第五話「霧の中の敵」-6
考えること、数分。彼はやがてゆるゆると首を振った。
「いえ、何も思い当たりません。来客といえばこのイアンくらいのものでしたが、彼は私の古くからの友人でして……一度は村を出た私が、税の安さに惹かれて戻ってきたというのに、彼は温かく迎えてくれました。今の私が村に馴染めているのは、彼のおかげといっても過言ではありません」
よせやい、と、照れる素振りを見せたイアンに視線を移して、リタは続ける。
「つまりあんた――イアンは頻繁にここを訪れていたのね」
「ん、ああ。まあな。今でこそ見回りを始めたからそんなに来られなくなったが、それまではよく遊びに来てたぜ」
またしても、リタはイアンの顔を見つめたまま、ピタリと静止した。今度こそ見間違いではない。明らかに険しい表情で、彼のことを睨みつけている。
いったい何がそこまで気になるのだろうか。小声で聞こうとした矢先、リタは不意に立ち上がった。
「なるほどね、貴重な情報提供、感謝するわ。最後に、寝室だけ調べさせてもらってもいいかしら?」
「ええ、どうぞご自由に。と言いましても、手がかりになりそうなものは残っていませんが……」
最後まで聞き終える前に、リタはもう扉に向かって歩いていた。そして、ドアノブを掴むと、そのまま乱暴に押し開ける。
僕も慌ててその後に続く。行動に迷いがないのはいいが、もう少し落ち着いた方がいいのではないだろうか。
第三の事件の現場である寝室は、先ほどまでいたリビングに比べれば、半分ほどの広さしかない狭い部屋だった。
それでも、三つのベッドと洋服箪笥、それにローチェストを置いてもまだ余りあるのだから、寝室としては広い方なのかもしれない。
リタは部屋の中心辺りに立って、あちこちを見まわしていた。先ほどのように魔力の残滓を探しているのだろうか。少なくとも、僕の目にも見えるような物理的な証拠は残っていないように見えた。
邪魔をしてまた怒鳴られるのも嫌だったので、僕は適当に端の方にでも引っ込んでいることにした。そうして、リタの見分が終わるのを待とうと思ったのだ。
「……ん?」
僕がそれに気づいたのは、本当にたまたまだった。
たまたま軽く凭れかかったローチェストの上。そこに置かれていた写真立てに、ふと目が行った。
そこに映っていたのは、夕暮れを背景に幸せそうに微笑む三人の家族だった。
クマもなければやつれてもいないので、ほんの少し印象は違って見えるが、隣の部屋で話した男と、その奥さん。そして、その二人を覆い隠さんばかりに前に出て写っている子供が被害者なのだろうか。
父親譲りの、豊かなブロンドの少年。その顔立ちには、僅かに見覚えがあるような気がした。
もしかすると、親によく似ているのかもしれない。よく見てみれば、ほんの少しだけ鼻の頭が赤いのなんか、あの奥さんにそっくりだ。
自慢げに持ち上げた口角からは、このくらいの子供特有の生意気さが感じ取れる。
それは、僕がもう二度と手に入れることができない、家族の温かさの象徴のようであり、何だか無性に、眩しく感じた。
「……」気づけば、僕は写真立てを手に取っていた。
家族の死は、受け入れたつもりだ。この痛みにも折り合いをつけて、僕は前に進んでいく――そうありたいし、そうでなければならないと思う。
しかし、どうしても不意に物寂しくなることはあるものだ。喪失の虚が埋まるまでに、あとどれくらいの時間が必要なのだろうか――。
「……ん?」
と、そこで僕はあることに気が付いた。
よく見ると、写真の端に日付と、彼らのものであろう名前が書いてある。
不可解だったのは――その名前が何故か、四人分書かれていることだ。
それに、そこに書かれていたのは、十年近く前の日付だった。
これは一体どういうことだろうか。この写真が正しいとするのなら、写っている少年はもうとっくに青年になっているはずだ。
それに、何度見ても写真には三人しか写っていない。
アップで写っている少年と、その後ろではにかむ父親。少年が大きく映りすぎているせいで胸から上しか写っていないが、同じく柔和な笑みを浮かべた奥さん。何度数えても、三人だ。
これは、どういうことだ――?
「……だいたい、わかってきたわね」
リタの声で、僕は思考の海から引き揚げられた。
彼女は、僕が調べているローチェストの、丁度向かいにある窓を調べているようだった。
「ここの窓、鍵が外からも開けられる細工がしてあるわ。犯人の侵入経路はここでしょう」
「細工? なんだそれ、僕には見えないけどな」
思わず首を傾げる。彼女が指し示す先にあるのは普通の窓で、別にどこかが壊れていたり、何か変なものが取り付けられていたりということは無さそうに見える。
リタは僕を馬鹿にするように肩をすくめると、そのまま指を伸ばして、軽く窓に触れた。
途端、ガラスが割れるような音。まさか彼女が窓を破壊したのかと思ったが、違う。窓ガラスには傷一つない。
代わりに、そこには一本のワイヤーのようなものが現れていた。それは窓の上部に空けられた指一本分の穴から、外に垂らされている。
あとはそれを引っ張るだけで、誰でも鍵を開けることが可能だろう。
しかし、どうしてこれが、ついさっきまで見えなかったのだろうか?
「認識阻害の魔術よ。これがある限りここは、たとえ鍵が開いていようと、窓が割れていようと何事もなかったかのように見えるでしょうね。私の目でもギリギリ気づけるかどうかってところだったから、衛兵の連中にはわからなかったでしょうね」
彼女は言いながら、窓枠を撫でた。その、丁度カーテンの陰になったあたりに、魔術の紋様が刻んであるのが見えた。
「認識阻害ってことは、僕らに正しくものが見えなくなるってことだよな。それが、姿を消す魔術の正体なのか?」
「いえ、違うわ。この魔術は言ってしまえば、壁に空いた穴を壁紙で隠しているようなものよ。人間一人の姿を隠して、ましてやそのまま活動させるなんてことはできないはず」
「……じゃあ、どうして犯人は村人たちに目撃されてないんだ?」
「その辺りの答えは、もう、ほとんど出ているようなものじゃない」
リタはそれ以上を語ろうとはしなかった。僕を置いて、寝室を後にする。
答えは出ているようなもの?
まるでもう、犯人がわかっているような口ぶりじゃないか。
モヤモヤとした気持ちを抱えながら、僕は再び、写真に目を落とした。
もしかすると、聡明な彼女なら、この写真の不可解な点についても、すぐに思い至るのかもしれない。しかし、少なくとも僕にはその力がないということは明らかだった。
なのに、どうしてだろうか。並んだ四つの名前がやけに鮮明に、頭の中に残り続けていた。