第八話「凪いだ水面」-4
それを見て僕は、一つ安堵の息を吐いた。実のところ、頭のどこかにずっと『もしかして全て僕の勘違いなのではないか』という思いが燻っていたのだが、どうやら杞憂だったようだ。
あの家に残されていた写真。刻まれた四つの名前。
一つはあの父親のもので。
もう一つは母親のもので。
もう一つは失踪した子供のものだろう。
なら、もう一つは?
「……簡単な話よね。あの家には、もう一人子供がいた」
リタも、どうやら僕と同じ結論に至ったようだった。
「あの写真は私も見たわ。でも、どう考えても写真には三人しか写っていなかった。私はてっきり撮影者の名前だと思っていたのだけれど……」
「ああ、写真にはしっかり、四人写っていたんだよ」
「……足りない一人は、母親のお腹の中にいたのね」
僕は静かに頷く。丁度陰になって見えなかった母親の腹部は、恐らく、懐妊によって膨らんでいたはずだ。
もっとも、そんな推測をしなくとも――何もかもを知る人物が、目の前にいるのだが。
「……あれは、おいらたちがあの街に移ってすぐに撮った写真だったんだよ」
ぽつり、ぽつりと。ロニーは話し始める。それは、彼の物語。かつてそこにあって、もう失われてしまった、終わった命の物語だ。
「街でいい仕事が見つかったって、父ちゃんは喜んでた。新しく生まれる弟のためにも、いっぱい稼ぐんだって。正直、都会は怖かったけどさ、父ちゃんも母ちゃんも一緒なら大丈夫だからって」
「仲、良かったんだな。親御さんとさ」
「うん、でも……」
楽しそうに話す彼の表情が、唐突に曇った。その表情に、僕は見覚えがある。
死者と対話するとき、ある瞬間に――彼らは決まってその顔をする。
「……流行り病だったんだ。息がしづらくなって、咳が止まんなくてさ。父ちゃんは高い医者を呼んでくれたけど、おいらは――」
そのまま。
彼はその先を宙に投げたが、聞かずともわかる。どうなったか、今の彼自身が、その結果ということだろう。
「……おいらはさ、それから何度も父ちゃんたちの所に行ったんだ。でも、当然誰もおいらのことなんか見えなくてさ。町の子供たちの中にはたまに見える子がいたけど、大きくなるにつれ、みんなおいらが見えなくなった。そしておいらも、自分が誰だか、わからなくなって……」
そうして、彼は摩耗していったのだろう。
髪は元の豊かな輝きを失い、黒くくすんだ。
記憶は剥がれ落ち、自分すら見失った。
それでも、彼はここにいる。
ここでこうして、何かにしがみついている。
僕が、そんな彼にしてやれるのは。
「――よく聞いてくれ、ロニー。君はもうすぐ、君じゃなくなってしまう。長い間彷徨い続けた君の魂は何と言うか……もう、腐る寸前なんだ」
「……うん、わかってるよ。おいらはもう、たぶんあと何日もここにいられないって。でも、もうどうやって消えたらいいかも、おいらにはわからないんだ」
未練すらも。
彼は手放してしまったのだから。
確かに彼は自分自身が何者だったのかを思い出した。けれど、この世に留まりたいと思ったその瞬間の感情までは、取り戻せていないのだろう。
ああ、だから。
「ああ、そうだろうが、僕なら、君を天に還してやれる」
言いながら、懐から霊符を取り出した。普段は『ウィル・オ・ウィスプ』の火の玉を生み出すのに使っているが、それとは別の術式を刻んだもの。滅多に使わないが、一枚だけ常備することにしている。
「……ほんと?」
「簡易契約――って言ってもわかんないか。僕に少しだけ力を貸してくれれば、君の魂を綺麗にしてあげられる」
彼は、しばらくの間黙っていた。僕はその目の前に、霊符を差し出す。
迷っているのか。それとも、怪しんでいるのか。
僕が選択を強要することはない。あくまでも選ぶのは彼。終わってしまった物語にどう終止符を打つのかは、彼自身で選ばなければならない。
それが、死者が奪われずに済んだ、最後の尊厳だから。
「……兄ちゃん」
ロニーはその細い指先を微かに震わせながら、霊符に手を伸ばす。
そして、しっかりと、僕の両目を見据えながら、問いかけてきた。
「じゃあさ、最後においらのお願いを一つ、聞いてくれないかな」
僕は、迷うことなく頷いた。それを見た彼は、最後に何を思ったのか。にこりと微笑んで、そして。
「ありがとう。じゃあさ――」
触れる。外界との輪郭が曖昧になったその手が、僕の霊符をしっかりと掴んだ。
途端。
彼の体は、宙に溶けていく。
砂糖菓子を溶かすかのように緩やかに。そして、夜明けの花の開花のように劇的に。彼の魂はいくつもの光の玉に変わって、そのまま、天に昇っていく。
風に煽られるようにして、その花弁が一つ、僕の頬に触れた。途端、僕の瞼の裏に、いくつもの景色が映し出される。
彼が見たもの。
彼が聞いたもの。
それが僕の脳内に、ありありと投影される。それは、自分が不在の景色を追体験するような、何とも不思議な感覚だった。
「……上手く、いったの?」
後ろで見ていたリタが、僕の顔を覗き込むようにして聞いてきた。彼女からすれば何も見えていないのだから、心配になるのも当然だ。
「ああ。大丈夫だ――行こう」
もう日は、ほとんど沈もうとしていた。逢魔が時は終わる。あの世とこの世が交わる時間は終わり、真っ暗な夜がやってくる。
その前に、行かなければならない。
彼との約束を果たすために。
「ついて来てくれ。こっちだ――」
彼の昇っていった空は清々しく、けれど、どこか寂しさを残すような晴天で。
真っ赤に熱された細い雲だけが、何かのメッセ―ジのように、一直線に伸びていた。