第二十話「第一医療棟」-1
第一医療棟は、駅からも見えていた街で一番大きな建物だった。
無骨で飾り気のない、恐らくは混凝土造りの壁。大戦中、砦を建設するために開発されたこの建材は冷たく、人の温度をまるっきり感じさせない。
一度、地下通路から離脱することにした僕らは、エイヴァの案内もあり、どうにかその入り口に辿り着くことができた。
「さあ、ここだ。苦労したんだぞ、屍者が入ってこないように、ここを塞ぐのは」
玄関に積まれていたバリケードに手を付きつつ、彼女は溜息混じりにぼやく。
「……こんなの、気休めにしかならないでしょ。戦闘屋や、さっきのリッチが襲ってきたら、数刻と保たないわ」
「だが、実際に現状、ここは落ちていない。それが答えであり、事実だよ」
リタの嫌味を平然といなし、エイヴァはバリケードの隙間から体をねじ込んでいく。
「……ほら、君たちもこっちに来たまえ。そんな目立つところに立ってて、屍者が寄ってきたらたまったものではない」
ちょいちょいと手招きする彼女の下に、僕らは近づいていく。バリケードの間隙は思ったよりも狭く、一張羅のジャケットが解れてしまわないかが心配だった。
そうして、通り抜けていく刹那。
「……?」
僕は違和感に、一瞬だけ足を止める。
それを見たリタが、不思議そうに首を傾げた。
「どうしたのよ、あんた。何か気になるものでもあった?」
「……いや、何でもない。早く行こうぜ」
そうして、どうにか隙間から中に入れば、倦んだ空気が漂っていた。
まず目に入ったのは、清潔感のあるエントランスだった。待ち合いのソファには埃一つなく、潔癖なほどに白い壁の色と合わさって、心理的にも無菌を思わせる。
その中で、白衣に身を包んだ、恐らくこの街の医療術師たちと見られる人々が、入院着姿の、これまた患者と思われる人々と話し込んでいた。
しかし、その表情のどれもが暗いものであり、皆、こちらに僅かばかり視線を投げたかと思えば、気まずそうに逸らす。
隠しようもない居心地の悪さに、最後尾をついてきているシーナも、どこか不安げに視線を彷徨わせている。
「……なんか、歓迎はされてないみたいだな」
「そりゃ、そうよ。ここは今、籠城してるんだもの、物資もスペースも限られてるのに、新しく入ってくる連中がいたら、良くは思わないわ」
隣を歩くリタが、さも当然とでも言うように答える。
しかし、その声は普段の過剰なほどに張り詰めた弦を思わせる瑞々しさを持たない。息も絶え絶え、やっとのことでボソボソと吐き出しているかのようだった。
「はは、そう言ってやるな、皆も疲れているのだ。何せ昨日から夜通しでの警備に巡回、警戒態勢を続けているからな」
エイヴァの足取りは、それでも淀まない。彼女が目指しているのは、この階の一番奥、院長室と書かれた扉だ。
近くを歩いていた看護師に人払いを命じた彼女は、部屋の中に僕らを招き入れる。
「さあ、こっちだ、入りたまえ」
足を踏み入れれば、先程のエントランスと同じ、潔癖さを感じさせる部屋の中に、向かい合わせの椅子が一対。そして、その隣に清潔そうなシーツの敷かれたベッドが設置されている。
壁沿いに見える本棚は、恐らくは医学書と思われる本で埋められており、薬棚の周りには、毒々しい色の瓶がいくつも並んでいた。
しがない町医者の診察室、といった風情ではあるのものの、どこか物々しさが漂う。そんな景色に、僕は息を飲んだ。
「ほら、君たち。何を突っ立ってるんだい、早く座るといい」
ドカッと、椅子に腰を下ろした彼女は、僕たちにそう告げてくる。とはいえ、空いている椅子は一つだけ。
僕は少しだけ考えた後に、リタを座らせることにした。何せ、浅くない傷を負っている。僅かでも休ませたほうがいいだろう――。
「――違う、お前はこっちだ」
と、言葉の棘を隠さずに、エイヴァはリタを指差した。そして、顎でベッドの方を指す。
「なによ、別に、この椅子で大丈夫でしょ」
「お前は重傷者だろう。患者はまず、治療からだ」
「重傷って、そんな……」
「問答無用だ、医者の言うことは聞きたまえ」
口答えを続けるリタを、エイヴァはまるでぬいぐるみでも持ち上げるかのように、 両脇から抱え上げると、そのまま診察台の方に持っていった。
「ちょ……あんた、何するのよ!?」
「何って、診察だ。そして治療。患者にすることなど、決まっている」
抵抗するリタを片手で押さえつけつつ、彼女は脇腹の辺りの服を破いた。ぎゃー、と猫が尾を踏まれたような音ともに、リタのか細いウエストが顕になる。
しかし、平時であれば白磁のような真っ白を保っているであろう、均衡のとれた彼女の柔肌には、まるで貫かれたような創傷とゆるやかに流れる血の痕が残っている。
それをしばらくの間観察した彼女は、呆れたように肩をすくめた。
「全く、まさか君、この傷のまま戦い続けるつもりだったのか?」
「……ええ、そうよ。この程度の傷、少し医療魔術をかけておけば――」
「馬鹿者」ガツン、とリタの頭頂部に拳骨を落としつつ。
「君は絶対安静だ。今そうやって、減らず口を叩きながら起きていられるだけで奇跡みたいなものだぞ」
彼女は懐から、再び小瓶を取り出した。あの地下通路を満たした毒液、それとは少しだけ色の違う緑がかったそれの口を、容赦なく圧し折る。
「毒薬術式――『虐再生』」
そうすれば、まるで意思を持っているかのように、小瓶から緑色の液が這い出した。
それはどこか、奇妙な艶を持って空中で蠢くと、ゆっくりと腹部の傷に向かって伸びていく。
「お、おいおい、毒薬術式って……じゃあそれ、毒なんじゃないのか?」
「毒だ、扱い方を間違えれば、この施設内の人口の半分は殺せるだろうね」
あっさりとそう言ってのけた彼女は、恐らく酷く引き攣っていたであろう僕の表情を見て、愉快そうに表情を崩した。
「……ほんの冗談だ。確かに劇物ではあるが、適量を用いれば有効な止血薬、傷薬として作用する。別に、君の連れを毒殺しようとしたりはしないさ」
「……そうなのか? でも……」
「いいか? 薬と毒を分けるのは、その量の多寡でしかない。この世に在る万物が毒であり薬、だ」
己の傷口を覆う毒液を見ながら、リタもどこか不思議そうな顔をしていた。
僕だってそうだ。一般的な医療術師が用いる術とは明らかに異なっている。
「……毒を利用した治療は、初めて見たわ。あなた、どこでこの術式を?」
「どこでもない、全て自分で編んだものさ。既存の治療魔術では治らない病が、この街には多すぎるものでね」
空になった小瓶を、ゴミ箱に投げ捨てる。見れば、部屋の端に置かれた小さなそれは、既に一杯になってしまっていた。
――それだけの治療行為を、彼女はここで行ったのだろう。
そして、それだけの治療を必要とする状況が、この街を取り巻いているという証左でもある。