第十九話「病の街」-2
梯子の最後の一段から足が離れれば、通路の全貌が見えてくる。
一言で表せば、そこは大きなトンネルだった。所々土の壁が剥き出しになっており、ゴツゴツとした足元はどこからともなく滴ってきた水で濡れている。
「この通路もまた、大戦時に使われていたものだそうです」
先頭を行くシーナが、響く声を抑えるようにして言う。
「衛生的な問題から、現在は使われなくなりましたが……この街で働く医療術師には、非常時の避難通路として共有されています」
「ふうん、なるほどな。なんだか、アリの巣みたいだ」
深く考えず、感想を口に出す。勿論、この間も霊視を止めることはない。
リタも恐らく死霊術を使うことはできると思うが、彼女に余計な消耗はさせたくない。なら、僕にできることは、やってやったほうが無難だろう。
「アリの巣……面白い例えですね。確かに、地下通路なんて珍しいですから、言い得て妙かもしれません」
「確かに初めて見たな……でも、この道なら連中にバレずに移動はできそうだ」
「はい、この後、用意が整い次第、患者の皆様を街の外に逃がす計画もあるようです。動かせない患者さんは、どうにもならないようですが……」
話しつつ、薄暗い中でもシーナの足取りに淀みはない。
そして、どれほど歩いただろうか。体感で十分ほど進んだ後、現れた丁字路を右に曲がった辺りで、リタが鋭く言葉を挟んだ。
「二人とも、止まりなさい」
「ん、今度は何だよ。霊視には、何にも――」
「悪霊じゃないわ。いいから、私の後ろに」
言われるがまま、僕とシーナは後ろに飛び退く。それと同じくらいのタイミングで、前方からそれは聞こえてきた。
――呻き声。
苦悶するものとは違う、弛みきった声帯が、ただ風を吐き出すような音。
僕はそれを、よく知っている――。
「――なっ……!」
見るに三体ほど、こちらに近付いてくる人影があった。暗く、その容貌を詳しく確認することはできそうもないが、その足取りがまるで、ふらつくように覚束ないのがわかるだろう。
「動く死体、ね。それも、遺体の様子を見る限り、そんなに死んでから時間が経ったわけじゃなさそうよ」
「ああ、そうだな。問題は、なんでそんなもんがここにいるのか、だけどな!」
僕は懐から霊符を取り出す。【壁の街】で補給はできたものの、枚数を一度に消費する『生者の葬列』などは使用を控えたい。
となれば、ここはリタに任せておくのが安心か、と、ひとまずシーナを庇うようにして歩み出た所で。
「――っ、そんな……!」
彼女の顔から、血の気が退いていることに気が付いた。
「大丈夫か、シーナ。動く死体は確かに恐ろしく見えるだろうが、リタなら――」
「……ち、違います、そうじゃなくて……!」
そうして、たおやかな指が先頭を歩く屍者に向けられる。その衣服は、所々解れているも、恐らく元々は潔癖な白色をしていたのであろうと推測される、簡素なもので――。
「あ、あれは、第三医療棟の患者さんが着る入院着です、それに、どこか見覚えも……」
「……なんだと!?」
見れば、確かに状態のいい屍者だ。いや、良すぎる。恐らくは命を落としてから、一日と経っていないだろう。
つまり、それが意味するところは――。
「落ちた、ってことでしょうね。少なくとも、その第三医療棟ってところは。そして、患者も殺されて――屍者にされた。そうでしょ?」
「……おいおい、嘘だろ」
そこまでやるのかよ、と口にしようとして、己の甘さに気付かされる。
リトラは手段を選ばない男。それは僕自身もわかっていたはずだ。わかっていたのに、覚悟ができていなかった。
死体が欲しければ、作ればいい。そんな、単純なお話だというのに。
「話は後よ。ひとまず、こいつらを片付けるわ」
リタの翼が広がる。機敏な一振りと同時に放たれた羽弾は呆気なく屍者たちの頭部を打ち砕き、頭部を無くした連中は、バタバタと地に伏せていく。
