最後の瞬間
―――空が裂けていた。
比喩ではなく、空そのものが裂けていた。裂け目の向こうには何もない。
星も、雲も、光もない。そこには、何も存在していなかった。ただ、”在しない”という事実だけがあった。
世界が終わる。
リゼ・アルフェンは、それを知っていた。これから世界が、存在全てが無くなってしまうことを。知っていた。だからこそ、ここにいた。
足元には無数の瓦礫。崩壊した塔の残骸。割れた地面に燃え広がる大地。
そして――血。
自分のものではない。隣で倒れている相棒、白狼のものだ。
「……アルヴァ」
声は出たが、反応はない。白狼は横たわったまま動かない。純白で、あれほど柔らかかった毛並みは、赤く染まり、埃に汚れている。
リゼはその体に手を置いたが、温もりがだんだん失われていく。何度も撫でた。何度も相棒の名前を呼んだ。だが返事はない。
終末書が彼女の傍に落ちていた。開かれたままのページに、今の時代では使われなくなった古代文字が記されている。
だが、彼女にはその文字が読める。その内容は、何度も見てきたものだった。淡々と事実だけが記されている。
『人類の希望は、絶望の手先によって排除される』
『希望が潰えた世界は崩壊を止められず、世界は滅びる』
確定された未来。予言とも言えるその内容はまさに、これから起きる事象が記されている。
彼女はゆっくりと顔を上げ、目線を白狼から男へと変える。
黒い外套を身に纏い、長い金髪を無造作に広げる人物。エルド・ヴァルケン。彼の手には、彼の手には、終末書と対をなすもう一冊の書――滅亡に至る手順を記す書があった。
彼は裂けた空からリゼ・アルフェンへと視線を向けた。だがその目に感情はなかった。怒りも、憎しみも、哀れみもない。そして手中の書に目線を変える。
「これで、終わりだ」
静かな声だった。
宣言ではない、世界の終わりを確信した報告。
リゼはここまで何度も世界の滅亡を回避してきた。魔導塔の暴走、崩壊。破壊された封印から出現した厄災を再封印。だが、止める度に終末書は更新され新たな終末を描き続けた。
男は剣を構える。
意味がないように思う。勝てないと知っている。だが、それでも同じように剣を構える。
男が動いた。その速さは、認識できなかった。既に剣は振り下ろされ、体は後ろに倒れ視界が揺れる。倒れた横にいた相棒の姿が視界に入り、名前を呼ぼうと口を動かすが、こぼれたのは赤い血だけだった。
微かに残った力を振り絞り、頭を撫でると冷え切った体温が手に伝わる。その温度が広がるように、自分の体温も下がっていくのが分かる。
また、こうなってしまった。
痛い思いをさせてしまった。
こうならないように置いて来た筈だったのに、いつの間にか傍にいて自分を庇った。
力の入らない腕がべしゃりと血の上に投げ出される。
呼吸が止まる。心音も。
終末書の文字が書き換わった。
『世界は滅亡した』
――次の瞬間、リゼは椅子に座っていた。
窓からは暖かな陽の光が差し込み、優しい風がカーテンを揺らす。
良く見慣れた光景、王立アルセイン学園の教室。足元を見ると、柔らかそうな白い毛並みを携えた白狼、アルヴァが気持ちよさそうに足に身を寄せて眠っている。
触り心地のよさそうな体を撫でると、目を覚ましたのか何も知らない顔でこちらを見つめてくる。まだ眠そうに開ききっていない目を見つめ返すと、ただ撫でられているだけだと分かると、元の体勢に戻り、再び目を閉じた。
その視界の端、机の上には終末書が開かれて置かれている。しかし、開かれたページには何も書かれておらず、風でひとりでにページがめくられていくがどのページにも文字は書かれていなかった。
また、この瞬間へ戻ってきた。世界も、時間も、すべてが巻き戻っている。
彼女は目を閉じる。
そして、ゆっくりと開いた。
「――また、ここから」
世界はまだ、滅びを知らない。




