第十六話「竜の息吹」-2
意外だったのは、それが存外嬉しかったことだろうか。
僕は懐に手を差し入れる、残った霊符の数を数え――これならば、確かにあと一回は『生者の葬列』を使えるだろうと、把握する。
迷いは、数瞬。ずっと言われたかった言葉をかけてくれたことに対する喜びが後押ししたのだろうが、それを認めることは、最後までしたくなくて。
「――わかった、わかったよ! やればいいんだろ、やればッ! その代わり、死んでも弔ってやらないからな!」
「いらないわよ、あんたの弔いなんて。だって死ぬつもりは毛頭ないもの」
「違いねえ。死ぬために戦う馬鹿なんて、どこにもいねえからな!」
足元に札を叩きつける。同時に展開されたそれらは、再び複雑な紋様を構成し、そこに霊視の力が満ちる。
こうなりゃ、ヤケだ。やるだけやって、駄目なら駄目。僕は詠唱のために、大きく息を吸い込んだ。
しかし、それが致命的であることは屍竜にも伝わったのだろう。喉が膨らんだかと思えば、紫色の吐息が吐き出される。
「――させないっ!」
それを、リタの鋼の翼が受け止めた。竜の毒はドロドロとその表面を溶かしていくが、次から次に生え変わる羽根が、それを押し留める。
互いの威力は互角。かもしれないが、空中での踏ん張りが利かない分、リタが不利になるくらいだろうか。
それでも、拮抗は長く続かない、彼女が身を捻りながら飛び退くのと、毒の吐息が途切れるのは同時だった。
けれど、すぐに二の矢――振り抜かれた尻尾が迫る。身動きの取れない僕は、このままでは為す術なく吹き飛ばされるだろう。
「術式詠唱略――結界術式、『三重』ッ!」
リタの声が響き、そんな破壊の嵐は、僕のすぐ横合いで停止する。見えない壁、それがどうやら、竜の尾を押し留めたようだ。
僅かに生まれた隙。そこに赤い閃光が飛来する。鋼の翼は、さらに大きく。もう数え切れないほどの『今度こそ』を超えるため、加速する。
「――『鉄の翼』、『巨翼』!」
限界の速度に至る巨大な翼を、竜の爪が迎え撃つ。微かに、屍竜の爪にヒビが入るのが見えた。
ここまでの幾度もの衝突が、ついに石を穿つ時が来たのか――僕の胸に、僅かな安堵が広がる。
――が、それでも相手は最強種。
「……なっ!」
屍竜が咆哮を上げる。それは至極生物的な、外敵に対する防御反応だったのだろう。
死力を振り絞るようにして、その巨体全てを震わせて、剛腕を振り抜く。
翼を弾かれ、空中で大きく体勢を崩すリタ。視界の先で、赤い流星が堕ちていく。
術式の発動まで、僕が唱えるべき呪文はあと二小節。
ぎょろり、濁った瞳が僕を捉える。
(――ここまでやっても、駄目なのかよ……!)
リタの技は、どれもが洗練された最高峰のものだったはずだ。魔術師としても、結界術師としても、そして万能屋としても文句のつけようがない、絶技の数々。
けれど、結局最後は、種としての強さに阻まれる――。
「――なんて、させるわけないじゃない」
空中でリタがニヤリと笑う。それは諦めではない、勝利を確信した、不敵な笑み。
それを合図にしたかのように、周囲の地面が淡く輝く。先ほどの『巨人の掌』で砕き散らされた破片。
まだ、それらにはリタの紋様が刻まれている。
「術式詠唱略、操岩魔術――『岩装弾』!」
放たれた岩の弾丸が屍竜の眼を抉るのと、リタが地面に落下するのはほぼ同時だった。
叫び声と共に仰け反る巨体。それが生み出した寸暇が、僕に詠唱を終えるだけの時間を与えてくれた。
「……っ、いくぞ! 『生者の葬列』!」
両手に集中。先程の成功もあってか、幾分、霊覚の指先が扱いやすくなっている。
不可視の世界を、霊覚の手が泳ぐ。爪も、牙も、全てを腐食させる吐息も、この手には意味を成さない。
ただ、無感動に、ひたすらに、僕は手を伸ばし、屍竜の魂に触れる――!
