第四話「【凪の村】」-3
前を歩いていたはずのリタが、立ち止まっていた。
僕はそれに気づかず、その背中にぶつかってしまう。「なんだよ、危ないな」なんて、悪態を吐こうとした、それよりも、早く。
「――今、なんて言ったのよあんたぁーーーー!!!!」
静かな村の空気を、怒号が引き裂いた。
そして、ものすごい勢いで振り返った彼女は、見たこともないくらいに恐ろしい形相で僕に詰め寄ると、そのまま乱暴に僕の襟首を掴み上げた。
激しい衝撃と不意を突かれた驚きで、喉からは「ぐえっ」と、蛙の潰れたような声が漏れる。
「だぁーれが子供っぽくてドチビで寸胴で幼児体型よ! この口が言ったの!? この口が!」
「ちょ、待てって……そこまでは言ってな……」
「いい度胸してるじゃない! 歯ぁ食いしばりなさい! 消し炭にしてやる――!」
ぐらんぐらんと激しく僕を揺さぶりながら、彼女はまるで威嚇する野生動物のように羽を広げた。
やめろ。吐き気がひどいんだから、これ以上揺さぶるな。というかお前、少なからず自覚があるんじゃねえか。
僕は心中でぼやくも、口にしたが最後、一緒に吐瀉物まで出ていきそうだった。
下手を打った。どうやら、地雷を踏み抜いたようだ。
ぶん、と、僕を地面に投げ出した彼女は、犬歯をむき出しにして、僕を睨みつけている。どうやら、話し合いの余地はないらしかった。
「そこに直りなさい! 術式詠唱略、『鉄の――』」
魔力が動く気配。おいおい、嘘だろ、そこまで本気で怒ってるのかよ。と、僕の背筋に思わず冷たいものが流れる。
咄嗟に土下座するべきか、いや、そんなことしてたら死ぬんじゃないか、ほんの少しだけ逡巡した体は、硬直を選んだ。いや、選ばなかった結果、固まったのだが。
パキパキっと、音を発てて彼女の翼を鉄の被膜が覆っていく。消し炭にするんじゃないのか。というか、その翼で何をするつもりだ。
言葉がいくつも浮かんで、ああ、辞世の言葉は何にしようかと、そこまで考えたところで。
「――お前ら、こんなところで何してんだ!」
唐突に割り込んできた声に、リタはその手(翼?)を止めた。
助かった、と、胸を撫で下ろした僕だったが、声の聞こえてきた方向――具体的には、僕の背後――に視線をやって、二度目の硬直。
そこに立っていたのは、体格のいい壮年の男たちだった。
数は五人。そしてその全員が鍬や鋤――あるいは、鉈やスコップなんかを僕らの方に向けている。
全然助かってなかった。
どころか、ピンチが加速していた。
「見ない顔だよなぁ、余所者か? ここで何してんだぁ?」
先頭に立っていた、栗毛を短く刈り上げた男が、手にした鍬を突き付けながら、僕らに言った。
彼らの服装を見る限り、恐らく、この村の農夫たちだろうか? どうやら、完全に勘違いされてしまっているようだった。
まあ、それもそうか。事件が起こって浮足立ってるであろう村の中で、余所者が騒いでいたのなら目立つだろう。
しかし、今から仕事を始めようというのに、これは――。
「ちょっと待って、私たちは怪しいものではないわ」
唯一の僥倖は、この窮地に立たされたことで、リタの怒りが収まったことだろうか。彼女はゆっくりと進み出て、事情を話そうとした。
「私たち、衛兵からの救援要請を受けてきたの」
「あ、救援? そしたらお前らが万能屋【赤翼】だってのか?」
「そうよ。ねえ、あんたたち、村長はどこに――」
言葉の続きは、ビュン、と鼻先を掠める鍬にかき消された。
リタはそれを上体を反らして最小限の動きで躱す。
いくら不意を打とうと、彼女に素人の攻撃が当たろうはずもない。
「……何のつもりかしら?」
聞き返す彼女の声には、僅かに緊張感があった。臨戦態勢、とまではいかないが、突然の狼藉に、少なからず腹を立てたようだ。
「吐くならもっとマシな嘘を吐けよ、嬢ちゃん。【赤翼】って言えば大陸最強、生きる伝説だぜ――」
先頭の男が、嘲笑交じりに言う。その先を、口にしてはいけないとは知らずに。
「――お前みたいなガキが、【赤翼】なわけあるかよ!」
ぷつん。
男が口にするのと同時、どこかで何かが切れる音がした。
マズい。それは先ほど僕が踏んだ地雷と同じものだ。
「……リタ? はは、おい、落ち着けよ……?」
僕は恐る恐る、彼女の顔を覗き込む。
リタは怒りの形相だったりはしなかった。ただ、能面のような、感情の欠落したような顔で先頭の男を睨んでいる。
「……あはは。落ち着け、落ち着けですって。ええ、私は落ち着いてるわよ。至極冷静だわ」
みしり。足元を踏みしめると同時、固く痩せた地面に、深く足跡が刻まれた。
矛先がこちらに向いてないとわかっているのに、僕の背中にも冷たいものが流れる。
頼む。頼むから逃げてくれ。僕は心中で祈るが、届かない。
「なんだぁ? 本当のことを言ったまでじゃねえか。背丈なんて、村のチビどもと変わんねえんじゃねえのか? まだそっちの兄ちゃんの方が、細っちいが背も貫禄もあるってもんだぜ」
「ねえ、あんた」
リタは、僕の方を向きながら静かに微笑む。しかし、その目は明らかに笑っていなかった。
「あ、ああ、なんだ?」僕は震える声で、どうにか返事をする。
「ちょっと下がってなさい。彼らが私のことを疑ってるみたいだから、教えてあげることにするわ」
「ちょ、ちょっと待て。落ち着けって、な?」
「私は落ち着いてるわよ。ただ、こいつら、わかってないみたいだから……」
「ああん? 何こそこそ話してんだ。痛い目見たくなかったら、大人しく――」
彼が口にできたのは、そこまでだった。
稲妻のように、赤いローブを纏った矮躯が跳ねる。男との間にあったはずの間合いは一瞬で詰められ、そのまま、勢いよく振りかぶって――。
「体に教えてやる、って言ってんのよ!」
ああ、もう、どうにでもなれ。
諦めた僕の耳に響いてきたのは、リタの拳が正面にいた男の顎を打ち抜く音だった。
そのまま演じられる大立ち回りを眺めながら、僕は多難な前途を思って、一つ息を吐いた。