第三十四話「赤き翼」-6
「――って訳には、いかないよな」
頭を過った卑屈な考えを、僕は一言で追い出した。
確かに、賢い方法はそれなのかもしれない。だが、もし、地下墓地がリタの炎に耐えきれず崩落したら? もし、助けに来ることができなかったら?
僕はまた、炎の中で大切な人を失うことになる。
そんなのはもう、ごめんだった。
「行くぜ、リタ、覚悟しろ。術式詠唱略――『生者の、葬列』っ!」
自分の中の怯懦を追い出すように、僕は声を張る。これしかないのだと、言い聞かせるように。
伸びた霊覚の手が、リタに向かっていく。凄まじい速度で飛来したそれを、彼女は避けようとはしなかった。
紅蓮の炎を飛び越えて、僕の魂の欠片がリタに直接触れる、その刹那。
「――がっ!?」両手に、焼けるような痛みが走る。
見れば、僕の両手の平が、赤黒く爛れていた。火傷の痕はじわじわと拡がり続けており、その度に、叫びたくなるような痛苦が襲い来る。
それもそうだ、相手は『紅蓮の天使』。その魂に触れるのだから、僕も灼かれて当然なのだ。
そんな、息もできないくらいの苦痛に苛まれながらも、僕は。
「――は、離して、たまるかよ……っ!」
指先まで、強く力を込める。食い縛った奥歯にヒビが入る音がして、それでも、緩めることはしなかった。
もう、僕は何も失いたくないのだ。
故郷も。
家族も。
親同然に見守ってくれていた執事も。
本当は分かり合いたかった兄弟子も。
ただ生きるだけで、大切なものから順番に壊れていく。
それに耐えられないから、僕たちは代わりを探す。傷を埋めるための代替品を探して、生きているふりを続けなければならない。
――だけど、絶対に手放せないものだってある。
代替品も上位互換もない、どんな万能の存在だって代わりにはなれないものだって、あるはずなのだ。
「ぐ、う、あああああああああっ!」
思わず、苦悶の叫びが漏れる。
耐えろ、耐えろ、耐えろ耐えろ耐えろ耐えろ耐えろ耐えろ耐えろ耐えろ耐えろ耐えろ耐えろ耐えろ耐えろ耐えろ耐えろ!
無駄な思考はカットする。後先だって考えない。今、この瞬間に燃え尽きなければ、もうなんだって構わない。
彼女の魂をほんのひととき留めることができれば、この両手だって要らない。全部を賭けのテーブルに置くことに躊躇は無かった。全身全霊、まさしく、その心構えだった――。
「――ッ、ちく、しょう……!」
――はずなのに、指の力が緩んでいく。
もはや、腱も筋肉も上手く動いてくれない。痛みと灼熱感は髄まで達したところで、奇妙なくらいに突然消えた。
同時に、おおよそ触覚と呼べるようなものも。何もかもが遠退いていく。あるいは、僕の意識ごと、二度と浮き上がれないほどの深みまで沈んでいく――。
『……なんだ、だらしのないやつだな』
――刹那、そんな声が、耳元で聞こえた。
狭まっていく視界の端。僕が先ほど、骸の王の一撃によって取り落とした霊符。それが、青白い火の玉に変わっているのが見えた。
朧な輪郭は、徐々に人型へと形を変えていく。それはどこかで見覚えのある、雄々しい立ち姿で――。
『ほら、前を向け。自分の見るべきものから目を背けるな。それが、スペクター家の主の責務と知れ』
「……あ、あんた、は」
僕は切れ切れの声で口にする。
『誰でもない、ただの影法師だ。それよりも、ほら――』
突き出した両手、既に感覚すらも亡くなったそこに、微かな温かさ。
無骨な指の硬さ。ざらりとした質感。そして何よりも、ふわりと香る、古い本の匂い。
何もかもが懐かしい。もうここにいない、誰かの残滓が、僕を支える。脱力した指先には力が籠もり、名状しがたい感情が、腹の底から湧き上がってくる。
「……ああ、見てろよ、親父……!」
腕の筋が浮き、霊覚が脈動する。
魂を締め上げられる痛みに、天使がわななくのが聞こえた。鈴を鳴らすような、水面を叩くような、澄んだ響き。
それらの全てを握り潰すように、拳を固く握る。掴んだ魂が、圧縮され、小さく、そして熱を失っていくのがわかる。
「――いつまで寝てんだ、リタ!」
微笑む余裕すら生まれたのは、たぶん、強がりに近いもので。
それでも、あいつの目の前で弱みを見せてはいけないということは、今日までの日々で、よく知っていた。
「早くしないと、朝飯全部食っちまうぞ――!」
パリン、と何かが割れる音。
それと同時に、紅蓮の炎が霧散する。骸の王はとうに焼け落ちたのか、後には何も残らない。
天使は末期の叫びとともに堕ち、灼熱の赤は抜けてゆく。そうして、現れたのはよく見知った――純白だった。
僕は走る。落ち行く彼女を抱えるために。
まさしく、最後の力というやつだ。彼女の落下地点まで向かって、その矮躯を抱える。それと同時に、膝から力が抜け、僕はそこに倒れ込んだ。
驚くほどに軽い彼女の体重を両腕に感じながら、僕はぼんやりと、地下墓地の天井を見上げる。
鼻先に香る焦げ臭さ。
背中に感じる、砕かれた骨たちのざらつき。
そして、両手いっぱいに広がる、鮮やかな赤色の髪。
何もかもが終わったのだと、その実感はどこか遠く。ただ呆けたように、その場に横たわっていた。
ふと、視線を巡らせる。先ほど声をかけてきた魂の姿は、もう、どこにも無くなっていた。
成仏したのか、それとも、どこか別の場所にでも向かったのか。どうあれ、もう、彼の魂は解き放たれているのだろう。
安堵と、寂しさ。もう、ここに残る息遣いは二つだけ。自分のものと、穏やかな彼女のもの。それだけが静かな空間に、幅を利かせている。
ただ、力を抜けば、疲労が微睡みを連れてきた。医療術師の下へ急がなければとか、この状況をどう収拾するべきかとか、考える間もなく、僕の意識は暗澹に沈む。
気を失う、その刹那。ふと、視線を外した祭壇の上――くすんだロザリオが、慈しむように輝いているのが見えるのだった。