斃れた中には、僕やシーナとそう年の変わらないであろう、若者もいた。その全員が未来を奪われ、こんな風に斃されるのは、少しばかり堪える。
「弔いは後にしましょ。気持ちはわかるけど、先を急ぐ必要があるわ」
「……わかってる、わかってるさ」
慰めのつもりか、肩を叩くリタに、僕は形だけそう返した。割り切れてなど、いないというのに。
そうだとしても、僕が折れるわけにはいかない。もっと折れそうな誰かに、情けないところを見せないためにも。
「……みな、さん」
シーナは呆然としたまま、打ち砕かれた遺体たちを眺めている。
もしかすると、自身が関わったことがある者もいるのかもしれない。そうでなくとも、医療術師たる彼女からすれば、こんな風に患者たちが終わりを迎えるのは望んでいないだろう。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
うわごとのように謝罪を繰り返す彼女に、僕はどんな言葉を返せばいいのかもわからないまま、その背中を眺めていた。
「……ほら、シーナ、行こう。早くお師匠さんに合流しないと、だよな?」
だから曖昧に言葉を濁し、誤魔化すような笑みで隠すことにした。それが逃げであることは理解していたが、他人の悲しみにまで向き合う覚悟は、今の僕にありそうにない。
シーナはこくりと頷いて、力無く立ち上がった。そして、再び先頭に歩み出ようとする。
「そう、ですね。行きましょう、第一医療棟に繋がる分かれ道は、すぐそこで――」
「――駄目ね、時間切れよ」
リタが冷たく言い放つ。その背からは、変わらずに純白の翼が広がっている。
彼女は前方の暗がりに、その真っ赤な瞳を向け続けている。一体その目には何が見えているのか。問うまでもなく、それらは僕らの前に現れる。
歩み出てきたのは、動く死体。最初はぽつりぽつりと、一体、二体。けれどそれは、不気味な息遣いを伴って、その数を十、二十と増やしていく――。
「なっ、なんだよ、これ!」
身構える、と同時に、思考が追いついてくる。
それもそうだ、住民たちが避難している施設が陥落したのなら、被害者があの程度の人数で済むはずがない。
目の前の通路を、無数の屍者が埋め尽くす。もはやその数は、百体以上にまで膨れ上がっていた。
【壁の街】で見た魔物の群れとは比べるべくもないが、遥かに脅威なのはこちらの方だ。
何せ、ここには逃げ場がない。閉ざされた天井は、空に舞い上がることを許してくれないのだ。
「悪趣味ね。でも、いくら数を増やしたところで……!」
大軍に向かって、リタが猛然と突っ込んでいく。限られたスペースでは翼を振り回すのは難しいと判断したのだろう、取り出した羽剣を鋭く閃かせ、次々と屍者の首を落としていく。
運動能力の高い屍者だろうと、材料が素人であれば彼女には及ばない、リタ一人でも、十分に押し返せる――。
そう、考えていたその時だった。
――ぱぁん。
それは、不意に聞こえた、乾いた音。
空気を撃つような、或いは、柏手でも打つかのような。
加速した物体が音の速さを突き破った時の、無慈悲で無感動な、射撃の音――。
「……なっ!?」
自然、音の方向に目が向く。見れば、そこに立っていたのは一体の屍者。
恐らく、生前は若い男性だったのだろう。身の丈は僕と同じくらいで、顔つきはここからは見えないが、長い髪を後ろで一つに括っているのがわかった。纏っているのは、周囲の者と変わらない、あちこちが解れた簡素な入院着だ。
その手にはスリングショットのようなものが握られており、暗がりの中で、魔力の励起を表す仄かな灯りを放っている。
魔術師の骸。
死してなお魔術を行使する、知性を有した屍。
こんな奴まで混じっているのか――と、驚いたのも束の間、僕はハッとして、リタに視線を向ける。
そして最初に見えたのは、真っ赤な鮮血だった。