愛のあるセックスをしてみたい 愛のあるセックスを俺は知らない
出会いは、去年の冬だった。
大学の近くの居酒屋で、バイト仲間の飲み会。寒さで耳を赤くした彼女は、俺の隣に座って、焼酎のお湯割りを頼んだ。
「家近いんでしょ?」
そう言って笑うと、夜のうちに俺の部屋へ来た。
暖房が効いた部屋で、彼女の手は冷たかった。お互い名前を呼び合いながら、体温だけを交換した。
それが始まりだった。
翌朝、彼女は「またね」とだけ言って出ていった。連絡先は交換していたけど、そこに「好き」とか「付き合おう」という言葉はなかった。
それでも、俺は彼女がまた来ることを期待していた。
春になると、彼女は頻繁に俺の部屋に来るようになった。
平日の夜、バイト終わりにコンビニでビールを買って、俺のベランダで飲む。
「海の匂いしないね」
「ここ、海から遠いし」
「じゃあ今度行こうよ」
そんなやりとりで、予定が決まった。
海なら夏が良いとのことで海に行くのは夏まで待つことにした。
俺はそのまま後ろから彼女に抱きついた。
抱き合う夜は静かだった。
肌が触れ合うとき、一瞬だけ「これが愛なのかもしれない」と思う。けれど、朝になると潮が引くようにその感覚は消えていた。
残るのは、彼女の髪の匂いと、シーツのしわだけ。
俺たちは恋人じゃなかった。手をつないで街を歩くこともないし、友達に紹介したこともない。それでも、どちらからともなく会い続けた。
そして、夏が来た。ただ、彼女との予定が合わず気づけば九月になっていた。
九月の終わり、海辺の町は観光客が減っていた。
夕方、防波堤の上で並んで座る。潮風は少し冷たく、コンビニのコーヒーの湯気がやけに目立つ。
「ねえ、こういうのってさ、恋愛って言えるのかな」
海を見たまま、彼女が言った。
俺は答えに詰まり、視線を海に落とす。
「……わからない」
彼女はしばらく黙っていた。
やがて、「愛がないとダメ?」と続ける。
その声が、潮騒に混ざって半分しか届かなかった気がした。
本当は「愛がない」って、俺も感じていた。でもそれを認めたら、もう二度と彼女には触れられない気がして、黙った。
帰り際、浜辺に打ち上げられたクラゲを見つけた。
透明で、脆くて、でも光を閉じ込めたようにきらめいている。
「触ったら危ないよ」
彼女がそう言った。
俺たちも、きっと似たようなものだ。触れれば壊れるのに、確かにそこにある。名前はつけられない。
帰りの車で、彼女が助手席から問いかけた。
「もし、私が他の人を好きになったら、どうする?」
俺は笑って「そしたら教えてくれよ」と言った。
本当は、そんな日が来たら俺は海の底みたいに沈んでしまうとわかっていた。
その夜、彼女は俺の部屋に来なかった。
スマホの画面には、未読のままのメッセージが残っている。
「また会おうね」――そう送ってから、三日が経った。
四日目の夜、ベランダでタバコを吸っていると、遠くで花火の音がした。
音だけで、光は見えない。
不意に、あの海の匂いが胸の奥に蘇る。
愛のあるセックスをしてみたい。
でも、愛のあるセックスを俺は知らない。
きっと、彼女も同じだ。だから、あの日の問いに正確には答えられなかった。
秋風が吹き、ベランダの灰皿の中の火がかすかに揺れた。
俺はタバコをもみ消し、スマホを手に取った。
新しいメッセージは、やはりなかった。
それでも、もう一度だけ送ってみようかと思った。
たとえ、返事が来なくても。
画面に文字を打つ指が止まる。
そして、何も送らずにスマホを伏せた。
潮騒のない町で、俺は海の音を探していた。
もう二度と、あの波の向こうに彼女はいないとわかっていながら。