第二十話「第一医療棟」-4
エイヴァが僕を連れて行ったのは、第一医療棟の地下にある部屋だった。
他の階とは違い、どうやらワンフロアをぶち抜いていると思しきその部屋は、入り口の扉前に『霊安室』と掛けてある。
部屋の扉の前で立ち止まり、鍵束を鳴らしつつ、エイヴァはぽつりぽつりと話し始めた。
「その男は、二週間ほど前、酷い傷を負って運ばれてきた」
その男、というのが、僕たちが今から会いに行こうとしている者だろう。
死霊術の心得があると思しきその人間が何者なのか、彼女が今話そうとしているのが、その背景なのだと推測できた。
「酷い火傷と暴行の痕、恐らくはすぐに医療術師の手にかかったのだろうが、その傷は治りきっていなかった。彼がこの街に運び込まれたその時には、既に虫の息と言って差し支えなかったよ」
「……それを、あんたが治したのか?」
「ああ、私にしか治せなかったからね。しばらくは昏睡状態だったが、彼はほんの五日ほど前に目を醒ましたんだ」
ようやく、彼女の指先が一本の鍵をより分ける。それをドアノブに挿し込みながら、さらに続ける。
「彼は色々なことを話してくれたよ――そして、ある人物を探していることも」
「……ある人物?」
僕がそう聞き返せば、そこでエイヴァはゆっくりと振り返った。
少しだけ、背中の皮膚がピリつくような感じがした。それは、直感と呼ばれるものなのだろう。
危険を告げるものではない。けれど、何か僕の心を揺さぶるものが、この先に待っている。そんな予感が、表皮を泡立たせていく。
ガチャリ、同時に、鍵の開く音がする。それが薄暗い廊下に、硬く広がっていくのを感じながら――。
「――彼が逃げてきたのは、【昏い街】からだった」
「【昏い街】……まさか!?」
不意に出てきた故郷の名前に、心拍が跳ね上がるのを感じた。
僕はエイヴァを押しのけ、ドアノブを捻る。異様なまでの金属の冷たさを感じる間もなく、古いドアは押し開かれ、そのまま、僕は部屋の中に飛び込んでいく――。
霊安室は、殺風景な部屋だった。
広い、本当に広い明かりの消えた空間の中。いくつも並べられた遺体たち。その全てが暗色の死体袋に包まれており、姿は見えないようになっている。
――これが、リトラの狙う一千体の死体たち。
そんな感慨を抱くよりも早く、僕の目に飛び込んできたのは、その手前に腰掛けている人影だった。
ぎし、ぎしと音を起てるロッキングチェアに腰掛けた、それは男性のように見えた。足元に置かれたランタンが淡く、彼の周囲を照らしている。
全身には包帯が巻かれており、他の患者たちと同じ入院着を着ているようだったが、さらにその上に深緑色のローブのようなものを羽織っているのが、少し特徴的だった。
「……おや、どなたですかな?」
振り返らずに、ロッキングチェアの上から声が聞こえる。水気を無くした、還暦近い嗄れ声だ。
そしてその声に――僕は、聞き覚えがあった。
「……ダグラス、お前なのか?」
ピタリ、と。
ロッキングチェアの揺れが止まる。
掛けていた男が、ゆっくりと立ち上がった。やせ細った体。それは、まるで油の足りない歯車のようなぎこちなさで、緩やかに、僕の方を振り返る。
「……ジェイ、お坊ちゃま……!」
如何にも好々爺、という表現が似合う、皺の刻まれた、彫りの深い顔。瞳の色はグリーンで、鼻が鷲のように曲がっていたのを、昔はよくからかったものだ。
――彼は、ダグラス・ハウント。
スペクター家に仕えていた、執事長。
その体の大半が包帯に隠され、顔には痛々しくガーゼがいくつも付けられていたが、幼い頃から共に暮らしてきた彼を、僕が見まごうはずがなかった。
「お坊ちゃま、よくぞ、よくぞご無事で……!」
彼はその両目いっぱいに涙を溜めながら、一歩一歩とこちらに近付いてくる。両手を広げ、その身を喜びと思われる感情に震わせながら。
生きていたのか、という言葉を飲み込んだ僕も、彼に向かって、一歩だけ距離を詰めて――。
「――それ以上近付くな、ダグラス」
――彼に、霊符を構えた。
驚いたような表情と共に、彼はその場に立ち尽くす。ショックを受けたように下がる眉は、少なからず僕の良心を打ち据えたが、それは態度を軟化させる理由にはならなかった。
「おや、意外だ。これは感動の再会になるものだと思ったのだがね、スペクターの子息はお気に召さなかったか」
おどけるように口にしながら、エイヴァも部屋に入ってくる。しかし、そんな彼女に視線を向ける余裕もない。
「ああ、悪いが、僕にとって気分のいい再会ではないな。こいつが、こいつが生きてるなんて……」
「……ジェイお坊ちゃま、私は」
「喋るな!」
僕は語気を荒げ、彼を制する。
「あの日――館が焼け落ちたあの日、お前たち執事は何をしていたんだ?」
僕の記憶は二週間前、全てが灰となってしまったあの時に遡行する。