「――よし、獲った、ぞ……!」
屍竜の魂を掴むと同時、激痛が蘇ってくる。先ほどまで忘れていたそれは、油断すれば全ての握力を手放してしまいそうなほどだ。
しかし、ここで負けるわけにはいかない。曲がりなりにも信じるなんて言われてしまったのだから。
ここで退いたら、僕はもう二度と、自分の本当になりたいものになれないような――そんな気がしたのだ。
「……おい、ラティーン! これでいいのか、長くは保たないぞ!」
僕は振り返る余裕もなく、そう叫ぶ。あと数秒。もしかすると、そう思考した次の瞬間に手を離してしまっているかもしれない。
根性だけでは縮まらない差だってある。そして、今僕が超えたいのは、そういったものでもあったはずだ――。
「――おう、上出来だぜ、坊主!」
その声は、背後から。
気が付けば、背中に熱を感じていた。それは太陽を思わせる、じりじりと体を炙るような、温かでもあり、また、苛烈な光。
舞い散る火の粉は、それ一つ一つが山火事だって起こせるほどの高熱だった。気を抜けば、僕も焼き尽くされてしまいそうなほどで。
硝子の割れるような音がして、僕の両手が弾かれる。
勢いのまま、後ろに倒れ込んだ僕が見たのは、その口内いっぱいに紅蓮の炎を蓄えた、竜の威風堂々たる姿。
そして、その傍らに立ち、槍の先で目標を示す、老練の竜騎士の姿だ――。
「いくぜドラコ――決着の刻だ」
ラティーンの言葉に、ドラコが吼える。それがどこか泣いているように聞こえたのは、気のせいだろうか。
しかし、どうあれここに、その涙を拭えるものはいない。恐らくはそれすらも――彼らは十二年前に置いてきてしまったのだから。
「操竜術式――『竜の息吹』!」
それが、炸裂の合図だった。
最初に感じたのは、眩しさだった。太陽を直視した時に近い。
埒外の熱量と輝きを帯びた熱線。その通った後に、恐らく一切の存在が許されることはない。
命あるものも亡きものも、全て等しく灼き尽くす。それはある種の葬送の形なのかもしれない。
火葬して、魂までも灰にする。そうしなければ救われないものだってあるのだから。
迫る爆熱に、屍竜が咆哮する。しかし、崩れてしまった体勢では毒の息を吐き出すことも、腕や尾で身を守ることも叶わない。
何よりも堅固だった鎧のような鱗は熱に泡立ち、爛れ、やがて真っ黒に朽ちていく。
あちこちに空いた穴から、黒い影が漏れ出してくる。恐らくそれは、街を蝕む呪い。溜まった淀みが、炎によって浄化されていく――。
「――終わった、のか?」
僕は誰にも聞こえない程度の声量で呟く。今や、暴虐の限りを尽くしていた竜の残骸は、因果すらも灼き尽くすような炎熱に覆われ、後は炭化を待つばかりだ。
勿論――油断はできない。ここからもうひと暴れ、なんてことがあればお手上げだ。僕は自然と、先程墜落したリタの姿を探していた。
上から差し込む光だけしか光源がなかったら先程とは違い、炎が照らし出す周囲の景色はクリアだ。だから、僕は彼女の安否を確かめようとして――。
――視線は、それに吸い込まれた。
少し離れたところで、僕と同じようにして、燃える竜の遺骸を見つめるリタ。落下のダメージは軽微だったのか、体を起こし、見上げている。
――そんな彼女の瞳が、回顧とも憎悪ともつかない色に染まっていた。
何かを憎む気持ちと、過去を思う気持ち、それらが混ざり合い、それでも溶け切らぬマーブルを描くような。
戸惑う僕を他所に、絶命したのか、屍竜の体が真二つに折れる。音を立てて倒れた死体を見下ろすラティーンが、ボソリと呟く。
「……やっと、楽にしてやれたな。さらばだ、相棒――」
感慨はあるのだろう。それでも、涙はない。ただ見送るだけ、次の生に向かう隣人を祝福するだけ。それが、葬送の作法なのだから。
決着。
激動の決戦とは裏腹に静かなそれの枕には、いくつもの思いが渦巻いていて。
僕はそれを理解できないまま、ただ、竜の焼ける炎だけが、僕らの表面を照らしていた――。