第八話「凪いだ水面」-3
「――見つけた」
予感は、夕景に投射されて、現となった。
視界の端で、揺らぐ影。けれどそれは確かに、僕の網膜の上で像を結んだ。
それは、小さな後ろ姿。褐色の肌と艶のある黒髪が印象的な、頼りない背中。
民家の陰に立ち、ぼんやりと中空を眺めるその姿は、はっきりとした輪郭を失っているようにすら見えた。それは、この傾きかけた日がそうさせているのかもしれなかったが。
確かな事実として、彼の足元には――影がなかった。
「……その術式は」リタが背後で何かを呟いたが、僕にはよく聞き取れなかった。
ただ、言わんとしていることはわかった。だから「ああ」とだけ返して、僕は行く。
この村に来たのは彼女の仕事に巻き込まれたからで、この事件の事件の解決について、僕が負っている責任など一つもなく、やらなければならないことも、たぶん一つもなかった。
だって、これは『赤翼』の仕事だから。
しかし、それでもこれだけは――僕がやらなきゃいけないことなのだろう。
「……よう、少年」
僕は意を決して、その小さな後ろ姿に、そっと声をかけた。ゆっくり彼が振り返る。そのほんの一瞬の時間が、まるで永遠のように思えた。
「……兄ちゃん。どうしたの、おっかない顔して」
屈託なく笑う少年は、その曇り一つない瞳で僕を見る。こうして見ていると、本当に何の変哲もない、普通の子供のように見える。
けれど、そうではない。そうであるはずがない。だって、この子は――。
「……霊視術」
リタは小さく、けれど核心に満ちた声で言う。
「残留する死者の念と交信することができる、死霊術の一つね。死者の姿を見て、声を聴いて、時に使役し、時にその魂を天に返す……そこに、誰かいるのね」
彼女は何かを想うように、スッと目を細めた。しかし、その目には何も映っていないのだろう。
霊魂は、目には見えない。霊符を通して熱に変換するか、屍者として死体に押し込めるか。そうしなければ可視化されることはない。例外として幼い子供には霊視の力が宿ることもあるが、それもほとんどが成長するにつれ、次第に失われていく。
『万能屋』である彼女のことだ、もしかすると死霊術にも通じているのかもしれないが、それでも、何の術もなしに霊を見ることはできないだろう。
「……そっちの姉ちゃんは、見えない人なんだね」
少年は少しだけ、悲しそうな顔で言った。いつも決まって、彼らは同じ顔をする。それが常世に置いていかれたが故の悲しみから来るものなのか、それとも、単純に手放してしまった体温を惜しんでいるだけなのか、僕には今もわからない。
たぶん、大陸一の使い手であった親父にもわかりはしなかっただろう。
だって、僕らは生きているから、死んでしまった彼らの悲しみを理解することはできない。
それこそ、死ぬまで、だ。
「ああ、ごめんな。見えてるのは僕だけだ。一応、このロザリオを渡せばこいつにも姿くらいは見えるだろうが――」
「ううん、いいよ。だって、もうじき日が暮れちゃうからね。おいらに帰る家はないけど、兄ちゃんたちは帰らなきゃいけないだろ?」
それに、何だか急いでるみたいだ――と、少年は裏表のない笑顔で続ける。
「ああ、そうだ。実はちょっと、時間がなくてな。君にちょっと、話があったんだ」
「おいらに、話?」
少年は首を傾げる。彼には思い当たる節がないのか、それとも、忘れてしまっているのか。恐らく、後者だろう。彼は自分の記憶の大半を失ってしまっていると語っていた。
長く彷徨い、摩耗した霊魂は、現世に留まる代償として様々な記憶を手放していく。そしてやがて、自分の名前までを忘れたときに――行くアテを、逝く宛を完全に失くしてしまう。自分の未練までを完全に忘れてしまうのだ。
そうなってしまえば、自力での成仏ができなくなってしまう。自分がどうして現世にしがみついていたのは、それすらもわからなくなった魂は、次第に濁り、歪み、やがて、人に害を為す悪霊になる。
そうなる前に、天に還さなきゃならない。
それが僕のやるべきこと――僕にしかできないことだ。
「ああ、そうだ。君は知らなきゃダメだ。自分が誰なのか、自分がどうして、ここにいるのか」
そして、これから――どうするべきなのか。
僕は、この少年の名前を知っている。この村で捜査をしていくうちに、僕には知る機会があった。
それが果たして偶然だったのか、その力を持つ僕が必然的に、何か大きな力によって導かれたのかはわからない。けれど、、僕にはそれを黙ったままこの村を去ることはできなかった。
だから、告げる。これがこの物語をどう歪めるのか、その答えも、定かではないままで。
「君の名前は――ロニー。村外れの、猟師の家の子だ」
一つ一つ、言葉に思いを込めて、そう口にする。
その一部始終を、少年は呆けたように口をあけながら聞いていた。
突飛な話を聞くように。
欠落の虚を覗くように。
記憶の蓋を、こじ開けるように。
空いた時間は、ほんの一心拍。なのにそれが、悠久にも思えるほどに引き伸ばされて。
「ああ」
と、少年――ロニーが、静かに微笑んだ。それはどこか儚く、けれど確かに納得するような気配を帯びていた。