第七話「万能の翼、揺らぎの向こう」-5
グッ、と、姿勢を落として、偽イアンが突進してくる。駆けながら振りかぶられた鋤が、黄昏時のぬるい空気を引き裂いて飛来する。
鋭い踏み込みの大振りを、リタはほとんど動かずに躱した。
僅かなバックスウェー。その深紅の瞳は、相手との間合いを完全に把握しきっているようだった。
「そんな大振りが当たるわけないじゃない。ナメてんの、あんた――」
呆れたように呟いたリタだったが、すぐにその瞳が驚愕に見開かれる。
と、同時。その矮躯が唐突に吹っ飛んだ。
「リタっ!」僕は反射的に叫ぶ。
それはまるで虚空からの一撃を受けたようであり、偽イアンの攻撃が時間差で直撃したようにも見えたが、ともかく、彼女は横合いに投げ出され、そのまま数度転がった。
リタが間合いを――読み違えた?
「はっはっは。認識阻害魔術だぜ――何度も見せただろ?」
鋤を振り切った姿勢のまま静止していた偽イアンの体が、朧に揺らぐ。それはやがて実体のない煙のようにふわりと風に流されていく。
「こうやって、攻撃の位置とタイミングをズラしてやんのさ。昼間に戦った時には魔術を使うわけにはいかねえからできなかったけどよ。これが俺の本気って奴だ」
ガラガラと鋤を引きずりながら、倒れたリタに近づいていく。
リタは何とか起き上がろうとしているが、間に合わない。偽イアンが二撃目を叩き込む方が早いだろう。僕も咄嗟に霊符を投げようとしたが、これで奴が止まらないことはさっき実証済みだ。
そして、偽イアンは鋤を頭の上まで持ち上げて、構えた。力いっぱい振り下ろすつもりか。彼の剛腕でそんなことをされれば、ひとたまりもないだろう。
僕の喉から、何かが込み上げてきた。それは叫び。やめろとか、そういう言葉だったかもしれないし、意味を成さない獣の如き咆哮だったかもしれない。
しかし、彼がそれに構うはずもなく。凶撃は放たれて――。
「……うっさいのよ、あんた」
ガキン。聞こえたのはけだるげな声と、金属音だった。
僕の目に飛び込んできたのは信じがたい光景だった。
僕の倍以上はあろうかという丸太のように太い腕の大男が放った一撃を、まるで木の枝のように華奢な少女の細腕が、受け止めていた。
それも片手。どころか、指先で刃先をつまんでいるだけだ。なのに、鋤は微動だにしない。震えるほど込められているはずの力は、完全に受け止められてしまっていた。
「ちょっとびっくりしたけど、所詮は子供だましじゃない。攻撃の軌道も威力も、まるで素人。魔術はそれなりに使えるし、体も鍛え込んであるみたいだけど、実戦経験はそれほど積んでないみたいね」
平然とそう言い切るリタの体は、よく見るとまったくの無傷だった。矮躯ゆえに吹っ飛ばされ、地面を転がった際に多少の砂埃にまみれたようだったが、それだけだ。
あの強烈な一撃も、世界最強の万能屋には傷一つつけられなかったと、そういうことなのか。
「んじゃ、面白い魔術を見せてもらったわけだし、私もお礼をさせてもらうわ」
彼女が言うのと同時に、乾いた音が響く。
それは彼女の右翼を、金属の被膜が包む音だ。根元から先までが鈍色に染まり、もう折れることも曲がることもない。
鉄の翼。
翼を硬化させ、あらゆるものを打ち砕く、リタの十八番。
ある意味で、最もわかりやすく彼女を表現した力なのかもしれない。愚直なまでに単純に、ただ自分の信念を貫き通すための力。
そしてそれは、彼女の道を阻む者に、愚かにも【赤翼】の前に立ちふさがった者に、容赦なく振るわれる。
もちろん、今この時も、例外なく。
「本物のプロの攻撃って奴を見せてあげる。防ぐとか、避けるとか、そんな小賢しいことじゃどうにもならない、必殺の一撃をね――!」
偽イアンは逃げようとしたが、リタにがっちりと掴まれているのか、彼が手にした鍬が微動だにしない。
武器を捨てて逃げるという選択ができればまだどうにかなったのかもしれないが、如何せん、彼はその決断が遅かった。そうでなければ、リタの指二本に力負けすることはないだろうと思ったのか。
ともあれ、彼には回避行動をとることができなかった。もうこうなってしまえば魔術を使って避けることもできない。ただ、恐怖に顔を引きつらせながら、鋼鉄の翼が到達するのを待つばかりだ。
「う、ま、待て、待ってくれ――」
自分の置かれた状況をようやく理解したのか、彼の口を突いたのは惨めな命乞いだった。
けれど、もう既に撃鉄は起こされ、引き金は引かれた。放たれた鉄槌を止めることなど、もう、誰にもできはしない。
「――歯ぁ食い縛りなさい。あんたみたいなのには、消し炭すらも似合わないわ」
轟音。
激しく回転するようにして叩きつけられた鋼の翼は、偽イアンの右腕を無残にひしゃげさせた後、それでも止まらず、彼の胴に深く食い込み、そのまま弾き飛ばした。
巨躯がまるで嘘のように宙を舞い、そのまま近くにあった納屋のような小屋に突っ込んで、ようやく止まった。高く舞い上がった土煙の中からは呻き声すら聞こえない。
パラパラと、瓦礫が崩れる音のみが静かな村に響いている。
けれども、いくら待ったところでそこから立ち上がってくる人影は――なかった。
僕はその一部始終を、ただ呆けて眺めるばかりだ。
これが、【赤翼】。
これが、リタ・ランプシェード。
二撃目もない。すべてが一撃必殺。その尾を踏んだ時点で、もう誰にも止められない。
最強。
思えば僕はこれまで、その言葉の意味を軽く捉えていたのかもしれない。
体が大きいとか、珍奇な魔術を使うとか、そんな不純物は彼女の前では等しく無意味なのだろう。
「ふん、あたしの癪に障ることするからよ。殺されないだけ、いいと思いなさい」
そう言いながらその燃えるように赤い髪をなびかせる彼女の姿は、さながら、生きる豪炎のようであった。