第三十四話「赤き翼」-2
「なっ……お前、そんなこと、許せるわけないだろ!」
「わかっている。無理な頼みごとをしていることも、君がそれを叶えてくれる可能性が、限りなく低いことも」
それでも、彼にはそれしか残されていなかったのだ。
忠義を裏切り。
何もかもを犠牲にし。
悪道に落ち、染まりきり。
死の向こう側にまで行っても、掴めなかった。
だからこそ、彼はこうすることしかできない。どれだけ惨めで、どれだけ無様であろうとも、彼の願いは、たった一つなのだから。
「お願いだ……ほんのひとときで構わない。その後であれば、私の魂は好きにしてもらっていい。だから……」
「……お前の頼みなんて、聞く義理はない。このまんま、首を刎ねちまった方が早いってことは、わかってるよな?」
僕は冷たく言い放つ。馬が良すぎると思ったからだ。
人の家族を殺して、無数の魂を弄んだ彼に、そんな救いがあっていいはずがない。僕だけではなく、スペクター邸にいた全ての人々と、【病の街】で殺された医療棟の人たちも、そう考えるに違いない。
言葉を聞けば迷ってしまう。だから、僕はこれ以上考えず、大剣を振り下ろそうとして――。
「――勿論、交渉のカードを用意していないわけではない」
引き攣る僕の前に、彼は二つ、小さな火の玉を出現させた。
弱々しく揺らめくその輝きからは――どこか、懐かしい気配がする。
「……お前、これって……!」
「ああ、君のご両親のものだ。今も、私の魂との強制契約は切れていない」
両親。
反抗ばかりしていて、結局、最後の言葉すらロクに交わせなかった。
その二人が、今、ここにいる。
「君がもし、私をこのまま切り捨てるというのなら――その前に、この魂を壊すことくらいは、私にだってできる」
「……はっ、やっぱり脅迫かよ。性根は変わらないな、クソ神父」
「……己の非道さはわかっているが、そうじゃない。私にそんなことをさせないでくれ」
彼は真っ直ぐに、こちらを見据える。
捻くれてしまった僕とは対照的な、曇りなき眼。事の善悪はあれど、彼の根っこからの願いは、ずっと昔から変わっていなかったのだろう。
「……これは、脅迫じゃない。この魂を無事に返すことが、唯一、今の私が見せられる誠意だと、そう思っている」
僕は――揺らいでいた。
親の仇。その最期の頼みなど、聞く必要がないと分かっているというのに。
それでも、あまりにも正面からぶつけられた、曇りのない願いに、僅かに心の扉が軋む音がしていた。
――もう、こいつには悪事を働く力は残っていない。
ならば、少しくらい譲歩してやってもいいのではなかろうか。少しくらい、情をかけてやってもいいのではなかろうか? 少なくとも、こうして屈折してしまった僕よりも、真っ当な願望だ。そして、これ以上傷付く人間を増やすわけでもない。
薪にされる一万の魂だって、術が成立したあとは解き放たれ、その大半が成仏できるだろう。なら、断る理由もない。
――そう、上辺だけの言い訳を、並べ立ててから。
「……お前を信じることはできないよ。何を言われても、何を見せられても、たとえ、どんな誠意を差し出されても、だ」
「……そうか、なら――」
「だけど」僕は、被せるように。
「お前の、奥さんを想う気持ちにだけは、信じるに足るだけの誠実さがあると思う」
驚いたように、リトラが顔を上げる。そこに、僕は首から外したロザリオを突きつけた。
親父の過ちが刻まれた、文字通り命よりも重く、命すらも捻じ曲げる。そんな、呪われた十字架を。
「一分間だ。それを超えたら、お前も、お前の奥さんも、僕が息の根を止める。その条件でもいいのなら、こいつを貸してやる」
「……いいのか?」
「お前が言ってきた癖に、何言ってんだよ。ほら、早くしろ。僕の気が変わらないうちにさ」
震える手で、リトラがロザリオを受け取る。冷たい鎖が指先を離れれば、何か、大きなものを失ってしまったかのような、そんな喪失感があった。
これで、よかったのだろうか。
もう一度、裏切られるかも知れない。今度こそ、こいつは僕を殺しに来るかも知れない。
命をかけて戦ってくれたリタにも、申し開きのしようがない。だが、今の僕の胸には二つの感情が突き立っていた。
――甘さから来る、人情と。
――そして、ほんの僅かな打算。
「……ありがとう、ジェイ坊ちゃん。この恩は、来世まで持っていくと誓おう」
それを知ってか知らずか、リトラはそう言い残して、ゆっくりと祭壇に歩いていく。