第七話「万能の翼、揺らぎの向こう」-3
「イアン……どうして……お前……」
喉の奥からどうにか絞り出す。それはもう意味のない言葉だったが、朦朧とする頭では、取捨選択などできようはずもない。
「簡単な話だぜ、兄ちゃん。俺はイアンじゃねえんだよ。あんたが睨んでた通りだよ」
嘲るように言い、彼は自分の顔面を軽くひと撫でした。
すると、それは少しずつズルズルと垂れ下がり、あろうことか、そのまま溶け落ちていった。目も、鼻も、耳も顎も。彼のトレードマークであった栗毛までもが、溶解し、零れ落ちていく。
そして、残った無貌の上に、新しい目鼻が、いや、恐らくこの男本来のものであろう顔が浮かんできた。
鋭い眼は澱んでおり、まるで屍肉に群がるハイエナを思わせる。痛んだ茶色の短髪はあちこちが跳ねていた。
さっきよりも幾分高くなった鼻は、しかし潰れて下を向いている。そして何より、大きく裂けたその口元がひどく印象的だった。
「驚いたかよ、死霊術師。こうやって、俺はイアンになってたわけサ。日に数度、魔術をかけなおす必要があるが、滅多なことが無きゃ解けねえし、バレねえ」
ま、あの真っ赤な女にはハナっからバレてたみてえだけどな、と続ける。
「……認識阻害魔術は、壁に空いた穴を壁紙で隠すようなもんで、かけたまんま活動したりできないんじゃないのかよ?」
「あ? そりゃあどこからの情報だ? 透明人間にでもなろうとしたなら無茶かもしれねえけどよ。こいつの顔を貼り付けて歩くだけなら、造作もないぜ」
確かに、それだけでこの村においては無敵の迷彩だろう。
やっと、姿を消す魔術の正体がわかったようだった。僕らは、姿を消すというその言葉に囚われすぎていたのだ。
そんなことをしなくとも、村人の一人に成りすますだけでいい。イアンが村の中にいることを怪しむ人間はいない。第二の事件当時だって、広場の近くをうろついていたって誰も気にはしなかっただろう。
そして、子供を物陰に連れ込んだ後は、認識阻害魔術を使い、事が落ち着くまで息を潜めていればいい。ただ、それだけのことだ。
「……いけねえ。少し、喋りすぎたか」
イアン、改め偽イアンは、そう言いながら僕との距離をさらに一歩詰めた。
「お前には人質になってもらうぜ。俺じゃあ【赤翼】を相手取るのは分が悪い。お前を盾にして、俺は安全に街まで逃げ切らせてもらうぜ――」
流石に、それはマズい。
もし彼に捕まれば、それこそ命の保証はないだろう。
死ぬわけにはいかないと、僕は全身の筋肉に力を入れた。関節はギシギシと軋みながらも、どうにか動く。口数の多い奴で助かった。どうやら、動ける程度までは回復できたようだ。
僕は再び霊符を取り出して、奴に向き直る。が、頭はまだふらついているし、目は照準が定まらない。とてもじゃないが、戦えるような状態じゃなかった。
「何だ、立ち上がるのかよ死霊術師。そのまま寝てた方が楽だと思うぜ」
「ああ、僕もそう思う。正直、後悔してるぜ。こんな痛い思いするんなら、深入りなんてしなきゃよかった」
でも、まあ。
リタからのお使いを無視して、死霊術師としての意地を通そうとしたのは僕だし、そもそも、勢いでイアンを追及したのも僕だ。無理矢理に連れてこられたこの事件現場だったけど、僕は自分で選んで、事件に首を突っ込んだのだ。
なら、その責任くらいは取らなければなるまい。
せめて、あの赤い癇癪持ちの足手まといにならないように抵抗くらいはしなければ、そうでなければあまりにもかっこ悪い。
「そうかよ。じゃあ、まあ、大人しく寝てろや、兄ちゃん――」
偽イアンが、凶悪な笑みと共にまた、長物を薙ごうとする姿が見えた。
僕は霊符を投擲する。二発の霊撃は彼の体と得物を捕らえたが、しかし、その勢いを殺すには不十分だった。まるで意にも介さぬように、お構いなしで突っ込んでくる。
思わず反射的に体の前で腕を構えたが、そんなもので防御できるとは思えなかった。足元も覚束ないため、これでは踏ん張ることも難しそうだ。
今度こそ、詰みか。
諦めかけた脳裏には、怒りめいたものも浮かびはしたが、しかし、もうどうでもいいだろう。世界一の万能屋と言えど、結局はこんなものだ。自分勝手に僕を連れまわして、挙句。護衛の一つもできてない。
ああ、全く。僕の人生には、ロクなことがない――。
「――なんて、勝手に思ってるんじゃないでしょうね?」
ギイイイン! と。
手放しかけた意識が、金属同士の激しい衝突音のようなものによって引き戻される。
風。
僕と偽イアンの間に割って入ってきたのは、まさしく暴風だった。それは一瞬の間に飛来して、その翼で大振りの一撃を受け止めたのだ。
赤い豪風。
鋼の翼。
【赤翼】。
その名を冠す者は、この世に一人しかいない。
「……あんた、こんな所で何やってるのよ」
苛ついた様子で言いながら、そいつは翼を一閃した。偽イアンの巨躯が、まるで人形か何かのように軽々と弾き飛ばされる。
鋼の翼を携えて。
リタ・ランプシェードは、間一髪で、またしても僕の危機を救ったのだった。