空白のまま
静かな教室に、黒板を擦るチョークの音が心地よく響いていた。
たまに聞こえる誰かが身じろぎして鳴る椅子の軋みや小さな話し声。窓から見える風景も、もう何度目かも分からないほど繰り返した授業も、黒板の内容、先生の話す言葉のすべてを覚えている。全て記憶通りだ。
リゼ・アルフェンは静かに瞬きをする。足元に温もりがある。目線を向けると白狼――アルヴァがリゼの足に体を預け、静かに眠っている。ゆっくりと手を伸ばし、その頭に触れた。柔らかな毛並みに確かな体温、規則正しい呼吸で体が小さく上下に動いている。
アルヴァは生きている。指先に伝わるその感触が愛しく思え、ゆっくりと撫でる。特に反応はせず、自分の体を撫でる手を受け入れじっとしている。
――戻ってきた。胸の奥で、小さくそう確認する。
視線を前に向け、板書が続けられている黒板、右の端に書かれた日付を見る。九王歴三一七年、春季二週。
終末書を拾った直後の日付。全てが始まる前の世界。
「では、この問題を解いてもらおう。誰か答えられる者はいるか」
今は算術の授業の時間。灰色の髪をオールバックにきっちりとした服で身を包んだ教師が振り返った。教鞭が指す黒板には長い算術式が書かれている。これは難易度が少し難易度の高い応用問題だった。とある税の計算を想定した複合計算。
教室は静まり返っている。教室にいる生徒は各々で計算を実際に行い解いているが、しばらく待っても、挙手する生徒はいない。
リゼは、その問題式を見た。見た瞬間に、答えはすぐに出た。計算したわけではない、覚えているのだ。この日の授業で生徒へ振られる問題式の内容、その答えを。そして、しばらくすると一人の生徒が挙手をして回答するが間違える。
リゼの記憶通り、前の方の席に座っていた生徒が自信なさげに手を挙げる。教師は答えを聞いたが、求めていたものではなかった。表情を変えず、他の生徒へと視線を向ける。そのあとすぐにリゼ・アルフェンの名が呼ばれる。
「リゼ・アルフェン」
こちらへまっすぐ視線を向けた教師が名前を呼んだ。ほかの生徒が問題に取り組んで手を動かしている中リゼはその様子が無かったのを目ざとく見つけたのだ。
「手が止まっているな。答えてみろ」
「はい」
リゼは立ち上がり短く答える。
「解は三七六です」
教師は目を細める。
「途中式も言ってみろ」
「第二項の減算を先に計算し、第三項を分配します。その後に第一項を加算すれば同じ値になります」
短い沈黙。教師は黒板を見直し、ゆっくりと頷いた。
「……正解だ。座っていい」
教室内が少しざわめく。誰も解けていなかった問題を涼しい顔で答えたのだ。リゼは気にせず座り直し、アルヴァの頭にそっと手を置いた。
全て記憶通り。問題式の内容、ほかの生徒は間違え、正解すれば周囲がざわめく。
何も変わらない。何度も繰り返した一日目の授業内容だ。
しばらくして授業が終わる。教師に礼をして教室から出ていくと、生徒たちも各々教室を出て、友人のもとへ向かい、談笑を始める。笑い声が教室内に広がる。
平和な日常だ。
だが、この平穏が長く続かないことを、リゼは知っている。
リゼは鞄から一冊の本を取り出す。
終末書。古びた革の表紙に簡素な装飾。机の上に置き、ゆっくりと開く。
ページがめくられる。――白紙。
次のページへ。――白紙。
更に、次々にめくられるがすべてのページが真っ白に染まっている。何も書かれていない。
リゼは静かに息を吐いた。これも記憶通りだ。しばらくの間、この本に文字が現れることはない。
初めて文字が書かれるのは、未来を記すようになるのは――卒業の直前。それまでは、沈黙を守り続ける。
窓の外を見る。そこには広い中庭があり、談笑する生徒たち。忙しくどこかへ向かう生徒に剣術の訓練をする生徒もいる。
ここでは貴族も平民も様々な事情や立場はあれど同じ場所で学んでいる。王立アルセイン学院。全寮制で許可のない外出は禁止されている。違反すれば停学、あるいは退学となる。退学となれば学院に立ち入る事はいかなる事情があっても許されない。
これから起きる事を考えればすぐにでも行動に移すのが賢明に思うが、それはしない。
ここでしかできないことがあるのだ。ここでしか今後会えない者が、得られる力がある。
だから、今は動かない。――まだ、その時ではない。
終末書は、まだ何も記していない。だが、必ず記される。
――滅亡の未来が。
リゼは終末書を鞄へと戻し、立ち上がる。するとアルヴァも同様に立ち上がり、彼女の隣に並ぶ。
今度こそ。
今回こそ、守る。
すべてを。
終末書の沈黙が破られるその瞬間に向けて、リゼは準備を始める。
静かに、何度目かわからない決意を心に刻みこむ。




