第三十四話「赤き翼」-3
ここまでの激戦にあっても、石造りのそれは、大きく損傷した様子はない。
彼はそのすぐ側に跪くと、ロザリオを額の前に抱いた。そして、静かな声で唱え始める。
「――光が昇り、温度が沈む。烏の群れと死出虫の葬列、糸車の音が踊る沢、赤の夜にだけ響く歌」
祈る死体の周囲に、無数の光の玉が集まる。薄暗い墳墓の地下に、青白い肌が、その凹凸が照らし出される。
「漫ろ歩け、虚ろの胴。満たす溶液は水銀の澱、溢れる吐息は惑いの霧」
眩いばかりに、集まった魂たちが輝きを放つ。まるで太陽を思わせる、その煌めきに、思わず僕は目を細めた。
奇跡。
失われた命が蘇る――そんな、あり得ざることが、ここで起ころうとしている。
「万の命よ、階を架けろ。彼の者を迎える喇叭を吹け。翅を閉じた世界の幕間に、凍えるような末期の息を――!」
万の魂が収束し、祭壇に設置された石棺に吸い込まれていく。
それは、神秘的な光景に見えた。魔術だの死霊術だの、超常の力に慣れ親しんでいる僕らでも、背筋を撫でていくほどの神々しい光。
正しく、この世の条理から外れた、奇跡の場景――。
「――死霊術式・蘇生法、『現人帰し』」
詠唱の、最後の一言が終われば、辺りを照らしていた光は、その全てが石棺の中に消え、周囲には再び、暗澹が戻ってきていた。
しばらくの静寂の中、誰も動くことはない。風の音すら吹き込んでこないこの場所では、痛いくらいの無音が幅を利かせていた。
術は、成功したのだろうか?
跪いたまま固まるリトラに近付こうと、僕が一歩を踏み出そうとした――その時だった。
――ガタリ。祭壇の上、石棺の蓋が僅かに揺れた。
まるで蝸牛の歩みを眺めている時のように緩やかに、石造りの蓋が退けられる。
そして、そこから緩慢な動きで、何かが立ち上がるのが見えた。
華奢な人影。手も足も嫋やかな細さとしなやかさを思わせ、首よりも少し上のあたりで切り揃えられた茜色の髪は、動きに合わせてサラサラと揺れている。
「……あ、あああ、ああああああ」
リトラの口元から声が漏れる。驚きと歓喜が入り混じった、感情が零れ出たものなのだろう。とうに限界を迎えているであろう体を立ち上がらせて、彼は手を伸ばす。
「おまえ、おまえ……っ! ああ、この日を、どれだけ……!」
死の淵にあって、最後にして唯一の望みが叶った彼の表情は、今までに讃えていた陰気さが嘘のように消え失せた、明るいものだった。
両目から溢れる涙も透き通り、心の底からの気持ちなのだろうということがよくわかる。
――僕はそれを奪わなければいけない。
一分。彼に残された時間は、それだけだ。考えれば考えるほど、変な情が湧いてきておかしくなりそうだった。
だから、杖を固く握って、いつでも大剣使いを動かせるように構える。既に戦闘など終わったこの状況において、臨戦態勢を崩していないかのような僕の様は、滑稽なものだっただろう。
だが――後にこれが、僕の命運を分けることになる。
「久しぶりだな、もっと、よく顔を見せてくれ――」
喜びの中、リトラは蘇った妻に手を伸ばす。失った時間を埋めるかのように、或いは、限られた時間で、溢れんばかりの愛を伝えようとするかのように。
ああ、彼は嬉しかったのだろう。
失われた命が、もう二度と戻ってこないと思っていたものが、その手の中に帰ってきたのだから。
――勿論、そのツケは払わなければならない。
リトラは笑う、笑う。心の底からの笑顔。
そして、最期の瞬間も笑顔のままだった。
迎えるように伸ばされた、妻の細い腕は、柔らかく、彼の首を包み込む。
――かと思えば、そのまま勢いよく捩じ切った。
「……は?」思わず、そんな声が漏れ出てしまう。
目の前で起こっていることが理解できない。一体、彼女は何を?
一瞬遅れて、頭部を失った体が、その場に崩れ落ちる。糸の切れた人形のように、あまりにも呆気なく。
引き千切った頭を胸に抱え、彼女は怪しく笑う。妖しく笑う。それは、どこか美しく――その何倍も、恐ろしい光景だった。
「――ッ!」
僕はバックステップで距離を取り、大剣使いを前に出す。明らかに何か、異常な事態が起こっているのは間違いなかった。
即座に彼女の首を切り落とさなければ、何か恐ろしいことが起きてしまう――そんな直感に従って、杖を一振り、リッチを走らせる。
だが、その判断は、ほんの一瞬だけ遅かった。
刃が届くよりも早く、彼女の体が膨張していく。まるで、内から空気でも吹き込まれたかのように。
ぱあん、と。音を起てて、彼女の体が弾ける。大剣使いを吹き飛ばしつつ、内側から食い破るようにして、それは現れる。