第十五話「生者の行進」-5
「死霊術式――『生者の葬列』ッ!!!」
詠唱された呪文が、霊符の上に載る紋様を奔り、やがて、僕の足元から這い登るような感覚がある。
同時――僕の感覚は、鋭敏に研ぎ澄まされる。それは、霊に触れる者だけに許された第六感。この世ならざるものの存在が、肌を刺すほどに感じられる。
もちろん、目の前で吼える、竜の中身すらも。
「――っ!」
背筋を、戦慄が伸ばす。
竜鱗の下で蠢く、黒い影――それは今までに僕が見たことがない程に、悍ましいものだった。
複雑に絡まり、うねり、ギチギチと軋む音を上げるそれは、おおよそ尋常な存在だとは思えない。
この世の外か。そうでなければ、もっと深淵から迷い込んできてしまったかのような、そんな恐ろしさだ。
「……だから、どうしたって言うんだ!」
声を張り、怯心を追い払う。
術式で鋭くなった僕の霊的なものに対する知覚――霊覚は、今や僕という肉体を超え、体外にまでその手を伸ばすことができる。
死霊術式『生者の葬列』は、そうして捕捉した魂を浄化し、天に昇らせるための術である。ロニーの時のように簡易契約で簡単に成仏させることができない霊を、強制的に昇天させるためにある技だ。
恐らく、史上一度もこいつを、屍竜に使った奴はいないだろう。魂の大きさが違いすぎる、そんな相手に使用するのは、あまりにも無謀な術だからだ。
「だからって、それは、できないことの理由にはならないだろうが……!」
霊覚の手を、屍竜に向かって伸ばす。すかさず、振るわれた鋭い爪も、この世ならざる不可視の感覚器には、触れることすらできない。
堅牢な鱗をすり抜け――見えざる五指が、屍竜の中身に触れる。魂を掴んでしまえば、いくら屍竜といえど、身動きが――。
「……痛ッ!?」
それと同時に、僕の両手のひらに激痛が走った。
触れた霊覚の手が、一瞬にして爛れたのだ。街の淀みを吸い、彷徨う死者の霊を吸い、膨れ上がった屍竜の魂は触れるだけで毒となるということか。
けれど、離すわけにはいかない。離してたまるもんか――!
強く握り込む。痛みが、骨の髄まで染みるような感覚。恐らくはほんの数秒の出来事だろうが、その寸刻は幾倍にも引き伸ばされ、食い縛った歯にはヒビが入ったような感覚があった。
それでも構わない。一秒でも、一刻でも長く稼げば、その間にリタが立ち上がってくれるかもしれない。それが最適解であるのなら、僕は――。
「う、おおおおおおおッ!!!」
叫ぶ。そんな僕の苦痛に反して、屍竜は僅かばかり煩わしそうに尾を振る程度だ。無駄な足掻き、無意味な行為だとでも言いたげに。
そして、屍竜が一度、咆哮を上げる。それと同時に、僕の霊覚の手は払い除けられた。
その勢いに、思わず僕も仰向けに倒れ込む。無理だ。どうにか現状を打開しようとしたが、たった数秒。興味をこちらに引きつけただけだった。
だからだろうか。恐らく、僕らが煩わしく飛ぶ羽虫に、適当に狙いをつけて振り払うような調子で、屍竜の爪が振り上げられる。
防ぐことはできない。避けることも――このままでは、難しいだろう。
「ぐ、が、ちくしょう……」
僕は必死に身を起こそうとするが、手のひらから走る激痛に、思わず力が抜けてしまう。身構える暇すらもなく、振り下ろされた爪が僕めがけて飛来した。
ああ、もう、これはどうにもならない。本当の意味で『詰み』ってやつだ。まさか、リトラ神父に捕まる以外で、こんな死に方をするなんて思わなかった――。
「――よくやったぞ、坊主!!」
その声は。
諦めに飲まれた頭上から降ってきた。
轟音。次いで、凄まじい衝突の勢いが風を呼び、ビリビリと周囲の空気を震わせる。
何が起こったのか、飲み込めない僕の前に、ふわりと何かが舞い降りる。
――鈍色の鱗。
あちこちに細かい傷は残っているものの、金属を思わせる、その硬質な輝きには陰りなど一つとして無く。
力強さと、何よりも生物としての格を感じさせるような悠然とした立ち姿でそこに在る、一人と一匹の姿があった。
「待たせたな。まだ二人とも、息はあるかよ?」
空を統べる魔物の頂点、竜種のドラコ。
その背に跨り、不敵な笑みで振り返ったのは、原初の竜使い――。
「――ラティーン!」
僕の呼びかけに、彼は槍の一振りで応えた。恐らく、多くの魔物を屠ってきたのだろう。赤黒く汚れたその槍は、それでも血震いをすれば輝きを取り戻す。
「へっ、男が泣きそうな声で呼ぶもんじゃねえよ。随分とこっぴどくやられてるじゃねえか」
彼はきょろきょろとあたりを見渡すと、壁に凭れるようにして沈黙するリタの辺りで、その視線を止める。
そして、肺いっぱいに息を吸い込んだ彼は、その場の全てを打ち据えるような雷声を上げた。
「おう、リタ! お前も、いつまでそんなところで寝てやがる!」
鼓膜を突き破らんばかりの大声量。それに呼応するように、彼女の指先がピクリと動く。
「……でっかい声出さなくたって、聞こえてるわよ!」
ふらふらと立ち上がるリタ。しかし、ひと目でわかる。もう、限界なはずだ。
あの矮躯で正面を切って屍竜とぶつかり続けていた――無理が出て当然だ。けれど、彼女はそれを微塵も感じさせぬ力強さで、鋼の翼を広げる。
「ようやく、ようやく役者が揃ったわ。まったく、随分と待たせてくれるじゃない」
「ガハハ、悪いな。ドラコのガス抜きも兼ねてたもんでよ」
ドラコが自分のせいにするな、と抗議めいた鳴き声を上げる。緊張感のないやり取りに見えたが、その程度の冗談を交わせるくらいには、場の空気は緩んでいた。
少なくとも――絶望感は、どこかに吹き過ぎたようだ。
「さてと、だ」
ラティーンが槍を構え直す。軽い調子で飛ばしている時も、兜の下の眼光は一切鈍らなかった。
彼にとっても、因縁の相手だ。リタ曰く、この屍竜の元になった竜種は、ラティーンの――。
「――終いにするぞ、若造ども!」
因縁に。
過去に。
呪いに。
終止符を打つための戦いが、始まる。
ドラコが吼える。恐らくは自らの父母であろう、目の前の残骸に。
屍竜も吼える。もはや自我すら怪しく、自らを滅ぼしに来た外敵に。
そうして十二年越しの決戦は、一対の竜の激突をもって、幕を開けたのだった――。