだ。なのに。
「軍師よ。我は諦めんぞ」
ヴァルガンが前を向いたまま呟く。その声は低く、力強かった。
「かつて勇者に敗れ、全てを失い、暗闇の中で長い時を過ごした。それに比べれば……たかが数時間、無視された程度で揺らぐ我ではない」
ヴァルガンは、避けていく人々の背中を見据えながら言葉を続ける。
「奴らの視線に入っていないのなら、それは我の『覇気』がまだ足りん証拠。我の存在感が、日常の雑音にかき消されているということだ。ならば、届くまで立ち続けるのみ」
「……はい!」
タケルは気合を入れ直す。負けてたまるか。この人が諦めないなら、自分が先に音を上げるわけにはいかない。
「お願いしまーす! 新人の『RE:Genesis』です! 名前だけでも覚えていってくださーい!!」
タケルの声に、熱がこもる。ただの義務感ではない、魂からの叫び。ヴァルガンも呼応するように、さらに一歩踏み込んだ。
「……受け取れ。損はさせん」
「あらあら……。大きな体で、大変だねぇ」
その時、一人の老婆が足を止めた。大きな買い物袋を下げた、腰の曲がったお婆さん。老婆は魔王を見上げ、シワくちゃの顔で微笑んだ。恐怖ではなく、労りの眼差し。
「こんな日が高い時間から、働き者だねぇ。一枚、貰ってやろうかね」
老婆のシワだらけの手が、ヴァルガンのゴツゴツした手に触れる。そしてビラを一枚、抜き取った。
カサリ。
その乾いた音が、タケルの耳にはファンファーレのように響いた。たった一枚。数百枚あるうちの、たった一枚。でも、それは確実にゼロがイチになった瞬間。
「……かたじけない」
ヴァルガンが、驚くほど小さな声で言った。そして、ぎこちなく頭を下げる。その動きには王の威厳ではなく、ただの不器用な男の感謝が滲んでいた。
「頑張りなさいよ」
老婆はそう言い残して、ゆっくりと去っていった。ヴァルガンは老婆の背中が見えなくなるまで、じっと見送っていた。
老婆の姿が見えなくなってからタケルの方へ振り向いたヴァルガンの顔には、ニヒルな笑みではない、少しだけ照れくさそうな笑顔が浮かんでいた。
「……配れたな」
「はい……! やりましたね、魔王様!」
タケルは目頭が熱くなるのを堪え、大きく頷いた。世界征服への道のりは、果てしなく遠い。でも、最初の一歩は確かに刻まれたのだ。
「よし、次だ! 少しでも多く配ってみせるぞ!」
「はい!」
二人の声が重なる。駅前の喧騒の中、彼らの戦いはまだ始まったばかりだ。




